小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

正宗白鳥『入江のほとり』② 代用教員その2

 「辰は英語を勉強してどうするつもりなのだ。目的があるのかい」冬枯の山々を見わたしていた栄一はふと弟を顧みて訊いた。

    ブラックバードの後を目送しながら、「飛ぶ」に相当する動詞を案じていた辰男は、どんよりした目を瞬きさせた。すぐには返事ができなかった。
 「中学教師の検定試験でも受けるつもりなのか。……英語はおもしろいのかい」と、兄は畳みかけて訊いた。
 「おもしろうないこともない……」辰男はやがて曖昧な返事をしたが、自分自身でもおもしろいともおもしろくないとも感じたことはないのだった。
 「独学で何年やったって検定試験なんか受けらりゃしないぜ。ほかの学問とは違って語学は多少教師について稽古しなければ、役に立たないね」
 「………」辰男は黙って目を伏せた。
 「それよりゃそれだけの熱心で小学教員の試験課目を勉強して、早く正教員の資格を取った方がいいじゃないか。三十近い年齢でそれっぱかりの月給じゃしかたがないね」
 「………」足許で椚(くぬぎ)の朽葉の風に翻えっているのが辰男の目についていた。いやに侘しい気持になった。
 「今お前の書いた英文をちょっと見たが、まるでむちゃくちゃでちっとも意味が通っていないよ。あれじゃいろんな字を並べてるのにすぎないね。三年も五年も一生懸命で頭を使って、あんなことをやってるのは愚の極だよ。発音の方はなおさら間違いだらけだろう。独案内の仮名なんか当てにしていちゃだめだぜ」(中略)
    そう言った栄一の語勢は鋭かった。弟の愚を憐れむよりも罵り嘲るような調子であった。

(六)*再掲

 

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(大正期の卒業写真・北海道松前町松城尋常高等小学校、前列の先生のうち若い人は詰襟の学生服ですね!https://syakaikasyasin.sakura.ne.jp/syakai/mukasi_shool_syakai.html)

 

 ■ 給与の実態

 長男の栄一が辰男に向かって「それよりゃそれだけの熱心で小学教員の試験課目を勉強して、早く正教員の資格を取った方がいいじゃないか。三十近い年齢でそれっぱかりの月給じゃしかたがないね」と言っています。
 作品の時代背景は大正の初め頃と思われますが、その当時の小学校の先生の給与、待遇はどうなっていたのでしょうか。
 給与支給の主体は昭和15年(1940)までは都道府県ではなく、当該学校の設置者(市町村)でした。
 国や府県の一応の基準はあっても、市町村の財政状態いかんでは、教員の給与が低く抑えられてしまうことがよくありました。
 

 明治末から大正初期の資格別の初任給(平均)です。
  

 師範学校出身者の本科正教員 17~20円
                         准教員   約11円
           代用教員    9円 
    

 なんと、本科正教員でも、中学校出の判任官(下級官吏)の初任給よりも下でした。
 これが代用教員ともなると、銀行や会社の給仕・臨時雇あるいは日給50銭の労働者並みの待遇でした。(陣内靖彦『日本の教員社会』)
   

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(「大阪府学事関係職員録」(大正2年:1913)より。代用教員の月俸にご注目ください)

 

■   『田舎教師』(田山花袋)の主人公も

 郁治の父親は郡視学であった。(中略)
 家が貧しく、とうてい東京に遊学などのできぬことが清三にもだんだん意識されてきたので、遊んでいてもしかたがないから、当分小学校にでも出たほうがいいという話になった。今度月給十一円でいよいよ羽生在の弥勒(みろく)の小学校に出ることになったのは、まったく郁治の父親の尽力の結果である。

 時代は日露戦争の少し前あたり。中学校を卒業したものの家が貧しいために進学がかなわず、友人の父の紹介で小学校の代用教員となる青年・林清三の悲劇を描いた小説です。

  

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(明治34年‐1901‐埼玉県立熊谷中学校第2回卒業記念写真

