小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

趣味あれこれ 落語会「あべのでじゃくったれ」


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田植えが終わってから、先週金曜日の西明石・浪漫笑に続き、二回目の落語会。

偶数月に阿倍野近鉄百貨店で雀太さんが主宰してます。


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今回はNHKの「新人落語大賞」を雀太さんの前の年、2015(平成27)に受賞した桂佐ん吉さんがゲストということで、楽しみにしていました。


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名前から分かるように、故桂吉朝さんのお弟子さんです。生で聴くのは初めてですが、さすがに確かな実力を感じさせてくれる高座でした👍

 

雀太さんの「らくだ」は初高座みたいでしたが、50分近い熱演。私も初めて生で全部聴きました。

二人は「若手噺家グランプリ」の優勝候補らしく、マクラの話の中にもライバル意識をうかがわせる言葉が💦(24日が決勝とか。九人の決勝進出者の顔ぶれから見ると、このどちらかが優勝と予想しますが😊)

 

#  会場の隣では今日から沖縄物産展が開催されていて・・・


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そういえば、前回は北海道物産展やったかな(笑)

 

##  この世界は1日でも早く入門してたら「兄さん」らしく、42歳の雀太さんが35歳の佐ん吉さん(高校生のときに入門)を、そう呼んでいました😁

渡辺淳一 『花埋み』③ 日本初の女医誕生

 

 「法というのは絶対なのでしょうか」

 「法治国である以上法に従うのは致し方ない。だが女医者の場合は女の医者は困るというだけで、『女が医者になってはいけない』という条文はない。・・・・・」(中略)

 「おそれながら、女医という言葉でしたら以前に書物を読んでいた折り、見たことがございます」
 「何という本かね」忠悳(ただのり)は大きな体をのりだした。
 「たしか『令義解』(りょうぎのげ)という書物でございます。それに『女医博士』という言葉がはっきりと記載されておりました」(十一)

  

    この話を聞いた石黒は、国学者井上頼圀(よりくに)の添え書きをもって、時の衛生局長・長与専斎を三度にわたって訪問して、医師開業試験の女子受験許可を懇願し、半年後の明治十七年(1884)に「女性の開業医受験を許す旨の布達」が正式に出されました。このとき吟子はすでに33歳になっていました。
    同年九月三日、吟子は医術開業試験前期試験を受け、女性三人の中で一人合格しました。そして翌明治十八年(1885)三月、後期試験にも合格。

 

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                   (http://www.gendaipro.jp/ginko

 

    かくして政府公許の女医第1号が生まれた。(中略)合格と同時に吟子は当時の淑女の礼装である黒地に、胸と袖にモールが走り、襟元と袖口に白いフリルのついた服と、羽の付いた広い庇(ひさし)帽子を買って、浅草田原町の写真店で、写真を撮った。 
 丸椅子に座り帽子を手に持ち、軽く右半身に胸をそった姿は、今も現存するが、いかにも吟子の誇りと気概を表してあまりある。(中略)
 ちなみに吟子が医師免許証を得る直前の明治十七年末における全国の医師の状態を見ると、医師総数は四○八八○人、このうち吟子のように開業医術試験に及第して医師となった者が三三一三名、大学東校(東大医学部)卒四九四名、府県医学校卒八六名、外国医学校卒七名という分布であり、他は奉職履歴一六四○名、従来開業三五三一九名、限地開業二一名ということになる。
 新しい医制の過渡期で、正規の試験や大学、医学校を出ないでこれまで医術をやっていたと言うだけでそのまま医者として認められた者は実に全体の九割を占めていたのである。(中略) こうして待望の荻野産婦人科医院が開業した。明治十八年の五月である。(十二)

 

 

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  (現在撮影が進行中の映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』から)
 

■ 無駄ではなかった学問の長い道のり 

 吟子が女医を志願してから、なんと15年の歳月が流れていました。
 女子の高等教育機関は女子師範(後の女高師)一つしかなく、私立の医学校では迫害に近い苦学を余儀なくされ、開業試験受験では制度の壁にも阻まれましたが、持ち前の不屈の精神と強い向学心・探究心、それに理解ある周囲の人々の支えが、日本初の女医誕生を可能にしたと言えるのではないでしょうか。

 

 故郷で養った漢学の素養に加えて、国学者井上頼圀の私塾での修学も吟子にとって大変大きな意味をもっていました。

 上で見たように、女医の解禁を石黒忠悳に願い出たとき、井上塾で習った『令義解』の中の「女医博士」の一語が吟子の前に途を開いてくれたのでした。

 吟子にとって、井上塾と女子師範での五年余の修学は、いわば医学を学ぶ前段階としての少し長めの「教養課程」であったということになるでしょうか。

 決して系統立った学問の修め方ではありませんが、その回り道も、その後の女医としての生き方に大きく裨益したと思われます。

 

■ 只今、映画製作中!

