小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

山本有三『路傍の石』② 「中学へ進むには・・・・」

ねえ、おっかさん・・・・」と、口を切った。
「なに。ー」
「ねえ、・・・・やっておくれよ。-いいだろう。」
中学のことは今に始まったことではない。こう言えば、おっかさんには、すぐにわかると思っていた。しかし、おっかさんは、
「どこへ行くんです。」と、そっけなく聞き返した。
「中学校さ。」
「まあ、おまえ、そんなところへ・・・・」
  おれんは、うわ目で吾一をちらっと見ただけで、袋を張る手は少しも休めなかった。
「だって、秋ちゃんも、道ちゃんも行くんだぜ。」
「そりゃ、ああいうおうちのむすこさんなら、行くでしょうさ。-」
「だから、おれもやっとくれよ。」
「・・・・・・・・」
「そうはいきませんよ。お医者さんや、大きな呉服屋のむすこさんとは、いっしょになりませんよ。」
「だって、秋ちゃん、学校、できないんだぜ。」
「・・・・・・・・」
「あんなできないのいが行くんなら・・・・」
吾一ちゃん、中学はね、できる人ばかりが行くんじゃないんですよ。」
「そ、そんなこと言ったって、できないやつなんか、受かりゃしないよ。きょう、先生が言ったよ。はいる前に入学試験があるんだって・・・・」
(中略)
「よう、おっかさんてば。やっておくれよ。」(「その夜の言葉」二)

 


 幸いなことには、訴訟さえすめば、父が学資を出してくれるというので、彼は裁判が早く終わることを望んでいた。そして、前の通り、一生懸命受験勉強をやっていた。
 ところが、入学試験、入学試験と、志願者たちが騒いだほどのこともなく、土地柄のせいもあるのだろう、いよいよとなったら、応募者の数が意外に少なくて、中学へ願書を出した者は、無試験でみんな入学を許されることになった。それを聞くと、秋太郎などは飛び上がって喜んだが、吾一は張り合いが抜けてしまった。それだけならなんでもないが、願書の受付が締め切りになるというのに、入学金がないので彼は願書を出すことができなかった。(「移り変わり」二)

 

 

f:id:sf63fs:20190823164030p:plain

吾一(池田秀一)と母・おれん(淡島千景
  東映映画『路傍の石』(1964年)より
  https://ameblo.jp/musasino-0514/entry-12341770702.htm

 

■ 「高等小学校現象」とは

 

 明治20年代後半から尋常小学校の就学率が増加し、30年代に入ると高等小学校へ進む子供たちの数も増え続けました。
   明治28年から38年の10年間は、毎年一万人ずつの増加が見られたということです。
 一方、その間に高等小学校卒業者で中学校を初めとする中等学校に進学しない者も急激に増加し、卒業者のおよそ70~80%は上級学校に進みませんでした。

 竹内洋『立身出世と日本人』では、そのあたりの事情を、「高等小学校現象」という言葉を使って説明しています。

 

 彼らは学校によって欲望を喚起されながら、鎌を腰にして農作業にいそしむか、町(村)役場の書記や給仕、巡査、小学校の代用教員となり日々憂悶する。父母もこれを持て余し、当人も自分の憂悶を持て余す。勉強立身の空転が始まる。こういう空転を「高等小学校現象」と呼ぶことができる。小学校時代の友人が進学していくのを見て羨望に耐えず自暴自棄になってゆく。家は貧しく母を養わなければならない。中等学校に進学したいが、資金も時間もない。示唆と教示をあたえてほしい式の投書が少年雑誌にふえるのがこのころである。

 

f:id:sf63fs:20190823170252j:plain

(高等小学校の同級生たち。秋太郎=吾一が丁稚奉公する呉服屋伊勢屋の息子で中学へ進む。京造役は当時15歳の風間杜夫少年!,http://garadanikki.hatenablog.com/entry/20180624/1529794800

 

⬛️   中学へ進むには  ―三つの「力」―

 

 そのころ一般に、「中学校に入り、無事に卒業するためには、『学力』『資力』『体力』(健康)の三つがそろっていないとだめだ」と考えられていました。ここでは、「体力」を除く二つの「力」について見ていくことにします。
  
 まず、「学力」についてですが、制度上は高等小学校二年の課程を終えて進学できるようにはなっていました。しかし、実際は高等三年、四年を終えた者の比率が高かったのでした。
 山本有三の地元、栃木町(現在の栃木市)には、明治29年(1896)に栃木県尋常中学校の栃木分校が開設されていました。

    山本勇造少年が入りたかった同校は、明治32年(1899)独立して栃木県第二中学校(後に栃木中学校、現在の栃木高等学校)となります。

 

f:id:sf63fs:20190824173850j:plain

(栃木高等学校の記念館。創設時の校舎)

 「明治33年栃木県学事年報」(国立国会図書館デジタルコレクション)によると、その年の入学者88名のうち高等二年修了者はわずか4名(5%)でした。最も多いのが高等四年修了の62名(70%)、続いて高等三年修了の22名(25%)といった状況でした。
  これは、中学校側の要求する学力と、高等小学校で培われたそれとの間に、かなりの隔たりがあったことを示すものだと言えます。
  ちなみに、同書には明治33年の入学者は88名で、志願者は299名(3.4倍)という記載があります。
 また、同年の他校の志願倍率をみても、第一中学校(3.1倍)、第三中学校(2.4倍)となっています。
 作中の「応募者の数が意外に少なくて、中学へ願書を出した者は、無試験でみんな入学を許されることになった」というのはフィクションではないでしょうか。

 

 もう一つの要件である「資力」、すなわち家庭の経済力ですが、吾一の母親の言葉に端的に示されているように、進学の可否に関しては「学力」以上に極めて重要な要件でした。
 明治三十年代半ば頃の公立中学校の授業料を各県の「学事年報」で調べてみますと、授業料の月額は、次のように一円から一円五十銭といったところでした。
  