この小林秀三氏が「田舎教師」のモデルです。

坊っちゃん』のモデルとも言われる弘中又一氏も数学教員として在籍していました。https://www.sankei.com/life/news/180325/lif1803250025-n1.html

 

■ 検定試験

 引用文中に栄一が「中学教師の検定試験でも受けるつもりなのか。……英語はおもしろいのかい」というところがあります。
 これは「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」のことで、通称「文検」(ぶんけん)と言いました。たいへんな難関で、明治三十五年(一九○二)前後では全教科を通じての合格率が10%前後であったということです。
 辰男にとっては現実的ではないと思ったのか、続けて「小学教員の試験課目を勉強して、早く正教員の資格を取った方がいいじゃないか。」とも言っています。
 これが明治33年(1900)の「小学校令施行規則」で定められ、各府県ごとに実施されていた「小学校教員検定試験」でした。
 師範学校卒業以外で小学校教員免許状を得る主な方法はこの試験に合格することでした。
    天野郁夫『学歴の社会史』は次のように説明しています。

 

 師範学校卒業の学歴をもっていれば、最高の資格である「小学校本科正教員」、師範学校講習科だと「尋常小学校本科正教員」が自動的に与えられる。(中略)また中学校や高等女学校卒業の学歴をもつものも、検定を受ければ、正教員の資格を手に入れることができた。(中略)
 その試験で試されるのは、基本的には国語、数学、歴史、博物といった「普通」教科の学力である。つまり、正規の学校に行かなくても、たとえば小学校で無資格の教員として、子どもたちを教えながら、参考書などで勉強していれば、比較的たやすく身に着けることができる学力である。(中略)
    正規の中等学校に行くことのできない若者たちにとって、教員の資格制度は、ささやかではあるが立身出世、社会的な上昇移動の希望を与え、夢を見させてくれるものだったのである。

(14教員社会・教師の試験病)

 

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(明治42年兵庫県の検定試験問題集、過去数年間の問題が掲載されています)

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(修身から体操まで試験がありました。問題は男女に分かれていました)

 教員検定には、無試験と試験(試験あり)の2種類がありました。
 無試験検定は、中学校・高等女学校卒業者(小学校本科准教員・尋常小学校准教員以上の免許状は教職経験が必要)、または県知事がとくに適任と認める者(教職経験年数と官公私設講習会の一定以上の受講時間をクリアーした者)が対象でした。
 一方、試験検定には、学科試験と実地検定(実地授業・身体検診)がありました。
 時期や地方によって差はありますが、低いところでは合格率20%程度という難関でした。(笠間賢二「小学校教員検定に関する基礎的研究―宮城県を事例として」)

 

正宗白鳥『入江のほとり』① 代用教員

  『入江のほとり』太陽』大正4年4月)の舞台は作者正宗白鳥明治12年~昭和37年:1879~ 1962年)の故郷・岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)です。

    白鳥は十人兄弟の長男でしたが、作品には主要な登場人物として、弟三名、妹一名、そして白鳥自身を元にしたと思われる人物(栄一)が出てきます。

    この作品は一種の家族小説であり、四男で小学校の代用教員をしている辰男という人物を中心にして話が展開します。

 

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 隣村まで来ている電灯が、いよいよ月末にはこの村へも引かれることに極ったという噂が誰かの口から出て、一村の使用数や石油との経費の相違などが話の種になっていた。(中略)
    が、辰男はこんな話にすこしも心を唆(そそ)られないで、例のとおり黙々としていたが、ただひそかにイルミネーションという洋語の綴りや訳語を考えこんだ。そして、食事が終ると、すぐに二階へ上って、自分のテーブルに寄って、しきりに英和辞書の頁をめくった。かの字を索(さぐ)り当てるまでにはよほどの時間を費した。
   「ああこれか」と独言を言って、捜し当てた英字の綴りを記憶に深く刻んだ。ついでにスヰッチとかタングステンとかいう文字を捜したが、それはついに見つからなかった。
    広い机の上には、小学校の教師用の教科書が二三冊あって、その他には「英語世界」や英文の世界歴史や、英文典など、英語研究の書籍が乱雑に置かれている。洋紙のノートブックも手許に備えられている。彼れは夕方学校から帰ると、夜の更けるまで、めったに机のそばを離れないで、英語の独学に耽けるか、考えごとに沈んで、四年五年の月日を送ってきた。手足が冷えると二階か階下かの炬燵(こたつ)の空いた座を見つけて、そっと温まりに行くが、かつて家族に向って話をしかけたことがなかった。(一)