 日本の女性医師第1号となった荻野吟子の苦悩と愛、闘いの人生を描く映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』(現代ぷろだくしょん製作)の製作発表会がこのほど東京都内で行なわれ、山田火砂子監督と主演の若村麻由美さんら出演陣が顔を揃え、抱負などを語った。

 1851年に現在の埼玉県熊谷市で生まれた荻野吟子は16歳で結婚後、夫に性病を移され、「子どもの産めぬ嫁はいらない」と実家に帰されて19歳で離婚。自分と同じ運命に泣いている女性たちのために医者になることを決意する。当時の日本には女性に医師の資格を与える制度はなく、十数年に及ぶ闘いの末、34歳のときようやく許可され、1885年(明治18年)に女性医師第1号に。しかしその後も北海道に渡り、社会活動に心血を注ぐ吟子の闘いは続いた。

 日本の女性監督で最高齢(87歳)の山田監督は「女性だから合格させない医科大学が問題になった。日本はいまだ男尊女卑が残っている。その原型とも言えるのが荻野吟子。女性解放のために闘い続けた彼女の人生を描き、もっと女性が強くなり、政治を変えてほしいとの思いでこの映画を撮りたい」などと語った。山田作品は初めてとなる若村さんは「山田監督の情熱に打たれた。今を生きる人の応援歌に、これからを生きる子どもたちの未来のために、荻野吟子の壮絶な闘いと生きざまを伝えられたら」などと抱負を述べた。

 再婚相手でキリスト教信者として共に北海道に渡る志方之善役の山本耕史さんも「時代を切り開き、力強く生き抜く高い志。それを演技に込めたい」などと語った。そのほかの出演者は渡辺梓さん、綿引勝彦さん、山口馬木也さんら。

 4月から地元の埼玉県や北海道などでロケを敢行。9月公開を予定している。日本赤十字社、日本女医会などが後援。製作協力券を発売中。現代ぷろだくしょん(TEL 03・5332・3991)。

片岡伸行・記者、2019年4月12日号)

http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2019/04/25/antena-463/

 

 

 昨年、東京のある私立医科大学の不正入試が大きなニュースとして取り上げられました。

 その中で、女子受験生と多浪受験生は一律減点のハンディキャップを課す得点操作がおこなわれていたことが報じられていました。

 医学界には、いまだに「男尊女卑」「男性優位」の古い体質が残っているのだなと実感させられたものでした。

 平成、令和の時代でさえそうですから、明治の前期はまさに筆舌に尽くしがたいものがあったことでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

渡辺淳一 『花埋み』② 医術開業試験に向けて

 

    明治十二年の二月、吟子は第一期生の首席を守り通して東京女子師範を卒業した。入学したとき、七十四名いた生徒は、この時わずか十五名になっていた。女子師範の教育がいかに厳しかったかということが、このことからも想像できる。
 十五名の生徒は卒業式の日、幹事の永井久一郎教授から、それぞれ卒業後の志望を尋ねられた。
 「女医者になりたいのです」
 頼圀(よりくに)の門にいた時は恥ずかしくて口に出せなかったことが、今は平気で言えた。吟子がそれだけ逞(たくま)しくなったこともあるが、時代はそんな言葉を吐いても気狂い扱いされぬだけには変わっていた。(中略)
 すでに官立の昌平黌(大学本校)は着々と整備されていたが、他に個人が開いた私立医学校がいくつかあった。だがこれらはいずれも女人禁制である
 「これまで勉強を続けてきたのもすべて女医者になるためです」
 「しかし女が医者のような殺伐な仕事をしたいなどと言えば、親兄弟から見放されるであろう」
 「すでに見放されました」「そうか・・・・」「何とかいい方法はないものでしょうか」(九)

 

 吟子は、永井から当時の医界の有力者で、陸軍の軍医監の石黒忠悳(いしぐろただのり)を紹介され、下谷の好寿院という私立の医学校に入ることになります。女人禁制の医学校ばかりの中で、唯一女子を引き受けてくれたのがこの学校でした。
   ここで3年間の勉学を続けますが、この間は家庭教師をしながらの、苦闘の3年間でした。
 好寿院では女性ということで種々の困難がありました。3年間の通学は、男子用の袴(はかま)に高下駄(たかげた)の男装したというエピソードが残っています。

 

■  医術開業試験
 さて、ここでその当時、ごく一部の官公立の医学校を除き、医師を目指すほとんどの人たちが受けていた「医術開業試験」について見ておきたいと思います。
 
 