  兵庫県  一円(兵庫県立中学校学則、明治三十四年五月)
  静岡県  一円二十銭(静岡県立中学校学則、明治三十四年三月)
  長野県    一円四十銭(長野県立中学校学則、明治三十四年三月)
  三重県    一円五十銭(三重県立中学校学則、明治三十八年七月)

  当時は各府県とも学校数が限られており、交通機関が未発達であったために、寄宿舎に入らざるを得ない生徒の比率が高く、保護者にとっては、授業料にその費用を加えると、相当な負担になっていたものと思われます。     

    寄宿生が一ヶ月に要する費用は、次の表のように、小学校正教員平均俸給月額の六割程度にも達するほどでした。

  

f:id:sf63fs:20190824174547p:plain

 

  明治38年(1905)に、和歌山県の潮岬村にあった高等小学校四年から、県立新宮中学校(現在の県立新宮高等学校)の二年級に編入した西(旧姓・山口)弘二氏は、父親から次のように言われたと述べています。
 

    父に話すと「中学校など以ての外、あれは金持ちの学校で、一年に百円も要るのだ。夢にも左様な考えを持つな。師範なら金も要らず、直ぐ職に就けるから、やってよい。中学はとてもとても、少しばかりの田畑や山でも売らねばならぬ。出来ない相談だ。祖先には済まぬ」とて、相手にしてくれなかった。  (『日本の教育課題10 近代日本人の形成と中等教育』)

 

f:id:sf63fs:20190824180048j:plain

詩人で小説家の佐藤春夫(明治25~昭和39年・1892~1964)はその頃新宮中学校に在籍していました。

    吾一の母親にしても、西氏の父君にしても、その言葉から、当時の庶民が中学校というものをどのように見ていたかがよく分かりますね。

 

# 吾一役の池田秀一さん(1949年生まれ)は、我々世代が子供の頃の名子役でした。

現在は声優として『 機動戦士ガンダム』のシャア・アズナブル役をはじめ、『名探偵コナン』の赤井秀一役など、人気作品のキャラクターを多く演じていらっしゃいます。

 

山本有三『路傍の石』① 「高等小学校」

 我々年代の者には懐かしく思い出される作品ですが、若い人たちにはなじみがないかもしれませんので、簡単なあらすじを引用しておきます。

 

  

 愛川吾一は貧しい家庭に育ち、小学校を出ると呉服屋へ奉公に出される。父・庄吾は武士だった昔の習慣からか働くことを嫌い、母おれんが封筒貼りや呉服屋の仕立物などをして生計をたてていた。吾一は中学進学を希望していたが、母の苦労を見てあきらめる。その後、下宿屋の小僧、おとむらいかせぎ、文選見習工などの職を転々とする生活を通して、社会の矛盾を感じ、悩みながら成長していく。(「あらすじ300文字」で味わう日本の名作文学、https://matome.naver.jp/odai/2135252524944807001/2135252889345208103 

 

 

f:id:sf63fs:20190822165324j:plain

 「では、きょうの修身はそこまでにして、ーちょっとみんなにきいてみたいことがあるんだが・・・・」
 と、次野先生は急にことばの調子を変えた。そして、いま、町に建設中の中学校のことを話し出した。工事が遅れて、ことしのまには合わないだろう、といううわさも立っていたが、それはやはりうわさで、四月には確かに開校する。また、その前には入学試験もおこなわれるはずである。ついては、学校でも、それにたいしていろいろ準備をする都合があるから、中学校にはいりたい者は手をあげなさい、と先生は言った
 吾一らの組は高等小学の二年だった。そのころの高等二年というのは、今の尋常小学校六年級に相当する。彼らはこれから中学にはいるか、はいらないかの、ちゅうどわかれ目に立っているのだ。中学にはいって、それからだんだん上へのしていくのか、それとも、この小さな町の土になってしまうか、ここが一生のわかれ道だった。吾一はかねてから、はいりたくってたまらなかった。先生も、おまえははいるほうがいい、と言ってくれた。だが、彼はすぐ手をあげて、「先生、はいりたいんです。」と言えるような、めぐまれた境遇にいるのではなかった。
 ほかの者もみん、はっきりしたことは言えないのだろう。お互いに顔を見あうばかりで、手をあげる者はひとりもなかった。その時、
「先生」と、立っている秋太郎が手をあげた。
「わし、行きたいんです」
「行くのはいいが、遅刻するようじゃ、入学試験は受からないぞ。」
みんながどっと笑った。
 そのほかには、中学に行きたいと、はっきり答えた者はひとりもなかった。それでは、よくうちで相談してくるように、と先生は言って、その時間はおしまいになった。
 (中学志望)

f:id:sf63fs:20190822165539j:plain

山本有三
  (年譜)
1887(明治20)  7月23日、呉服商・山本元吉の長男として、下都賀郡栃木町(現栃木市)に生まれる。 本名は勇造。
 1894(明治27)  栃木尋常小学校に入学。 
 1898(明治31)  尋常小学校卒業。栃木高等小学校に入学。 
 1902(明治35)  高等小学校卒業。東京浅草駒形町呉服店・伊勢福に奉公に出される。  1903(明治36)  奉公先を逃げ出して郷里の家に帰り、家業を手伝う。 
 1905(明治38)  上京して神田正則英語学校に入学。 
 1906(明治39)  東京中学校の補欠試験を受け、同校5年級に編入される。 
 1907(明治40)  東京中学校卒業。第六高等学校に合格するが、父が死去したために入学を断念。 
 1909(明治42)  再度、高校の入試を受験し、一高文科に入学。同クラスに近衛文麿土屋文明らがいた。 
 1912(明治45・大正元)  一高二年修了。東京帝国大学独文科選科に入学。 
 1914(大正3)  豊島与志雄菊池寛芥川龍之介久米正雄らと第三次「新思潮」を興す。 
 1915(大正4)  東大独文科を卒業。 
 1917(大正6)  舞台協会の舞台監督となる。結婚したがまもなく離婚。
 早稲田大学の独語講師となる。 
 1919(大正8)  英文学者・本田増次郎の長女、本田はなと結婚。 
 1923(大正12)  早大講師を辞任。 
 1932(昭和7)  明治大学に文芸科が創設され、初代科長となる。 
 1935(昭和10)  「真実一路」を主婦之友に掲載。 
 1937(昭和12)  「路傍の石」を朝日新聞に連載。 
 1941(昭和16)  帝国芸術院会員に推挙される 
 1946(昭和21)  貴族院議員に勅選される 
 1947(昭和22)  参議院議員全国区に第9位で当選 
 1965(昭和40)  第25回文化勲章を授与される 
 1974(昭和49)  1月11日、86歳の生涯を閉じる 
   (山本有三ふるさと記念館http://www.cc9.ne.jp/~yamamotoyuuzou/top.html