 

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   「辰は英語を勉強してどうするつもりなのだ。目的があるのかい」冬枯の山々を見わたしていた栄一はふと弟を顧みて訊いた。

    ブラックバードの後を目送しながら、「飛ぶ」に相当する動詞を案じていた辰男は、どんよりした目を瞬きさせた。すぐには返事ができなかった。
   「中学教師の検定試験でも受けるつもりなのか。……英語はおもしろいのかい」と、兄は畳みかけて訊いた。
   「おもしろうないこともない……」辰男はやがて曖昧な返事をしたが、自分自身でもおもしろいともおもしろくないとも感じたことはないのだった。
   「独学で何年やったって検定試験なんか受けらりゃしないぜ。ほかの学問とは違って語学は多少教師について稽古しなければ、役に立たないね」
   「………」辰男は黙って目を伏せた。
   「それよりゃそれだけの熱心で小学教員の試験課目を勉強して、早く正教員の資格を取った方がいいじゃないか。三十近い年齢でそれっぱかりの月給じゃしかたがないね」
   「………」足許で椚(くぬぎ)の朽葉の風に翻えっているのが辰男の目についていた。いやに侘しい気持になった。
   「今お前の書いた英文をちょっと見たが、まるでむちゃくちゃでちっとも意味が通っていないよ。あれじゃいろんな字を並べてるのにすぎないね。三年も五年も一生懸命で頭を使って、あんなことをやってるのは愚の極だよ。発音の方はなおさら間違いだらけだろう。独案内の仮名なんか当てにしていちゃだめだぜ」
   「………」
   「娯楽(なぐさみ)にやるのなら何でもいいわけだが、それにしても、和歌とか発句ほっくとか田舎にいてもやれて、下手へたなら下手なりに人に見せられるようなものをやった方がおもしろかろうじゃないか。他人にはまるで分らない英文を作ったって何にもならんと思うが、お前はあれが他人に通用するとでも思ってるのかい」
    そう言った栄一の語勢は鋭かった。弟の愚を憐あわれむよりも罵り嘲るような調子であった。
 (六) 

    教育史的にはこの作品から、「代用教員」と「独学」という二つのテーマが見えてきます。順に見ていきたいと思います。

 

■ 正教員ー准教員ー代用教員
 

 代用教員。現在では死語に近いこの言葉ですので、辞書的に意味を確認しておきますと、「戦前の小学校等に存在していた、教員資格を持たない教員」(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)とあります。
    次に、明治末から大正時代にかけての小学校教員の実態について、陣内靖彦『日本の教員社会』(東洋館出版社)によって資格、給料の順に見ていきます。
 

尋常小学校教員の資格別割合:大正2年(1913)
 正教員(70.0%)  准教員(13.2%)  代用教員(16.7%)

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    明治末年には20%を超えていた代用教員の比率は、大正期に入りやや減ったものの、大正期を通じて15%前後を維持していました。
 
 こうした実態の背景を、同書は次のように説明しています。

 小学校教育の膨張は、必然的に教員数の膨張をもたらした。当局は「師範教育令」(1897年)によって師範学校の生徒定員を増やしたり、「師範学校規程」(1907)によって、新たに中学校、高等女学校卒を対象とする本科第二部を設けて、尋常小学校の正格教員の確保に努力してきた。その結果、正教員の絶対数は1895年(明治28)の3万人から、1908年(明治41)には二倍の六万人、1913年(大正2)には三倍の9万人にまで増えた。