    医術開業試験は、1875年(明治8年)より1916年(大正5年)まで行われていた、医師の開業試験である。1885年(明治17年)以降、「医術開業試験」の名称となる。 
    医術開業試験では西洋医学の知識を問う問題が出題された。それまでは医師といえば、医師は漢方医が主流であったが、医術開業試験の導入により新規に開業する医師は西洋医学の知識が必須になった。これは、近代日本での医師の西洋化において画期的な出来事であった。
 医師免許は、医術開業試験合格者の他、医学教育機関の卒業者に対しては無試験で与えられた。
 受験資格として1年半の「修学」しか求められていなかったため、事実上独学でも受験可能な「立身出世の捷径」であった。合計で2万人を超える合格者を輩出し、大学や医学専門学校の卒業生が少数に限られていた明治期日本の開業医の主要な供給源となっていた。大正初年の医師総計約4万人中、従来開業の医師(漢方医)約1万人を除く西洋医約3万人のうち、試験合格者は約1万5000人、医学専門学校等の卒業者約1万2000人、帝国大学卒業者約3000人であった。
 野口英世がこの試験により医師免許を取得したことで有名である。
   (出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

 

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(野口 英世、明治9~ 昭和3年:1876~1928年)

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(医師開業免状、東京大学で医学を修めた人のもの)

 

■ 私立医学校の実態

 医学校というと、系統的なカリキュラム、各分野の専門家のそろった教授陣、付属の病院などと想像してしまいます。ところが、当時の私立の医学校というのは、この「医術開業試験」を受けるための「予備校」なのでした。
    中でも、明治九年(1876)に創設された済生学舎は、野口英世がここで学んだことでもよく知られていますが、当時最大の私立医学予備校でした。
 天野郁夫『試験の社会史』(東京大学出版会、1983年)には、そこでの実態が次のように記されています。
 

 この学校は明治三十六年に廃校となるが、それまでに教育した生徒の数は二万一千人、医術開業試験の合格者は一万二千人近くに上り、明治三十六年当時の「新医」の過半数は、この済生学舎一校の卒業者で占められていたとされる。(中略)
 済生学舎の設立者、長谷川泰は「ドクトル・ベランメー」として知られた奇行の多い人物で、東京医学校の教師や長崎医学校の校長をつとめ、代議士になったこともある。
 その長谷川の済生学舎は「医学校とはいふけれども大道店」同然の、純然たる予備校であり、教師は全員非常勤でほとんどが東京大学医学部の助手であった。官公立の医学校と違って入学資格の制限がないだけでなく、カリキュラムもなければ学年制も進級制も、したがって試験もない。授業は朝五時から夜九時まで、ぶっ通しで行われ、一円の月謝さえ払いさえすれば、どれだけ聴講してもよい。問題は、あくまでも「開業試験にパスすることであり、能力と意欲さえあれば、官公立学校に学ぶよりもはるかに短い時間と少ない資金で、医師資格を取得することが可能であった。

 

# 江戸時代以前の医者というと、正式に医術(医学ではない)を師について学んだ人はまだしも、儒学者が独学で中国の医書を読んだり、中には無学文盲に近い人もいたと言われています。

 医者になるのに資格試験はありませんでした。極端に言うと、医者になろうと思ったら誰でもなれたのです。

 藩政時代の「○○村明細帳」などを見ると、小さな村にも「医師一名」などとあって意外な感じがしますが、まあ普通のことだったのでしょうね。

 落語では、そうした「頼りない医者」の登場する噺がいくつかあります。

 「夏の医者」「ちしゃ医者」「薮医者」「金玉医者」などがそうです。

 中でも「薮医者」は今に残る言葉ですが、その解釈には色々とあるようで・・・・。

渡辺淳一『花埋み』① 東京女子師範

 この『花埋み』(はなうずみ)は、日本最初の女医である荻野吟子の生涯を題材とした作品です。

 

 明治八年十一月、東京女子師範は東京本郷お茶の水に開校した。この学校はのち東京女子高等師範と改められ、現在のお茶の水女子大学に至っている。
 第一期生はぎんを含めた七十四名であった。
 開校式当日、昭憲皇太后はみずから女子師範へ行かれ、
 みがかずば、玉もかがみもなにかせん、
   学びの道も、かくこそ、有けれ
 との歌を寄せられた。 

 (中略)
 女子師範学校の修業課程は足かけ五カ年であり、その課程は十級に分かれていたが、学科目は、読物地理、読物地理学、読物歴史、歴史、物理学、化学大意、修身学、雑書、習字、書取、作文、数学(算術、代数、幾何)、読物経済学、博物学、教育論、記簿法、養生書、手芸、唱歌、体操、受業法、実地受業と実に多岐に亙(わた)っている。生来の利発さに加え、人一倍の頑張り屋であった吟子は、ここでも群を抜き、たちまち首席となった。
 こんなふうに科目が多かった故(せい)もあるが、とにかく当時の教育は暗記することが多かった。おまけに教師たちはどれも勉強家で、教え込もうというファイトに燃えている。これでは教師はまだしも、教えを受ける生徒の負担は並大抵ではなかった。
 代数の宿題だけでも多いときは二百題も与えられる。生徒たちはそれに負けず、忍耐強くねばる。まさにスパルタ式の詰め込み主義だが、ここから後年の「天下の女高師」の名声が生まれたとも言える。(九)