 

■ 高等小学校とは

高等小学校は、明治維新から第二次世界大戦勃発前の時代に存在した、後期初等教育前期中等教育機関の名称。略称は高等科や高小。現在の中学校に当たる。
    (フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

 主人公・吾一の経歴と作者・山本有三のそれには、ずいぶんと類似点があり、この作品が自伝的要素の強いものだとわかります。(本人は否定していたそうですが)
 引用文にあるように、吾一は高等二年になっています。上の年譜に当てはめてみますと、明治32年(1899)のことです。

 当時は次の学校系統図(明治25年・1892)に見るように、義務教育年限は尋常小学校の4カ年でした。(6年制になるのは明治40年から)

 

f:id:sf63fs:20190822170526p:plain

 

 その頃の高等小学校について、明治22年(一八八九)、姫路市近郊の農村で開業医の子として生まれた哲学者・和辻哲郎の『自叙伝の試み』(中公文庫 一九九二年)では次のように述べられています。

 高等小学校で一緒になった少年たちは、大体においてわたくしと同じような境遇にあったと思う。(中略)町や村で幾分か裕福な家の子であったということも、また職業的には神社、寺、医者などの子が含まれていたということも、認めなくてはなるまい。(中略)とにかく一般の農民とは、いくらか異なる階層に属する家の子であった。

 

f:id:sf63fs:20190822172300j:plain

和辻哲郎明治22年昭和35年・1889~1960)

 では、高等小学校へ進んだのはどれぐらいの割合だったのでしょうか。
   満20歳の男子を対象に実施されていた「壮丁教育調査」の結果を見ると、明治38年(1905、明治18年生まれが対象)では、「高等小学校卒」の学歴を持つ男子は、全体の14.1%に過ぎませんでした。(中退も多かったと思われます)

 ちなみに、「中学校卒」となると1.1%というような状況でした。(天野郁夫『学歴の社会史』)

 

 商人の世界でも、また職人の世界でも、中等学校を卒業して十七、八歳になれば「中年者」とよばれ、徒弟としても丁稚としもとうがたち、一人前には育たないと考えられていた時代である。家業を継ぎ、あるいは商人や職人になろうというのなら、修業は早くから始めた方がいい。高等小学校卒業というのは、そのぎりぎりの上限とでもいうべき年齢だったのである。(天野・前掲書)

  

 地方にあって高等小学校に進学する者は、村でも富有な層であり、「旦那」の家の子弟か、貧しくても学力優秀な者に限られていました。

 そうした状況ですから、中学校(正式には尋常中学校)はもちろんのこと、高等小学校といえど、吾一少年の家庭環境からは、かなり無理をしての進学だったということが言えるのではないでしょうか。

 

 

f:id:sf63fs:20190822171651j:plain

明治35年栃木高等小学校卒業時、後列右から4番目、山本有三ふるさと記念館HPより)

 

# この話題は、私のもう一つのブログ「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」でも扱っています。ご参照ください。
「コラム10 中学校に行きたかった若者たち その2『路傍の石』」( 2019-03-04、 https://sf63fs.hatenablog.com/entry/2019/03/04/075905

 

 

夏目漱石『三四郎』④ 「帝大の運動会」

 

 