 しかし、この間小学校の学級数自体の増加があるため、正教員は慢性的に不足が続いていた。この不足分は准教員と代用教員によって賄われた。その数は最も多いとき(明治末期)で、准教員2万人、代用教員3万人(全教員中に占める割合は合わせて約40%)にものぼった。こうした、正教員ー准教員ー代用教員、それに加えて、この時期特に増加する女教員という教員構成は教員数の増大に伴って教員界の内部に階層化をもたらすことになったのである。

 

 明治・大正から昭和戦前までの小学校教員養成は師範学校で行われていたのではというのが普通の認識でしょう。

 ところが、小学校教員免許状を取得した教員の実態は、そのような認識とは大幅に違っていました。

 小学校教員免許状取得者のうち、師範学校を卒業した人は3割程度で、残り7割はそれ以外の学歴を持つ者だったのです。
 中でも代用教員学歴は現在の高校にあたる旧制中学校の卒業者が多く、地方では中学卒業程度にあたる高等小学校の卒業者も珍しくはなかったということです。

 本作品の辰男については、学歴をうかがわせるような表現はありませんが、当家が相当な資産のある家として描かれていますから、中学校卒業とみていいのではないでしょうか。

 

 

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備前市穂浪の生家跡にある碑には『入江のほとり』の一文が刻まれています。https://blogs.yahoo.co.jp/rolly7440/34085472.html

 

# 20代後半の頃だったと思いますが、新潮社の『正宗白鳥全集』を買ったり、白鳥生家跡を訪れたことがありました。

 不思議と岡山県広島県、この二つの県出身の作家にご縁がありました。

 正宗白鳥木山捷平岡山県)。井伏鱒二阿川弘之広島県)。この方たちについては、一応全集(自選全集も含め)を買って読みました。(白鳥のは未読の方が多いかも)

高校同窓会 45年ぶりの人も❗️

 ◆18年ぶりの高校同窓会に行ってきました。さすがに参加者は過去最高の63人(37%)👌

クラス毎のテーブルでしたが、中にはお名前がわからない人も(特に女性)。

   とにかく、あっという間の三時間でした。

 

 ◆欠席者の近況報告が次第に載せてありましたが、多い言葉は「孫」「定年後」「介護」でした。そういう年代なんですね😔

 

 ◆恩師もお二人がお見えでしたが、私の三年時の担任U先生は御年87歳ですが、マジック歴うん10年👴とか。

   ネット検索してみると、地域でアマチュアマジックの指導者としてご活躍の様子❗️画像も結構出てきます。

    
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    「忙しくてボケる暇がない」というお言葉が大変印象的でした👍

 

◆理系のクラスにはいろんな科のお医者さんが六人も😀(全部で8人とか‼️)

   帰りにそのうちの1人、眼科のF君をつかまえて、白内障の相談をしました😅ちょっと安心❗️

    

◆幹事から、「昔とった杵柄」で校歌斉唱の指揮をしろと言われ、なんとか無事に終えることが出来ました😄

 

普通科4クラスで170名余りの卒業生に対して、物故者14人というのにはちょっとショックでした。

   生命保険会社に勤める娘が、60代前半の死亡率が8%と言っていたのにぴったり符合しています。

 

大庭みな子『津田梅子』③ ー女子英学塾の評判ー

 ブリンマー時代の梅子の人望と、その後の世界各地での風評がその根底にあると想像するが、次々と信じられない額の寄付がアメリカの友人たちから寄せられ、半年後にはフィラデルフィア委員会からの送金で、元園町一丁目四十一番地の醍醐忠順侯爵の旧邸を買い受けた。
 生徒数は一九○一年三月には三十余人、一九○七年には百四十人になった。ろくな広告もないままに口伝えで女子英学塾の名は全国に聞こえ、目醒めた若い女性がたちが将来を夢見て梅子の門を叩いたのだ。彼女たちはハイカラとは凡そ正反対な地味な梅子と英学塾の雰囲気に唖然としたという。
 一九○四年には専門学校の認可を受け、翌一九○五年に教員無試験授免の許可を得た。これで卒業生は日本で最初に女子の英語教員としての職場を得る特典を得た。専門学校なってから梅子は初めて月25円の手当を塾から得た。(第九章 創る)

