小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

伊藤整『若い詩人の肖像』② 「軍事教練」その2

 

 私の入る前の年、全国の高等学校や専門学校に軍事教練が行われることになった。その年は、第一次世界戦争が終わってから四年目に当たり、世界の大国の間には軍事制限の条約が結ばれていた。世界はもう戦争をする必要がなくなった。やがて軍備は完全に撤廃される、という評価が新聞や雑誌にしばしば書かれた。軍服を着て歩く将校が失業直前の間の抜けた人間に見えた。そういう時代に、軍隊の量の縮小を質で補う意味と、失業将校の救済とを兼ねて企てられたこの軍事教練は、強い抵抗に逢った。この企ては、第一次世界戦争の終了とロシア革命の成立によって、自由主義共産主義無政府主義、反軍国主義などの新思想に正義を認めていた知識階級や学生の反感をあおった。いまその一九二一年の歴史を見ると、それは日本共産党が創立された前年であり、社会主義の文芸雑誌「種蒔く人」が発刊された年であり、日本労働総同盟が誕生した年である。(中略)
 そしてその年、すなわち私が入学する前の年に軍事教練が実施されたとき、この高等商業学校の生徒たちは軍事教練への反対運動を起こした。それに続いてその運動は各地の高等学校や大学に飛び火し、全国的な運動になった。北国の港町の、この名もない専門学校は、その事件のために存在を知られるようになった。しかし、その軍事教練は、結局実施された。そして私たちも入学早々に週に一度、菅大尉という、この学校の事務をしていた五十歳すぎの老大尉にそれを受けた。大きな口髭を生やし、痩せて顎と頬骨の出張った菅大尉は、その軍事教練のときに、私たちがどんなにダラシなくしても叱ることがなく、君たちが形だけやってくれれば教える方も義務がすむんだという、悟った坊主のような態度で教練をした。私たちは中学校の体操教師の前で感じた緊張感を全く失っていた。私たちは、軍事教練をバカバカしいと思い。のらりくらりと動きながらも、その菅大尉に腹を立てることがどうしても出来なかった。(一 海の見える町) 

※再掲

 

『小樽の反逆 小樽高商軍事教練事件』 (岩波書店 1993年)

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 著者で小説家の夏堀正元(なつぼり まさもと、大正14~平成11年:1925~ 1999年)氏はちょうどこの事件の起きた年に小樽地裁の判事の息子として当地で生まれています。
 

 

 ■ 小樽高商軍教事件
 
 引用文中下線部は有名な「小樽高等商業学校軍事教練事件」について言及したものです。

 1925年(大正14年)10月15日、小樽高等商業学校で配属将校鈴木平一郎少佐の引率の下で野外演習が行われたが、そのときの演習想定が問題となった。
 1.10月15日午前6時、天狗山を震源とする地震が発生し、札幌および小樽の家屋はほとんど倒壊、各地で発生した火災は西風に煽られて勢いを増している。
 2.無政府主義者団は不逞鮮人を扇動して暴動が発生、小樽在郷軍人団はこれと格闘して東方に撃退するも、暴徒は潮見台高地に拠って激しく抵抗し、在郷軍人団の追撃は一頓挫するに至った。
 3.小樽高商生徒隊は午前9時校庭に集合して支隊を編成、在郷軍人団と協力して暴徒を殲滅することになった。
 この想定は関東大震災における甘粕事件や亀戸事件、朝鮮人虐殺事件などを思い起こさせるものであり、演習翌日から朝鮮人団体や境一雄(のちの衆議院議員)を委員長とする小樽総労働組合、政治研究会小樽支部などは抗議運動を展開し、小樽高商の学生有志も『全国の学生諸君に檄す!』という声明書を発表して軍事教育の打倒を訴え、10月29日には学生代表50名が上京して文部大臣に面会を求めるという一幕もあった。
 この抗議運動は全国規模に拡大し、11月9日、立教大学早稲田大学東京帝国大学の三大学新聞は軍事教育反対の共同宣言を発表した。『東京朝日新聞』も軍教問題で2度にわたって社説を書き、安易な軍教の拡大に警鐘を鳴らした。
  (出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

 

 ■ 配属将校

 

 大正14年(1925)「陸軍現役将校学校配属令」の公布により、全国の1041校(大学は41校、高校・高専が92校、中等学校が517校)に陸軍の現役将校が配属されました。
 原則として大学には師団司令部付の大佐、高校・高専は連隊付の中佐、中等学校は少佐か大尉が配置されることになっていました。
 実際の内訳は、大佐18名、中佐38名、少佐214名、大尉 639 名、中尉 1132名で、すべて軍隊内部での教育経験をもつ中隊長クラス以上の将校であったとされています。
 作中では、「五十歳すぎの老大尉」である菅大尉という人物になっていますが、上の記事にあるように同校には「陸軍歩兵少佐・鈴木平一郎」が配属をされていました。