 きょうは昼から大学の陸上運動会を見に行く気である。
    三四郎は元来あまり運動好きではない。国にいるとき兎狩(うさぎがり)を二、三度したことがある。それから高等学校の端艇競漕(ボートきょうそう)の時に旗振りの役を勤めたことがある。その時青と赤と間違えて振ってたいへん苦情が出た。もっとも決勝の鉄砲を打つ係りの教授が鉄砲を打ちそくなった。打つには打ったが音がしなかった。これが三四郎のあわてた原因である。それより以来三四郎は運動会へ近づかなかった。しかしきょうは上京以来はじめての競技会だから、ぜひ行ってみるつもりである。与次郎もぜひ行ってみろと勧めた。与次郎の言うところによると競技より女のほうが見にゆく価値があるのだそうだ。女のうちには野々宮さんの妹がいるだろう。野々宮さんの妹といっしょに美禰子もいるだろう。そこへ行って、こんちわとかなんとか挨拶(あいさつ)をしてみたい。
    昼過ぎになったから出かけた。会場の入口は運動場の南のすみにある。大きな日の丸とイギリスの国旗が交差してある。日の丸は合点(がてん)がいくが、イギリスの国旗はなんのためだかわからない。三四郎日英同盟のせいかとも考えた。けれども日英同盟と大学の陸上運動会とは、どういう関係があるか、とんと見当がつかなかった。
    運動場は長方形の芝生(しばふ)である。秋が深いので芝の色がだいぶさめている。競技を見る所は西側にある。後に大きな築山(つきやま)をいっぱいに控えて、前は運動場の柵(さく)で仕切られた中へ、みんなを追い込むしかけになっている。狭いわりに見物人が多いのではなはだ窮屈である。さいわい日和(ひより)がよいので寒くはない。しかし外套(がいとう)を着ている者がだいぶある。その代り傘(かさ)をさして来た女もある。 (中略)
    三四郎は目のつけ所がようやくわかったので、まず一段落告げたような気で、安心していると、たちまち五、六人の男が目の前に飛んで出た。二百メートルの競走が済んだのである。決勝点は美禰子とよし子がすわっている真正面で、しかも鼻の先だから、二人を見つめていた三四郎の視線のうちにはぜひともこれらの壮漢がはいってくる。五、六人はやがて一二、三人にふえた。みんな呼吸(いき)をはずませているようにみえる。三四郎はこれらの学生の態度と自分の態度とを比べてみて、その相違に驚いた。どうして、ああ無分別にかける気になれたものだろうと思った。しかし婦人連はことごとく熱心に見ている。そのうちでも美禰子とよし子はもっとも熱心らしい。三四郎は自分も無分別にかけてみたくなった。一番に到着した者が、紫の猿股(さるまた)をはいて婦人席の方を向いて立っている。よく見ると昨夜の親睦会(しんぼくかい)で演説をした学生に似ている。ああ背が高くては一番になるはずである。計測係りが黒板に二十五秒七四と書いた。書き終って、余りの白墨を向こうへなげて、こっちを向いたところを見ると野々宮さんであった。野々宮さんはいつになくまっ黒なフロックを着て、胸に係り員の徽章(きしょう)をつけて、だいぶ人品がいい。ハンケチを出して、洋服の袖(そで)を二、三度はたいたが、やがて黒板を離れて、芝生の上を横切って来た。(六)

 

f:id:sf63fs:20190814160506p:plain

(写真帖『東京帝國大學』明治37年(1904)年版より。
 「陸上運動会(棒飛)」 運動会会場の観客の前に大きな日の丸と英国国旗が交差して飾 られています )

 

 

■ 運動会の始まり
 

 日本で最初の運動会は、築地にあった「海軍兵学寮」(後の海軍兵学校)といわれています。イギリス人ダグラスが導入したアスレチックスポーツ(競闘遊戯)がそれで、明治7年(1874)年2月のことでした。
   その後、札幌農学校(現在の北海道大学)では「力芸会」明治11年・1878)、東京大学帝国大学令以前の旧東京大学)では「運動会」明治16年・1883)という名称で実施されます。
 明治20年代(1880後半)以降は、集団行動訓練としての兵式体操奨励と、日清戦争での戦意高揚策とによって急速に小学校へ普及していき、1900年代後半には、学校での代表的な行事の一つとして確認されるようになりました。(佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』)

 

■ 帝大の運動会 ー世界新記録もー

f:id:sf63fs:20190814160658p:plain

 フレデリック・ウィリアム・ストレンジ

 

  東京帝国大学運動会は 、明治16年(1883)に 第一高等中学校(後の第一高等学校)の英語教師でイギリス人のフレデリック・ウィリアム・ストレンジ(Frederick William Strange、1853年~1889年)によって導入されました。

 イートン校出身でオックスフォード大学を卒業したストレンジは、母国での経験をもとに、春には競漕大会を、秋には陸上運動会を企画しました。
  「とくに秋の運動会は一種の社交場ともなって、貴顕紳士淑女の来場で馬車人力車列をなし見物席の前方は美しく着飾った夫人令嬢で埋められ、未来の学士に目星をつけるムコ選びの会場ともなった」(土屋知子「夏目漱石三四郎』の比較文化的研究」)と言われるほどの人気行事となりました。

    さて、文中の「紫の猿股」を穿いて「二百メートルの競争」を「二十五秒七四」で走り抜けた人物ですが、これは実在した人物で、藤井実という帝国大学法科大学学生であることがわかっています。

 

f:id:sf63fs:20190814160937p:plain

(藤井実、明治13~昭和35年・1880~1960)

  藤井は明治37年(1904)の運動会では、一〇〇メートルで 一 〇秒二四(田中館愛橘理科大学教授の電気計測)の世界新記録を出しましたが、公認されるに至りませんでした。

 さらに、明治39年(1906)の帝国大学運動会では、棒高跳で3メートル90の世界新記録を出しました。

    当時の浜尾新(はまおあらた)総長が、田中舘博士の証明文とともに、アメリカの主な大学へ通知しましたが、これもやはり公認には至っていません。

f:id:sf63fs:20190814161308j:plain

田中館愛橘・たなかだて あいきつ、地球物理学者、安政3年~昭和27年・1856~1952)

   当時としては驚異的な記録を出した選手が東京帝大の学生だったことはもちろんですが、百分の一まで計測したという技術にも驚かされます。
 ちなみに、オリンピックの陸上競技でも、百分の一秒まで計測されるようになったのは、1968年(昭和43)のメキシコ大会からであるということです。

 

#  運動会といっても、明治の東京帝大のそれは、競技とか競争とかの域を越えた、様々な文化的要素を含むものだったということが、よく分かりました。

夏目漱石『三四郎』③ 「選科生」

 

 昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、きのうポンチ絵をかいた男が来て、おいおいと言いながら、本郷の通りの淀見軒(よどみけん)という所に引っ張って行って、ライスカレーを食わした。淀見軒という所は店で果物(くだもの)を売っている。新しい普請であった。ポンチ絵をかいた男はこの建築の表を指さして、これがヌーボー式だと教えた。三四郎は建築にもヌーボー式があるものとはじめて悟った。帰り道に青木堂(あおきどう)も教わった。やはり大学生のよく行く所だそうである。赤門をはいって、二人ふたりで池の周囲を散歩した。その時ポンチ絵の男は、死んだ小泉八雲(こいずみやくも)先生は教員控室へはいるのがきらいで講義がすむといつでもこの周囲をぐるぐる回って歩いたんだと、あたかも小泉先生に教わったようなことを言った。なぜ控室へはいらなかったのだろうかと三四郎が尋ねたら、
 「そりゃあたりまえださ。第一彼らの講義を聞いてもわかるじゃないか。話せるものは一人もいやしない」と手ひどいことを平気で言ったには三四郎も驚いた。この男は佐々木与次郎(ささきよじろう)といって、専門学校を卒業して、今年また選科へはいったのだそうだ。東片町(ひがしかたまち)の五番地の広田ひろたという家うちにいるから、遊びに来いと言う。下宿かと聞くと、なに高等学校の先生の家だと答えた。
   それから当分のあいだ三四郎は毎日学校へ通って、律義(りちぎ)に講義を聞いた。必修課目以外のものへも時々出席してみた。それでも、まだもの足りない。そこでついには専攻課目にまるで縁故のないものまでへもおりおりは顔を出した。しかしたいていは二度か三度でやめてしまった。一か月と続いたのは少しもなかった。それでも平均一週に約四十時間ほどになる。いかな勤勉な三四郎にも四十時間はちと多すぎる。三四郎はたえず一種の圧迫を感じていた。しかるにもの足りない。三四郎は楽しまなくなった。(三)

 

 

f:id:sf63fs:20190812173641j:plain

 (本科生も選科生も同じ帝大の角帽をかぶっています)

 

■ 選科生とは

 田舎出の三四郎に「つまらない講義に耳を傾けるより、世間の風というものを入れ給え」と忠告をしてくれる、この佐々木与次郎のモデルは鈴木三重吉だという説があるようです。 

 ただ、鈴木三重吉明治15年昭和11年:1882~1936、小説家・児童文学者)は明治34年(1901)、第三高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文学科に入学。夏目漱石の講義を受け、休学を経て明治41年(1908)に卒業しています。選科修了ではなく、れっきとした「文学士」です。

 

f:id:sf63fs:20190811161728j:plain

 

    選科(せんか)とは、規定の学課の一部のみを選んで学ぶ課程。撰科とも表記された。本科に準ずる課程であり、日本の帝国大学においては、本科の欠員を埋め合わせる形で募集がおこなわれた
   修業年限は本科と同じように3年だったが、学校図書館の利用などに関して制限を受け、修了しても学士号は与えられなかった。旧制高等学校の卒業を入学資格とする本科と異なり、選科には旧制中学校卒業の資格でも入学が許された。なおかつ、入学後に専検や高検に合格すれば本科に転じることが認められ、それまでの在学期間も通算して3年で卒業できる利点があった。  ※ 太字・下線は筆者

フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

 今でも大学などでは、聴講生とか科目等履修生といった名称で、正式な学生でなくても、一定の条件の下で授業を聴くことができます。

 そうしたシステムと選科との大きな違いの一つは、一応「学力の試験」があったことです。

 明治40年の「東京帝国大学一覧」には次のような規定があります。

 第九章 第七 選科規程

 第三条 選科生ハ年齢十九年以上ニシテ選科主管ノ教授其学力ヲ試問シ所選ノ課目ヲ学修スルニ堪フルト認ムル者ニ限リ其入学ヲ許可スルモノトス 

 

 ■ みじめな選科生 

 

 『三四郎』の与次郎は専門学校を出たというだけで、なぜ選科で学んでいるのかというあたりは不明です。

 明治・大正の時代にあっては、ストレートに高等学校を終えたのではなく、中途退学、病気、貧困などの挫折を経験した若者が、向学の念やみがたく、帝大の選科に入っていた(入らざるを得なかった)ケースが(数は多くないものの)あったようです。

 その最も有名な例は『善の研究』で知られる哲学者・西田幾多郎(明治3~昭和20年・1870~1945)でしょう。

 西田の学修歴は以下のようでした。

     一八八二年(明治15年)四月に小学校を卒業後、一八八三年(明治16年)七月石川師範学校に入学するものの、チフスのため一年休学し、さらに一八八四年(明治17年)十月にはそこを中退する。そして一八八六年(明治19年)十月には石川県専門学校付属中学校第二級に入学する。これは、いわゆる高等中学を受験するためとされる。その後、一八八七年(明治20年)九月に第四高等中学校予科に入学し、一八八 八(明治21)年七月に卒業、さらには本科に九月に入学するが、一八九O年(明治23年)五月には中退を余儀なくされる。その後独学を目指すものの眼を患ったこともあって挫折し、東京の帝国大学文科大学哲学科選科に入学する。一八九四年(明治27年)七月に選科を修了する。 

鈴木康文「西田幾多郎と明治期の教育制度」

※太字・下線は筆者

f:id:sf63fs:20190811163930j:plain

(第四高等中学校、後の四高ー現在の金沢大学の前身の一つー時代の西田。後列右から二人め)

 

 『三四郎』の時代からは、十数年以上前のことにはなりますが、選科生の頃を振り返って、西田は次のような文章を残しています。

 当時の選科生というものは、誠にみじめなものであった。無論、学校の立場からして当然のことでもあったろうが、選科生というものは非常な差別待遇を受けていたものであった。今いった如く、二階が図書室になっていて、その中央の大きな室が閲覧室になっていた。しかし選科生はその閲覧室で読書することがならないで、廊下に並べてあった机で読書することになっていた。三年になると、本科生は書庫の中に入って書物を検索することができたが、選科生には無論そんなことは許されなかった。 

「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」(青空文庫

図書カード:明治二十四、五年頃の東京文科大学選科

 

  

f:id:sf63fs:20190811170231p:plain

f:id:sf63fs:20190811170425p:plain

明治40年の「東京帝国大学一覧」より。各学科に若干名の選科生の名前が掲載されています。)