 

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麹町区五番町の英国大使館隣接の地に移転した校舎、関東大震災による火災で焼失。 https://www.tsuda.ac.jp/aboutus/history/index.html

 

■ 無試験検定とは
   「一九○五年に教員無試験授免の許可を得た」とありますが、この「無試験検定」というのは、「特定の資格がある者に対して、試験をしないで検定を受けた扱いをすること」と辞書にあります。
 当時の中等学校教員(中学校・高等女学校・師範学校)の養成と資格取得について簡単に整理してしておきたいと思います。
(1)目的学校による養成・・・高等師範学校、女子高等師範学校、臨時教員養成所
(2)検定による資格取得
  ①無試験検定(出願者の提出した学校卒業証明書・学力証明書等を通じて判定する間接検定方式)
   ○指定学校方式・・・官立高等教育機関帝国大学、高等学校等)卒業生について検定する。
   ○許可学校方式・・・公私立高等教育機関の卒業生について検定する。
    哲学館(東洋大学)、國學院國學院大学)、東京専門学校(早稲田大学)等
   ②試験検定(出願者の学力・身体・品行を試験によって判定する直接検定方式)  

文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験(文検)

 女子英学塾は上記(2)の①「許可学校」の一つに加えられたということになります。

 

■ 女子英学塾の評判
 明治20年代の後半あたりから、「上京遊学ブーム」が高まり、それに合わせるように学校情報を載せたガイドブック的な「遊学案内」が多数出版されるようになりました。
 

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    明治39年(1906)に出版された『実地精査 女子遊学便覧』(中村千代松編 女子文壇社)には女子英学塾についてのユニークな解説が載っています。
  

 文部省認可の専門学校で入学程度は高等女学校卒業以上、本塾に学ぶものは余程頭脳の健全な学識の豊富な人でなければ到底他の塾生と歩調を一にして進むことが出来ないさうだ、教授法は現教授ミス、ハーツホアンが同塾から特に派遣されて伊太利で学び得た新式の方法を用ひて居る、現在生徒百七十名中三十名は寄宿で他は通学、既に高等女学校を卒業し多少知育も徳育も完全した人のみであるから、生徒の監督や家庭との連絡などに特に力を注ぐと云ふ様なことはない、又寄宿舎も舎生は皆な読書勉学に忙殺されて居るから、割烹実習とか家族的生活とかに時間を費やすことはせぬ、要するに此塾に這入つたものは徹頭徹尾読書の人とならねばならぬから、頭の鈍い人は無論不適当であるが、体質の悪い人も亦た不可ない兎に角幾多英語を教ふる私立学校の中で無試験で高等女学校師範学校の教員免許状を得る資格を有するは唯本塾をのみであるのに見ても如何に学課の秩序あり組織あり又高尚であるかが分かる、卒業生は前後三回都合二十一名であるが、其の傾向を見るに自ずから二つに分かれる、一つは学問に依って独立生活を送らうとするもので、大抵府下の官公立女学校に教鞭を執り、一つは他日交際社会に雄飛しやうとするもので上流社会の子女が多い。(新字体に改めました)

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■ 初期の卒業生

 明治三十年代後半から明治末あたりの女性の社会進出といえば、「女性に対して、産婆、女医、看護婦、電話交換手、速記者、婦人記者、事務員などといった新しい職種が開かれつつあったものの、女性の就業率は依然として非常に低く、明治期の女性の職業は女性教員と「女工」にほぼ限られていた」(ママトクロヴァ・ニルファル「女子英学塾における教育実践の成果に関する一考察」、早稲田教育評論 第 25 巻第1号)というような状況でした。
 こうした時代に同塾は明治36年(1903)に第1回の卒業生8人を送り出しています。そのうち英語教授にかかわった人は7名(3名が女学校教員)でした。
 