 

 

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(荻野吟子の略年譜)
■1851(嘉永4)3月3日 現埼玉県熊谷市俵瀬で名主荻野綾三郎の五女として誕生
■1868(慶応4) 埼玉県熊谷市名主稲村貫一郎に嫁ぐ 18歳
■1870(明治3) 病気、離婚 順天堂病院に入院
■1871(明治4) 退院実家で静養。女医志望決意
■1873(明治6) 上京 井上塾に入門 23歳
■1874(明治7) 甲府 内藤塾に助教として招かれる
■1875(明治8) 東京女子師範学校に入学
■1879(明治12) 同校卒業 私立医学校「好寿院」に入学
■1882(明治15) 好寿院を卒業
 東京府へ開業医受験願2回提出 却下。
 埼玉県へ受験願提出1回 いずれも却下
■1884(明治17) 衛生局長に面会。医術開業前期試験に合格
この年、京橋新富座キリスト教大演説会を聞き強い感銘を受ける
■1885(明治18) 医術開業後期試験に合格。女医第一号となる
産婦人科・荻野医院開業 35歳
■1886(明治19) キリスト教に入信。本郷教会で海老名弾正から洗礼を受ける
 キリスト教婦人矯風会に参加、風俗部長となる
■1887~1888
 (明治20~21) 大日本婦人衛生会幹事
■1889(明治22) 明治女学校講師・校医となる
■1890(明治23) 志方之善と結婚 吟子40歳 之善26歳
 婦人矯風会自由党大成会に婦人の議会傍聴禁止撤回を陳情
■1891(明治24) 之善 理想郷を目指し渡道
■1892(明治25) 明治女学校舎監
■1894(明治27) 吟子 之善の渡道要請に即応できるよう明治女学校他諸職を辞任 
6月渡道 インマヌエルに居住
■1896(明治29) 国縫に転居 本籍を移し半年間居住(夫鉱山開設のため)
■1897(明治30) 吟子 瀬棚に転居 「荻野医院」を開業
 淑徳婦人会を結成し会長となる。日曜学校を創設する
■1898(明治31) 之善 瀬棚に転居
■1903(明治36) 之善 同志社に再入学。吟子 札幌に医院を開業
4月17日、吟子病気となり、熊谷の姉の実家で転地療養
■1904(明治37) 之善 同志社を卒業。 北海道浦河教会の牧師となる
■1905(明治38) 4月 浦河教会の牧師を辞し、瀬棚に帰る
7月 吟子 瀬棚に帰る
9月23日 之善 病死
■1908(明治41) 12月 吟子帰京 (58歳) 本所区新小梅町に開業
■1913(大正2) 3月23日 吟子 肋膜炎発病、病床に臥す    6月23日 永眠

北海道久遠郡せたな町ホームページより、http://www.town.setana.lg.jp/ogino/article48.htm

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(創設時の東京女子師範学校、「ジャパンアーカイブズ」、 https://jaa2100.org/entry/detail/034029.html

 

■東京女子師範創設
 当校の創設の経緯を『日本近代教育史事典』(平凡社、1971)は次のように記しています。
 

 女子教育前進の背景としてあげられるものは、明治六年招かれて来日し、文部省督務官(翌年学監と改称)に就任したデイヴィド・マレー(David Murray、1830~1905、アメリカ合衆国の教育者、教育行政官)が在任中、数回にわたり「申報 」を文部当局に提出したことである。

 

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 マレーは我が国の教育事情を視察した上で、女子教育の必要なことを具体的に述べ、欧米諸国における実情にもふれ、女子教育振興の具体策として女子教員養成問題にもふれ、将来教員を志望する若い女子を東京女学校(明治四年、初の官立高等女学校として開校、明治十年廃校)に入学させることを提案している。その結果、明治七年の太政大臣三条実美にあてた田中文部少輔の建白書となり、女子師範学校設立の布達が発せられるに至った。明治八年開校の女子師範学校は、その後幾多の変遷はみたが、我が国の女子教員養成の中心として発展した。

 

■ 東京女子師範に学んだ鳩山春子
    鳩山春子(旧姓多賀、文久元年~昭和13年:1861~1938、鳩山和夫の妻、長野県生まれ。明治19年共立女子職業学校〈共立女子大〉創立、大正11年同校六代目校長となる)は、16歳のときに当時学んでいた官立の東京女学校(竹橋女学校)西南戦争による経費節減のため廃校となったために、この東京女子師範学校の別科英学科に入学しました。11年7月に首席で卒業し、同年9月に師範学校師範科本科に入学しました。

 

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(http://alpico.jp/yomi/kyakko/kyakko9.html)