 明治の時代に、東京帝大の選科に学んだ著名人としては、鈴木大拙(仏教学者)、岩波茂雄岩波書店創業者)、丘 浅次郎(動物学者)、小倉金之助(数学者)、山本有三(小説家)などの名前を挙げることが出来ます。

 いずれも様々な挫折、苦難を乗り越えて、それぞれの分野に大きな足跡を残された方ばかりです。

 

第323回 西明石落語会「浪漫笑」

昨日、第二金曜日は恒例の「西明石・浪漫笑」

普段は車で行くのですが、今回は終演後、バーベキューで打ち上げとあってJRで行きました。(帰りは久しぶりの終電でした😅)

 

⬛️  演    目

 

○桂小留さん  「ん廻し」


f:id:sf63fs:20190810002411j:image

桂歌之助さん「蛇含草」


f:id:sf63fs:20190810002423j:image

○桂春雨さん「たちきれ」


f:id:sf63fs:20190810002458j:image

#  「小留」の読み方、お分かりの方は、かなりの落語通です。(桂小枝さんのお弟子さんで、なんとこれでチロルです。チョコレートの商品名からの連想で付けられたとか)

 

本日のテーマは「夏の怪奇談」(いわゆる怪談ではありません)。

生憎と、主宰の梅団治さんは繁昌亭で出番があり、お休み。(そのせいもあってか、ちょっとお客さん少なめ)

 

10数名のお客様と噺家さん・お囃子さん(春雨さんの奥さん)とで、煙朦々、和気藹々とした打ち上げになりました🍺

 

春雨さんに、体重を尋ねると、53キロとか。思わず、「競馬のジョッキーいけますね」と失礼なことを言ってしまいました🙏

 

30代、40代、50代と三人の噺家さんのそれぞれの持ち味が大変よく出ていた落語会でした✌️

夏目漱石『三四郎』② 「おじいさんの西洋人教師」

   それから約十日ばかりたってから、ようやく講義が始まった。三四郎がはじめて教室へはいって、ほかの学生といっしょに先生の来るのを待っていた時の心持ちはじつに殊勝(しゅしょう)なものであった。神主(かんぬし)が装束(しょうぞく)を着けて、これから祭典でも行なおうとするまぎわには、こういう気分がするだろうと、三四郎は自分で自分の了見を推定した。じっさい学問の威厳に打たれたに違いない。それのみならず、先生がベルが鳴って十五分立っても出て来ないのでますます予期から生ずる敬畏(けいい)の念を増した。そのうち人品のいいおじいさんの西洋人が戸をあけてはいってきて、流暢(りゅうちょう)な英語で講義を始めた。三四郎はその時 answer(アンサー)という字はアングロ・サクソン語の and-swaru(アンド・スワル)から出たんだということを覚えた。それからスコットの通った小学校の村の名を覚えた。いずれも大切に筆記帳にしるしておいた。その次には文学論の講義に出た。この先生は教室にはいって、ちょっと黒板(ボールド)をながめていたが、黒板の上に書いてある Geschehen(ゲシェーヘン) という字と Nachbild(ナハビルド)という字を見て、はあドイツ語かと言って、笑いながらさっさと消してしまった。三四郎はこれがためにドイツ語に対する敬意を少し失ったように感じた。先生は、それから古来文学者が文学に対して下した定義をおよそ二十ばかり並べた。三四郎はこれも大事に手帳に筆記しておいた。 (中略)
    講義が終ってから、三四郎はなんとなく疲労したような気味で、二階の窓から頬杖(ほおづえ)を突いて、正門内の庭を見おろしていた。
(中略)

   さっきポンチ絵をかいた男が来て、
 「大学の講義はつまらんなあ」と言った。三四郎はいいかげんな返事をした。じつはつまるかつまらないか、三四郎にはちっとも判断ができないのである。しかしこの時からこの男と口をきくようになった。 (三)

  # 『三四郎』の作中時間は明治40年(1907)九月に始まるということと、彼が入学したの英文学科だというのが作品研究の定説となっているそうです。(不勉強でした!)

 

f:id:sf63fs:20190808153744j:plain

(「三四郎本郷キャンパスツアー」より、 https://juken.y-sapix.com/articles/2977.html)

 

■ 英文学科の老外国人教師

  さすがに母校英文学科の講師を務めていた漱石だけあって、講義の描写も大変詳しいものになっています。
    さて、その「人品のいいおじいさんの西洋人」ですが、明治40年(1907)の『東京帝国大学一覧』から、ジョン・ロレンスJohn Lawrence (1850~1916年、明治39~大正5年:1906-1916東大在任)がモデルであることは間違いないようです。

 

f:id:sf63fs:20190808154035p:plain

 

 ロレンスはイギリスのデポンシャ一生れ。小学校教師をしながらカレッジに通い、ロンドン大学に進んで1878年修士号まで取得した。パリ・ベルリンなどに留学後、1891年から94年までチェコプラハ大学で英語学を教えた。この間、1892年にロンドン大学から文学博士号を取得。そののちオックスフォード大学:ユニヴァーシティ・カレッジに入り、1898年に48歳で卒業した。オックスフォードとロンドン大学ベッドフォードカレッジで教えた。 1906年(明治39)9月、日本の文部省からの要請に応じて来日、東京帝国大学文科大学の外国人教師となる。(橋川俊樹 「小川三四郎が〈英文学者〉となる未来 : ジョン・ロレンスの学統と「助教授B」千葉勉の航跡に照らして」より)

  経歴を見ると、このロレンスという先生は、ずいぶんと晩学でいろいろと回り道をされた、いわば刻苦勉励の人という印象がありますね。

  ロレンスのような立場の人は、一般に「お雇い外国人」とか「外国人教師」と呼ばれていましたが、正式には「(外国人)講師」でした。

 当時は日本人でないと教授にはなれなかったのです。

 

 この英文学科では、数年前から夏目金之助漱石が、ラフカデイオ・ハーン(小泉八雲)のあとを受けて、アーサー・ロイド、上田敏とともに講師を務めていました。(教授は不在でした)