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 第10回(明治45年)までに、116名の卒業者を出していますが、女学校の教員を務めた人が61人でした。(上記論文) 
 その割合は、同じく高等女学校などの英語教員を輩出していた日本女子大学校や青山女学院と比べても格段に高い数字となっています。
 卒業生の証言に拠れば、梅子は塾長室の壁に掛けられた日本地図に、卒業生の就職先を示す「日の丸の旗」をピンでとめていたということです。梅子の卒業生に対する期待と愛情がうかがえるエピソードではないでしょうか。
 梅子の教育理念は、こうして着々と成果となって現れ、女子英学塾は開校後数年の間に、上の「遊学案内」に見られるような高い評価を得ていったのでした。

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(梅子は塾長室の地図に赤い印をつけて卒業生の就任地を確認していました。勤務先はおもに高等女学校でした。https://www.tsuda.ac.jp/aboutus/history/index.html )

 

現在の津田塾大学

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小平市のホームページにも紹介されています。
    https://www.city.kodaira.tokyo.jp/kurashi/001/001162.html

 

# 次回以降は「代用教員」をテーマに、正宗白鳥の作品を取り上げようと思います。

大庭みな子 『津田梅子』② ―女子英学塾開校―

■ 女子中等教育の開花と進展

 梅子が目指した女子の高等教育が普及するためには、前段階として女子中等教育の普及が必要でした。
 まず、高等女学校を初めとする女子の中等教育について、『学制百年史』によって大まかに見ていきたいと思います。

 

 文部省や府県においていまだ女子中等教育を充実させることができなかった時期に、女子中等教育に先鞭をつけたのはキリスト教主義の女学校であった。一般に発足当初の女学校は規模が小さく、個人の住宅などを校舎に充てたものが多く、私塾的な形態をとっていた。東京では桜井女学校、立教女学校、英和女学校などがキリスト教主義の女学校として創立された。全国の都市についてみると横浜のフェリス和英女学院、ミッションホーム、ブリテン女学校、長崎の梅香崎女学校、活水女学校、大阪の照暗女学校、梅花女学校、京都の同志社女学校などが明治三年から十三年ごろまでに創設された。これらの女学校の多くは英米婦人による英語教育を通じ、キリスト教に基盤をおく欧米の新しい人間観や社会観を若い女性に培った点で歴史的意義は大きかった。

(「明治初期の女子教育」ー私立の女学校ー)

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  (教壇に立っているのは、横浜共立学園(当時:偕成伝道女学校)2代目校長スーザン・プラネット(横浜開港資料館所蔵)

https://www.christiantoday.co.jp/articles/15316/20150213/yokohama-kaikou-shiryokan-girls-be-ambitious.htm

 一方で、公立の女子中等教育機関については次のような展開が見られました。

 明治三十年代の初頭には、諸学校制度の改革を行なったが、その際に、高等女学校に関してもこれを独立の学校令によって規定し、中学校令から分離させることとした。三十二年二月八日には、従来の高等女学校規程を改めて、新たに「高等女学校」令を公布した。(中略)
    高等女学校令制定について樺山文相は、三十二年七月の地方視学官会議において、女子高等普通教育に関して次のように説明した。高等女学校は「賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ、故二優美高尚ノ気風、温良貞淑ノ資性ヲ涵養スルト倶ニ中人以上ノ生活ニ必須ナル学術技芸ヲ知得セシメンコトヲ要ス。」ここでは、女子の高等普通教育が中流以上の社会の女子の教育であり、その特質がいわゆるのちの「良妻賢母主義」の教育にあることを明らかにしていた。

(二高等女学校令の制定)