 後に、『我が自叙伝』(日本図書センター、1997年)の中で、東京女子師範時代を振り返って、次のように述べています。

   これ(竹橋女学校の生徒は上流階級の令嬢が多く、服装も華美)に反して師範学校の方では全然入学者の気分が異(ちが)い、服装からして第一質素であります。(中略)大部分は志を立てて学問に従事した人々でありましたから、どうしたって緊張した気分を持っています、兎に角余程確乎した人の揃ったものでありました。(中略)

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 (「開校当時の風俗画に於ける本校生徒ー縞の袴と徽章の簪、『東京女子高等師範学校六十年史』より)

   そして生徒たる以上は必ず入舎せねばならぬことになって居たものでした。官費でしたがその自分一ヶ月四円五十銭で万事賄うのでありました。ただしその当時は物価が非常に廉く、賄費は三円以下、書物は悉皆(すっかり)学校で貸したから、殆ど小遣は入らぬ位で髪は互に結い合うという風でありました。(中略)
 竹橋女学校の暗記は英語を覚ゆる為と思えば面白かったが、日本語の暗記はつまらぬ様に思われました。それは少しも実力養成という方面には力を尽くさないで、器械的に覚え込む様な気がしたからであります.竹橋女学校の自分は英語の力が付くと思って一生懸命でしたが、日本語でしかも地理にしても何国の産物だとか、場所の位置名称だとか又は金石などはその比重だとか、動植物学はその分類だとか、化学の如きも何々の製造とい風に矢張り無意識の暗誦のものが多く、且つ先生方がみな勉強家で専門的に沢山教えて下さるので暗記するのが随分困難でありました。(中略)
    こういうわけですから、生徒の中には随分勉強家が多くて、何誰でも一生懸命に唯日も足らぬと言う具合に励まされたものです。

    荻野吟子の場合は同郷の先輩に勧められての入学でした。自分の目指す医学校はもちろん、それ以外の分野でも女子の学べる高等教育機関がまだ設立されていない時代でした。
 春子も、上で見たように他に適当な学校がなく、やむを得ずこの東京女子師範に学んだのでした。
 とにかく、学問に目覚めた女子にとって勉強の機会を与えてくれる唯一の官立学校が、この東京女子師範だったのです。
 全国各地から男勝り(?)の才媛が集った当校の「暗記主義」「注入主義」がよくうかがえる回想となっています。

 

# 春子が松本城下の我が家を出立したのは明治7(1873)年の4月、13歳の時でした。父と娘は「駕籠」で東京へ向けての長い旅を開始したと自叙伝にあります。

## 鳩山家系図鳩山会館ホームページ

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田山花袋『田舎教師』⑤ 日露戦争下の小学校

   日露開戦、八日の旅順と九日の仁川とは急雷のように人々の耳を驚かした。紀元節の日には校門には日章旗が立てられ、講堂からはオルガンが聞こえた。(中略)交通の衝に当たった町々では、いち早く国旗を立ててこの兵士たちを見送った。停車場の柵内には町長だの兵事係りだの学校生徒だの親類友だちだのが集まって、汽車の出るたびごとに万歳を歓呼してその行をさかんにした。(四十四)

 

 

    戦争はだんだん歩を進めて来た。(中略)それがすむと、卒業証書授与式が行なわれた。郡長は卓の前に立って、卒業生のために祝辞を述べたが、その中には軍国多事のことが縷々(るる)として説かれた。「皆さんは記念とすべきこの明治三十七年に卒業せられたのであります。日本の歴史の中で一番まじめな時、一番大事な時、こういう時に卒業せられたということは忘れてはなりません。皆さんは第二の日本国民として十分なる覚悟をしなければなりません」平凡なる郡長の言葉にも、時世の言わせる一種の強味と憧憬とがあらわれて、聴く人の心を動かした。 (四十六)

 

 

    行田からの帰り途、長野の常行寺の前まで来ると、何かことがあるとみえて、山門の前には人が多く集まって、がやがやと話している。小学校の生徒の列も見えた。
  青葉の中から白い旗がなびいた。
  戦死者の葬式があるのだということがやがてわかった。清三は山門の中にはいってみた。白い旗には近衛歩兵第二連隊一等卒白井倉之助之霊と書いてあった。五月十日の戦いに、靉河(あいが)の右岸で戦死したのだという。フロックコートを着た知事代理や、制服を着けた警部長や、羽織袴の村長などがみな会葬した。村の世話役があっちこっちに忙しそうにそこらを歩いている。
  遺骨をおさめた棺は白い布で巻かれて本堂にすえられてあった。ちょうど主僧のお経がすんで知事代理が祭文を読むところであった。その太いさびた声が一しきり広い本堂に響きわたった。やがてそれに続いて小学校の校長の祭文がすむと、今度は戦死者の親友であったという教員が、奉書に書いた祭文を高く捧げて、ふるえるような声で読み始めた。その声は時々絶えてまた続いた。嗚咽する声があっちこっちから起こった。