 ところが、三四郎が入学した 明治40年(1907)9月時点では、 3月に漱石が大学を去ってしまっており、間もなく上田敏も留学のため大学を離れることになっていました。
   大学側は、夏目金之助漱石)を、学科初の日本人教授にと考えていたようですが、当のご本人にその気はなく、よく知られているように、月給200円で朝日新聞に入社してしまいました。
 すでに『猫』、『坊っちゃん』などで文名が上がり、創作に専念したいという気持ちが強かったこともありますが、それ以外にも、大学側に対する様々な思いがあってのことと言われています。

    そういうわけで、小川三四郎はイギリス帰りの「夏目教授」の講義を聴くことができませんでした。

     実質的に英文学科の「外国人教授」(公式には違いましたが)を務めることになった、このロレンス先生の講義については、愛弟子の市河三喜氏(東京帝大で日本人初の英語学講座担当教授)以外には、いい評判が残っていないようです。

 大正2年(1913)に東京帝国大学文科大学英吉利文学科に入学した芥川龍之介「あの頃の自分の事」では、一般の英文科学生の立場で、ロレンス先生の授業の思い出が詳しく語られています。

 

 朝の時間はもう故人になつたロオレンス先生のマクベスの講義である。松岡(譲)と分れて、成瀬(正一)と二階の教室へ行くと、もう大ぜい学生が集つて、ノオトを読み合せたり、むだ話をしたりしてゐた。我々も隅の方の机に就いて、新思潮へ書かうとしてゐる我々の小説の話をした。我々の頭の上の壁には、禁煙と云ふ札が貼つてあつた。が、我々は話しながら、ポケツトから敷島を出して吸ひ始めた。勿論我々の外の学生も、平気で煙草をふかしてゐた。すると急にロオレンス先生が、鞄をかかへて、はいつて来た。自分は敷島を一本完全に吸つてしまつて、殻も窓からすてた後だつたから、更に恐れる所なく、ノオトを開いた。しかし成瀬はまだ煙草をくはへてゐたから、すぐにそれを下へ捨てると、慌(あわ)てて靴で踏み消した。幸(さいはひ)、ロオレンス先生は我々の机の間から立昇る、縷々(るる)とした一条の煙に気がつかなかつた。だから出席簿をつけてしまふと、早速毎時(いつも)の通り講義にとりかかつた。
  講義のつまらない事は、当時定評があつた。が、その朝は殊につまらなかつた。始からのべつ幕なしに、梗概(かうがい)ばかり聴かされる。それも一々 Act 1, Scene 2 と云ふ調子で、一くさりづつやるのだから、その退屈さは人間以上だつた。自分は以前はかう云ふ時に、よく何の因果で大学へなんぞはいつたんだらうと思ひ思ひした。が、今ではそんな事も考へない程、この非凡な講義を聴く可く余儀なくされた運命に、すつかり黙従し切つてゐた。だからその時間も、機械的にペンを動かして、帝劇の筋書の英訳のやうなものを根気よく筆記した。が、その中に教室に通つてゐるステイイムの加減で、だんだん眠くなつて来た。そこで勿論、眠る事にした。
   うとうとして、ノオトに一頁ばかりブランクが出来た時分、ロオレンス先生が、何だか異様な声を出したので、眼がさめた。始めはちよいと居睡りが見つかつて、叱られたかと思つたが、見ると先生は、マクベスの本をふり廻しながら、得意になつて、門番の声色(こわいろ)を使つてゐる。自分もあの門番の類だなと思つたら、急に可笑(をか)しくなつて、すつかり眠気がさめてしまつた。隣では成瀬がノオトをとりながら、時々自分の方を見て、くすくす独りで笑つてゐた。それから又、二三頁ノオトをよごしたらやつと時間の鐘が鳴つた。さうして自分たちは、ロオレンス先生の後から、ぞろぞろ教室の外の廊下へ溢れ出した。   (下線は筆者)

 

f:id:sf63fs:20190808155911j:plain

(左から久米正雄、松岡譲、芥川龍之介、成瀬正一)

  読み物としては面白いのですが、たしかにこんな講義が続けば、勉学の意欲がそがれること間違いありません。
    いつの時代にも、大学に入って講義を聴いて「こんなはずじゃなかった!」という思いを経験する学生はいるものですね。

 「これは大切だから、とにかく教えておきたい」という先生と「いえ、別に興味はありません」という学生の間のギャップは、そう簡単には埋まりません。
  (ただ、今頃は授業評価のアンケートがあるみたいですから、少しは違っているかもしれません。)

  

 最後に、ロレンス先生の名誉のために、上記橋川論文より。 

 ロレンスには論文がほとんど無く、著作も無かった。しかし、彼が東大で残した無形の業績には目を見張るものがある。まず、市河三喜・斎藤勇(1887-1982 、1911 卒)を始め、 土居光知 (1886-1979 、1910 卒)、沢村寅二郎 (1885 ・1945 、1910 卒)、佐藤清(1885 ・1960 、1910 卒)、豊田実(188 5- 1972 、1916 卒)などの代表的な英語英文学者を門下から輩出した。また、「ゼミナール制」を採用し、古代英語や中世英語、さらには古典語を教授した。

 

# それにしても、天下の帝大生も、教室で喫煙などと、ずいぶんとお行儀が悪いですね。そういう時代だったのでしょうか?

夏目漱石『三四郎』① 「9月入学」

 