 女子に難しい学問は要らないという伝統的な「良妻賢母主義」の教育観が基底にあったことがわかります。
 そういう考え方から、女学校も地方にあっては、明治末から大正・昭和にかけて実科高等女学校とか裁縫女学校という形態が多く見られました。
 例えば、明治末頃、実科高女の裁縫科の時間数は高等女学校の約4倍で、カリキュラム中の40~50%を占めていたということです。(稲垣恭子『女学校と女学生』中公新書
 これらの学校では、男子の中学校で重要視されていた英・数・国・漢・理などの授業は比較的少なく、その代わりに裁縫・家事が置かれていました。

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 秋田県能代港町立能代実科高等女学校 裁縫室 (1916:大正5)http://historyjapan.org/educational_policy_2

 

■ 女子英学塾開校

 高等女学校の数が増えてくるにつれ、女子の高等教育機関の必要性が叫ばれてきます。
 しかし、明治三十年の時点において、女子高等師範学校(後の東京女高師、現在のお茶の水女子大学)一校があるのみでした。
 この学校は、言うまでもなく高等女学校の教員養成のための学校であり、梅子の望むような学校ではありませんでした。
  

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(女子師範学校―女高師の前身―明治23年:1890、本科卒業生https://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/entry/jousetsu148.php

 女性に高等な教育は有害無益であると考えられていたそんな時代環境でしたが、梅子の志に賛同する有志の協力を得て、「女子英学塾」の設立願い東京府に提出されたのは明治33年(1900)7月のことでした。
 設立願に添えられた規則には梅子の教育方針が盛り込まれていました。

 

第一条 本塾は婦人の英学を専修せんとする者、並に英語教員を志望する者に対し、必要な学科を教授するを目的とす。但し教員志望者には文部省検定に応ずべき学力を習得せしむ。
第二条 本塾の組織は家庭的の薫陶を旨とし、塾長及び教師は生徒と同居して日夕の温育感化に力め、又広く内外の事情に通じ、品性高尚に体質健全なる婦人を養成せんことを期す。但し生徒の都合により特に通学を許可することあるべし。 

 なお、この年は女子美術学校(現在の女子美術大学)、吉岡弥生東京女子医学校(現在御東京女子医科大学)が設立された年でもありました。
 さらに翌年には成瀬仁蔵日本女子大学(現在の日本女子大学)の設立を見ています。
 
   こうして誕生した梅子の女子英学塾は、麹町区(現・千代田区)一番町十五番地にあった建坪83坪の借家で、教室として六畳二間が充てられました。開校時の塾生は十人でした。
 
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山崎孝子『津田梅子』(吉川弘文館 人物叢書)より

 

#   現役時代、20年余りの間、学級担任をしていました。その間8回、卒業生を送り出しています。人数にすると、三百数十人でしょうか。その中に一人だけですが、津田塾に進んだ人がいました。

   私が母校に勤務していた30年近く前のことで、私たちの地域から東京の私大へという女子は少なかった頃でした。

  そのIさんは勿論成績優秀(特に英語が)で、早くから津田塾と志望を固めていたようでした。

  綾小路某ではありませんが、「あれから三十年!」

   書きながら、ふと平成の初めの頃のことを思い出してしまいました。

 

 

趣味あれこれ 落語会 「あべのでじゃくったれ」


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 贔屓の噺家さん、桂雀太さんの落語会。(東は瀧川鯉昇さんが贔屓で三月末に福井まで追っかけ(笑))二ヶ月ぶり、今年二回目です。会場はあべの近鉄の9階。

 

(演目)

桂源太    兵庫船

桂雀太    始末の極意

桂米紫    宗論

桂雀太    崇徳院

四席ともフルバージョンを堪能させてもらいました👌

 

   当日整理券方式(90分前配布開始)なのですが、会場の二階下にジュンク堂があるので、開場まで待つには好都合です。

   また、昨日から同じフロアで北海道物産展をやっていて、待ち時間に予定になかった買い物(お土産)も。入場料1500円より、それ以外の出費が多くなりました。


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80席余りの会場

常連のお客さんも多いみたい。

 

 