 柩が墓に運ばれる時、広場に集まった生徒は両側に列を正して、整然としてこれを見送った。それを見ると、清三はたまらなく悲しくなった。(四十九)

 

 

 

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日露戦争出征列車、

ジャパンアーカイブズ - Japan Archives 日本の近現代史150年をビジュアルで振り返る

■ 文部省の訓令
 ロシアに対して宣戦布告した明治37年(1904)の3月10日、文部省は、戦争下における教育について訓令を出しました。
 それは「教育に従事する者は、戦争下といえども、平生の沈着なる態度を変えることなく、その職務を遂行すること、生徒をして、一勝一敗の報に接して常度を失することがないようにすること、生徒が課業をなげすてて、軍人の送迎をすることがないようにすること、生徒が父兄に強要して、献金をするようなことをしてはいけないこと、教員が出征した場合は同僚が応召者の職務を分担すること」などを指示したもので、学校教育が戦争の渦に巻込まれないようにとの配慮でした。文部大臣は、学校生徒の提灯行列を禁止したい旨の発言をもしたということです。
 しかし、戦争に対する一般の人々の熱狂は、学校生活にも影響を与えずにはいませんでした。上の訓令はほとんど守られないような実態がありました。

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日露戦争凱旋式・花畔〈ばんなぐろ〉尋常高等小学校校庭、「いしかり博物誌/第58回」、http://www.city.ishikari.hokkaido.jp/soshiki/bunkazaih/2783.html

■ 開戦直後の小学校では
 

 『兵庫県教育史』(1963)は日露開戦直後の出石郡(現在の豊岡市)弘道小学校の様子を紹介しています。(記録文体を易しく書き改めました)
  

(明治37年)
    2月10日 昨日朝鮮仁川沖において日露両国艦隊衝突し、ロシア艦2隻を撃沈したという速報が入り、児童を雨天体操場に集め、このことを伝えた。高等科の児童には日露外交の始末書について講話を行った。
 2月11日 紀元節の拝賀式
 午後2時から 運動場で出石町民の戦勝祝賀会が催された。
 2月12日 ロシアに対して宣戦の詔勅が発せられたという号外が出た。そこで高等科の児童に対して訓話を行った。
 2月16日 午前7時、児童招集規程により、課外招集を行い、神美村のうち宮内村の出石神社で行われる敵国降伏祈願臨時祭に参拝し、午前11時に帰校した。

   勉強など手に付かないほどの興奮状態が想像されます。
 一方、教員も夜間校区の各地区に出かけて、戦争講話会を開いたところがありました。
 その内容は次のとおりです。
 1 日露関係交渉始末  2 日清韓地図について説明  

 3 交戦以来の戦況 4 各国、特に英米の同情  

 5 国民の覚悟(軍費応募、勤倹貯蓄、余業の途)
   メディアの未発達の時代、小学校の先生たちは、(おそらく無報酬で)戦意高揚のために動員されていました。

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(戦争ごっこ「ジャパンアーカイブズ 」明治38年)

 

■ 軍資金の献納
 小学生たちは、出征軍人の見送り、慰問状の発送、軍人遺家族の慰問などと忙しかったのですが、教員もまた職員懇親会の費用を陸海軍に献金したり、多額の戦時国債を購入するなどして、国策に協力しています。

 

■ 教育費削減と二部授業
 莫大な戦費調達のために、教育費が削減されました。小学校では教員の整理が行われ、二部授業という変則的なスタイルを取ることになりました。
 まず、教員の整理ですが、兵庫県では明治37年(1904)に500名近い教員(全体の約12%)が退職を命じられています。
 その結果、一例として次のような授業形態とることとなりました。(当時、尋常小学校は4年制です)
   1年生・2年生(各1クラス)・・・午前中登校、
 3年生(2クラス)・・・午後登校
 (午前中に1・2年生を担当した教員が授業)
 4年生・・・午前登校で通常授業 
   こうした変則的な授業に対して、学校関係者は当然批判的な思いは持っていたことでしょうが、時局がら公然と声を上げることができないというのが実情であったようです。

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 (遼陽占領の号外、下野新聞

趣味あれこれ 「東京混声+神戸市混声」


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待ちに待ったこの演奏会❗️

草刈りは昼までに終えて、五時過ぎから出かけました。

東混は2年前に茨木市へ聴きに行って以来。

(神戸市混声は加東混声で「第9」をやったときに、賛助出演してもらいました。)

内容コメントは省略して、とにかくこの顔ぶれでS席4000円は安いです。

なにせ、東混といえば、この世界では最高峰ですから🗻(その昔、40年ほど前ですが、伊丹混声の指揮者、井上一朗氏が練習中に「東混みたいですね」と笑わせていたのを思い出しました)