    学年は九月十一日に始まった三四郎は正直に午前十時半ごろ学校へ行ってみたが、玄関前の掲示場に講義の時間割りがあるばかりで学生は一人ひとりもいない。自分の聞くべき分だけを手帳に書きとめて、それから事務室へ寄ったら、さすがに事務員だけは出ていた。講義はいつから始まりますかと聞くと、九月十一日から始まると言っている。すましたものである。でも、どの部屋を見ても講義がないようですがと尋ねると、それは先生がいないからだと答えた。三四郎はなるほどと思って事務室を出た。(中略)
 翌日は正八時に学校へ行った。正門をはいると、とっつきの大通りの左右に植えてある銀杏(いちょう)の並木が目についた。銀杏が向こうの方で尽きるあたりから、だらだら坂に下がって、正門のきわに立った三四郎から見ると、坂の向こうにある理科大学は二階の一部しか出ていない。その屋根のうしろに朝日を受けた上野の森が遠く輝いている。日は正面にある。三四郎はこの奥行のある景色を愉快に感じた。
  (中略)
    けれども教室へはいってみたら、鐘は鳴っても先生は来なかった。その代り学生も出て来ない。次の時間もそのとおりであった。三四郎は癇癪(かんしゃく)を起こして教場を出た。そうして念のために池の周囲(まわり)を二へんばかり回って下宿へ帰った。
   それから約十日ばかりたってから、ようやく講義が始まった。(三)

 
  底本:「三四郎」角川文庫クラシックス角川書店
    1951(昭和26)年10月20日初版発行
    1997(平成9)年6月10日127刷
 初出:「朝日新聞
    1908(明治41)年9月1日~12月29日
  「青空文庫」(https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html

 

f:id:sf63fs:20190803160816j:plain

   『三四郎』(さんしろう)は、夏目漱石の長編小説である。1908年(明治41年)、「朝日新聞」に9月1日から12月29日にかけて連載[1]。翌年5月に春陽堂から刊行された。『それから』『門』へと続く前期三部作の一つ。全13章。
 九州の田舎(福岡県の旧豊前側)から出てきた小川三四郎が、都会の様々な人との交流から得るさまざまな経験、恋愛模様が描かれている。三四郎や周囲の人々を通じて、当時の日本が批評される側面もある。三人称小説であるが、視点は三四郎に寄り添い、時に三四郎の内面に入っている。「stray sheep」という随所に出てくる言葉が印象的な作品である。 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

f:id:sf63fs:20190803160928j:plain

 

 

 ■ 高等学校から帝国大学

  

    主人公の小川三四郎(23歳)は熊本の第五高等学校(現在の熊本大学)を終えて、東京帝国大学文科大学(後の文学部)に入学すべく上京します。
 モデルとなったのは、漱石の弟子のひとり小宮豊隆明治17年~昭和41年:1884~1966、旧制の福岡県立豊津中学校:現在の福岡県立育徳館高等学校から第一高等学校 (旧制)を経て東京帝国大学文学部)と言われています。
 
 

f:id:sf63fs:20190803161055p:plain

    (明治41年学校系統図)

 

   この『三四郎』という作品は「朝日新聞」 に連載された明治41年(1908)頃を時代背景としていると仮定してみます。(作中の会話から明治38年の日露戦争後であることは間違いないのですが・・・)
 その頃全国に八校あった高等学校(第一高等学校から第八高等学校まで。ただし八高・名古屋は創設直後)の卒業生の総数は1269人でした。その年の20歳の男子の数で割ると、0.29%。約350人に一人という超エリートでした。 
 それらの卒業生はほぼ全員が帝国大学に進学できました。明治40年のデータでは、東京帝大に986名(78.5%)、京都帝大に259名(21.0%)という数字が残っています。(竹内洋『日本の近代12ー学歴貴族の栄光と挫折』)
   高等学校を卒業すれば、ほとんど「無試験の状態」帝国大学へ進学できたわけです。
   中でも、三四郎のような文科進学者の場合は、医科、法科などと違って、後々までもそういう状況が見られました。

   

f:id:sf63fs:20190803161719j:plain

(旧制第五高等学校、https://www.eng.kumamoto-u.ac.jp/faculty/history/history1/)

 

■ 九月学年始期から4月始期へ

 

 何年ほど前でしょうか。東大では九月入学を検討しているというニュースを見たことがありました。(2012年1月20日、5年後をめどに全学部生を秋入学へ移行する方針を打ち出した東京大学https://www.hrpro.co.jp/glossary_detail.php?id=5
 2019年現在、東大の9月入学はまだ実現はしていませんが、海外との交流が盛んな大学の中には、定員の一部に秋入学を取り入れているところが増えてきています。
   そもそも、アメリカ、イギリスをはじめ、世界の約7割の大学が9月・10月に入学する制度になっているということで、秋に学年が始まるというのが「グローバルスタンダード」なのだそうです。
    小川三四郎の頃の東大(東京帝国大学)は、9月に学年が始まっていますが、現在のように4月始まりになったのは、なぜなのでしょうか。
    そのあたりの経緯について、佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』は次のように述べています。

   

   日本でも近代化のスタートを切った明治前半期では、大学を初め小学校まで九月学年始期が多かったのであり、帝国大学旧制高校ではなんと一九二○(大正九)年まで九月学年始期だったのである。
 学年始期を四月にした最初は、一八八六(明治十九)年高等師範学校(後の東京教育大学の前身)であった。一八八八年には府県立尋常師範学校が、文部省の指示によりこれに従った。その理由には、次の三点が挙げられる。(以下は要約)
 

第一 陸軍との人材獲得競争
 一八八六(明治十九)年十二月「徴兵令」の改正により、壮丁の届出期日が9月一日から四月一日に改められ、壮健で学力ある人材が陸軍にとられてしまうために、始期を繰り下げた。
第二 国や県の会計年度に合わせた。
 会計の年度が一八八六(明治十九)年、従来の七月~翌六月から、四月~翌三月に変更され、徴兵事務もそれに合わせた。
第三 学年末試験が蒸し暑い六月中下旬に行われ、学生の健康上良くないということ。

 

  # でも、やっぱり入学式は「桜」の頃がいいですよね❗️

  

f:id:sf63fs:20190803162403j:plain