#    待ち時間に会場と同じフロアの喫煙所に入ると、奥で雀太さんと米紫さんが一服中。

福井の鯉昇さんのときは、休憩時のトイレでニアミス。

どちらも、ちょっとサインはお願いしにくい状況ではありますね😥

 


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合計で落語一回半というところでしょうか😁

大庭みな子 『津田梅子』① ~私塾創設へ~

モリス婦人宛の手紙
               一八九九年十二月二十八日
 昨年お話ししたように、華族女学校を今年度が終わったら辞めるつもりです。どんなにこの時を待ち望んでいたか、わかって下さると思います。幼い貴族の子女を教えるという名誉はあるにしても、・・・・・私の計画はより高等な教育、とくに英語で政府の英語教育者の資格試験に備えようというものです。
 今のところ、私立校でこの試験に備えた教育をするところは皆無で、女性で試験を受ける人はほとんどいません。
 国立の女子師範学校は大変良い教科を教え、教員養成をしていますが(英語はない)、実際に職場を得られる人の数は限られていますし、卒業後の義務や制約があるので、問題があるのです。私は女子の高等教育に全力を尽くしたいので、どうしても自分の学校を持ちたいのです。(中略)
 とにかく、仕事始めるための建物と敷地を手に入れるには三千ドルから四千ドルかかります。来年の夏までにどうしようかと頭を悩ませています。
 この計画にすっかり頭のいっぱいな私は、どうしたらこの資金を集められるかあなたにご相談すれば、助けていただけるのではないかとお願いの手紙を書いている次第です。
(後略) (『津田梅子文書』より)

 梅子はついに私塾創設の機は熟したと判断したのだ。思えば長い歳月であった。華族女学校で教え始めて以来、十数年の歳月が流れていたが、梅子の内部世界では恐らく物心ついて以来、いや七歳のとき日本女性の未来のため、自分は外国に学ばねばならぬとその幼い魂に刻みつけられて以来の、培われ、成熟し、ついに発酵し始めた想念だったに違いない。

 

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   ここまでの津田梅子の足跡を簡単にまとめてみました。
 

 

    元治元年(1864)旧幕臣津田仙の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれる。
    明治4年(1871)5人の女子留学生のうち最年少(7歳)でアメリカに留学、岩倉使節団とともに横浜を出発する。

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    ジョージタウンで日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン 夫妻の家に預けられる。英語、ピアノなどを学びはじめ、市内のコレジエト・インスティチュートへ通う。
    明治11年1878年)コレジエト校を卒業し、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学。ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ。
    明治15年(1882年)7月に卒業。同年11月には日本へ帰国する。 
    明治18年(1885年)華族女学校で英語教師として教え始める。
    明治22年(1889年)7月に再び渡米。フィラデルフィア郊外のブリンマー・カレッジ  で生物学を専攻する。
  

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(ブリンマー・カレッジ在籍時)

    明治25年(1892年)8月帰国。再び華族女学校に勤める。
    明治27年(1894年)明治女学院でも講師を務める。
    明治31年(1898年)5月、女子高等師範学校教授を兼任する。
    明治33年(1900年)に官職を辞して、父の仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、同年7月に「女子英学塾」の設立願を東京府知事に提出。(ウィキペディア参照)

 

 

#     「明治の初めに、わずか七歳でアメリカへ!」

    このことは前から何となく知っていましたが、幼い娘に留学させようと決意した父・津田仙の経歴を知って、少しは理解できる部分もありました。

    旧幕臣の仙は早くから蘭学、英学を学び、外国奉行の通訳も経験しています。

   慶応三年(1867)には福沢諭吉らと幕府の軍艦引き取り団の通訳として、渡米しました。

    我が国の近代化には英語力を基礎とする洋学が必要ということを、痛切に感じ取ったのだと思われます。

    まあ、しかし、いくら開明的・進歩的な思想の持ち主とはいえ、この時代に幼い娘を渡航させるとなると、並大抵の決断力ではありませんね‼️