指揮者も地方公演では音楽監督や常任ではない「えっ、誰?」みたいな若手の場合がありますが、さすがに神戸市混声30周年ということで、山田和樹(「平成のヤマカズ」とか)さんが振りました。なんとまだ40歳の若さ。

アンコールの二曲目、山田耕筰の「赤とんぼ」(松原千振氏指揮)を合同の60名あまりで演奏。

現在我が国で聴ける最高レベルの「赤とんぼ」でした😀

涙腺が緩んだ人も多かったのではないでしょうか。

なにせ、観客のほとんどが、高齢者ですから。(笑)

出演者のお見送りも意外でした。やはり時代ですかね😃

地下鉄の西神中央では構内でグランドピアノを弾いている女性が(曲目は不明)。これも流行りですかね😃
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田山花袋『田舎教師』④ 講習会と夏休み

 ■ 教員講習会

 次の土曜日には、羽生の小学校に朝から講習会があった。校長と大島と関と清三と四人して出かけることになる。大きな講堂には、近在の小学校の校長やら訓導やらが大勢集まって、浦和の師範から来た肥った赤いネクタイの教授が、児童心理学の初歩の講演をしたり、尋常一年生の実地教授をしてみせたりした。教員たちは数列に並んで鳴りを静めて謹聴している。志多見という所の校長は県の教育界でも有名な老教員だが、銀のような白い髯をなでながら、切口上で、義務とでも思っているような質問をした。肥った教授は顔に微笑をたたえて、一々ていねいにその質問に答える。十一時近く、それがすむと、今度は郁治の父親や水谷というむずかしいので評判な郡視学が、教授法についての意見やら、教員の心得についての演説やらをした。梅雨は二三日前からあがって、暑い日影はキラキラと校庭に照りつけた。扇の音がパタパタとそこにも、ここにも聞こえる。女教員の白地に菫色の袴が眼にたって、額には汗が見えた。成願寺の森の中の蘆荻(ろてき)はもう人の肩を没するほどに高くなって、剖葦(よしきり)が時を得顔(えがお)にかしましく鳴く。
    講習会の終わったのはもう十二時に近かった。詰襟の服を着けた、白縞の袴に透綾の羽織を着たさまざまの教員連が、校庭から門の方へぞろぞろ出て行く。
(中略)
  「湯屋で、一日遊ぶようなところができたって言うじゃありませんか、林さん、行ってみましたか」校門を出る時、校長はこう言った。
  「そうですねえ、広告があっちこっちに張ってありましたねえ、何か浪花節なにわぶしがあるって言うじゃありませんか」
  大島さんも言った。
  上町の鶴の湯にそういう催しがあるのを清三も聞いて知っていた。夏の間、二階を明けっ放して、一日湯にはいったり昼寝でもしたりして遊んで行かれるようにしてある。氷も菓子も麦酒も饂飩(うどん)も売る。ちょっとした昼飯ぐらいは食わせる準備したくもできている。浪花節も昼一度夜一度あるという。この二三日梅雨があがって暑くなったので非常に客があると聞いた。(中略)
  「どうです、林さんに一つ案内してもらおうじゃありませんか。ちょうど昼時分で、腹も空いている……」
  校長はこう言って同僚を誘った。みんな賛成した。
   (中略)
 やがて校長の顔も大島さんの顔もみごとに赤くなる。
   「講習会なんてだめなものですな
  校長の気焔がそろそろ出始めた。
  大島さんがこれに相槌をうった。各小学校の評判や年功加俸の話などが出る。郡視学の融通のきかない失策談が一座を笑わせた。けれど清三にとっては、これらの物語は耳にも心にも遠かった。年齢が違うからとはいえ、こうした境遇にこうして安んじている人々の気が知れなかった。かれは将来の希望にのみ生きている快活な友だちと、これらの人たちとの間に横たわっている大きな溝を考えてみた。
   「まごまごしていれば、自分もこうなってしまうんだ!」
  この考えはすでにいく度となくかれの頭を悩ました。(十五)

 

 

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(初版本口絵、https://shakaigaku.exblog.jp/i7/


 夏休みをひかえた7月のある土曜日に、地域の中心地である羽生で行われた教員講習会の様子を描いた場面です。
 当時は今のような教育委員会制度がありませんから、こうした講習会を開いていたのは郡当局と郡の教育会だったと思われます。
 講演や講義と授業参観、その後の研究協議、質疑応答といったパターンは現代の研修会にもよく見られるものです。
 お酒が入っているとは言え、校長自らが「講習会なんてだめなものですな」と言い始めるあたりに、いわゆる官製講習会の形式主義なところが批判的に描かれてます。
  ちなみに、「浦和の師範から来た肥った赤いネクタイの教授が・・・」というところがありますが、師範学校は昭和18年(1943)に専門学校程度に格上げされるまでは、長らく「中等学校」でしたから、正しくは「教授」ではなくて「教諭」と称すべきでした。
   この場面で面白いのは、窮屈で退屈な(?)講習会の後、教員たちが「上町の鶴の湯」の二階でリラックスしてくつろぐ様子です。皮肉にも、講習の内容よりもこうした場面でのやりとりが長く記憶に残ったりするものです(笑)

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(明治37年発行の「学校管理法教科書」)

 

   ■ 夏休み

 七月はしだいに終わりに近づいた。暑さは日に日に加わった。(中略)
 学校では暑中休暇を誰もみんな待ちわたっている。暑い夏を葡萄棚の下に寝て暮らそうという人もある。浦和にある講習会へ出かけて、検定の資格を得ようとしているものもある。旅に出ようとしているものもある。東京に用足しに行こうと企てているものもある、月の初めから正午(ひるぎり)になっていたが、前期の日課点を調べるので、教員どもは一時間二時間を教室に残った。それに用のないものも、午(ひる)から帰ると途中が暑いので、日陰のできるころまで、オルガンを鳴らしたり、雑談にふけったり、宿直室へ行って昼寝をしたりした。(中略)
  三十日の学課は一時間で終わった。生徒を集めた卓テーブルの前で、「皆さんは暑中休暇を有益に使わなければなりません。あまりに遊び過ごすと、せっかくこれまで教わったことをみんな忘れてしまいますから、毎日一度ずつは、本を出してお復習(さらえ)をなさい。それから父さん母さんに世話をやかしてはいけません。桃や梨や西瓜(すいか)などをたくさん食べてはいけません。暑いところを遊んで来て、そういうものをたくさんに食べますと、お腹(なか)をこわすばかりではありません。恐ろしい病気にかかって、夏休みがすんで、学校に来たくッても来られないようになります。よく遊び、よく学び、よく勉めよ。本にもそう書いてありましょう。九月の初めに、ここで先生といっしょになる時には、誰が一番先生の言うことをよく守ったか、それを先生は今から見ております」こう言って、清三は生徒に別れの礼をさせた。お下げに結った女生徒と鼻を垂たらした男生徒とがぞろぞろと下駄箱のほうに先を争って出て行った、いずれの教室にも同じような言葉がくり返される。女教員は菫色の袴をはっきりと廊下に見せて、一二、一二をやりながら、そこまで来て解散した。校庭には九連草の赤いのが日に照らされて咲いていた。紫陽花の花もあった。(十七)

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(准教員免許状 期限付きとなっています)

 

 7月に入ると午前中の短縮授業が行われていました。中には普段よりも1時間以上早く7時始業という学校もあったようです。
 30日が(描かれていませんが)一学期の終業式です。表現は違いますが、いつの時代も夏休みの生活についての注意内容は同じようなものですね。
 さて、この「夏休み」ですが、昔は「暑中休暇」「暑中休業」「夏季休暇」「夏季休業」「暑休」など様々な呼び方がありました。
   夏期休暇制度が小学校に普及していったのは、学制期後半の明治10年(1877)頃と言われています。
    期間(日数)ですが、当初はお盆の頃の7~10日程度のところが多かったようです。
ただ、地方によって、また学校によって期間、日数は様々でした。
 文部省は明治14年(1881)の「小学校教則綱領」第7条において「小学校二於テハ日曜日,夏季冬季休業日及大祭日,祝日等ヲ除クノ外授業スへキモノトス」と規定しました。これが「夏期休暇」が全国的な法制度上で明示された最初のものでした。(現在は設置者である市町村教育委員会の規則で定められています)
    作品の時代背景である明治30年代半ば頃には、北日本は別にして、8月いっぱいを夏休みとしていたところが多かったようです。
    現在よりも10日程度少ないわけですが、農村地域では「農繁休暇」といって、田植え時期にも一週間ほどの休業期間がありました。(戦後もしばらくは残っていました)

 ここで一つ注目すべきは、「浦和にある講習会へ出かけて、検定の資格を得ようとしているものもある。」という部分です。
 師範学校出の正教員の少なかった当時、准教員や代用教員は検定試験を受けるための講習会に参加していたのでした。
 師範学校の教員が講師となって実施される講習会に参加することは、府県毎に実施されていた小学校教員検定試験に合格するためには必要なことだったのです。
    校長から検定試験受験を勧められながら、    「一生小学校教員で終わるつもりはない」と考えている清三には無縁の講習会でしたが、一般的にはキャリアアップにつながる大切な機会でした。

#  授業時間の確保、エアコンの普及等の理由で、夏休みの日数は年々短縮傾向にあります。

   教員のほうも、補習授業、三者面談、部活指導(試合、合宿)、研修等でやはり年々多忙になっています。

    就職したての40年ほど前には、夏休み全く顔を見せないベテランの先生もいたりしました。それを「古き良き時代」と言っていいのかどうか・・・・?