 

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(旧制栃木県立真岡中で行われていた教練の査閲。銃の撃ち方の「試験」もあった。真岡高「百年誌」より、https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/18750

 

 中には、この勅令の公布によって「軍人が学校に侵入してきた」というような誤解もあるようです。
 ところが、前回のブログにもあるように、教科「体操」の中で明治期から「兵式体操」が実施されており、高専レベルでは担当者として陸軍の(予備役)将校と下士官が嘱託として勤務していたようです。
 「小樽高等商業学校一覧. 自大正6年至7年」では第六章「職員」の中に、陸軍歩兵少尉・加藤政秀、陸軍歩兵特務曹長・鷲巣勘二郎という2名の記載があります。

 

 また、引用文には「私たちは、軍事教練をバカバカしいと思い。のらりくらりと動きながらも・・・・」という部分があります。
 一般に、中等学校の生徒に比べて、高等学校や高等専門学校の生徒の中には、配属将校による教練について反感や嫌悪感を覚えるものが多かったと言われています。
 特にリベラリズムの強かった高等学校においては、様々な事件やトラブルが発生していました。

    

 配属将校制度は、宇垣軍縮の一環として大正十四年から始まった。(中略)軍側も当初は概して低姿勢で、大学や高校には彼らの反軍気分に配慮してか、人選に気を遣ったようである。
    何しろ高校には『坊っちゃん』の松山中生もかくやと思わせる悪童や怠け者が集まっていたから、規律厳正な兵士たちを見慣れていた配属将校の違和感がくすぶったのも不思議ではない。

 「ノンポリは一人もいなかった」と宇都宮徳馬が豪語するほど左翼学生が多かった水戸高では(中略)配属将校への抵抗も強かった。教練の時も「朴歯のゲタをはく、銃を逆さにかついで行進」する風景が見られたが、配属将校は我慢していたらしい。
    その反動もあって満州事変以後に軍部全盛時代が到来すると、高校生もそれまでのように気ままな行動はとれなくなった。なにしろ教練に落第点をもらうと、兵役に就いたさい幹部候補生(将校)の受験資格を失う仕組みになっていたので、気安くサボるわけにいかなかった。軍側が高圧的姿勢に転じるなか、あちこちで悲喜劇めいたトラブルが頻発した。

 昭和八年(1933)秋、松江高校の仮装行列で乞食や女給に鉄砲を持たせて行進させたのが、在郷軍人から反軍思想だと騒がれ、物分かりのよい配属将校が上部からきつく叱られる事件が起きている。
    (秦郁彦旧制高校物語』)

  

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(上:旧制松江高校の野外教練・三瓶山、下:同校の仮装行列、時期は不明、「島根大学標本資料類データベース」、http://museum-database.shimane-u.ac.jp/specimen/

 

■ 学校教練 ー中学校と高等学校・大学ー

 

    建築家で京都大学名誉教授の故・西山卯三(にしやま うぞう、明治44~平成6年:1911~1994)氏は、著書『大正の中学生ー回想・大阪府立第十三中学校の日々』の中で、中学校時代(後の府立豊中中学校、大正11年入学)と第三高等学校昭和2年入学)、それぞれの学校での学校教練の様子を描いています。

 

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  〇中学時代(五年時・箇条書きに直しています)
   平常 週1回 6時限に教練の時間
 5月27日から3日間 信太山演習場の廠舎にて野外演習
     28日 岸和田中学・泉尾工業連合軍との対校模擬演習  分列閲兵 夜間演習
     29日 野砲兵隊を見学予定のところ、雨のため中止、雨中行軍にて帰校
 11月19日 池田師範との対校演習(5年生全員参加)  
  1月24日 教練査閲 立ち撃ち、分隊行進、小隊戦闘教練など

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(長野県木曽中学校の分列行進、「信州戦争資料センター・倉庫 長野県から伝える戦争の姿」より、http://sensousouko.naganoblog.jp/e2216158.html、着色加工)

 

 〇三高・京大時代
 

   学校教練は三高にもあった。しかし豊中でそれを受けてきたものには驚くほど「だらしない」ものだった。「八つ割り」草履にゲートルを巻いて出ている生徒もいた。大学に進むとさらに自由で「物わかりの良い」佐官級の将校の講話を聴くだけのようなものだった。軍国主義がまだ世の中をがんじがらめに押さえ込むにいたっていなかった当時は、軍事教練反対の学生運動の余燼が、軍に刺激を避けたいという融和方針を採らせていたからであろう。

  中学校では既に本格的な教練がなされていたことがわかりますが、昭和初年においての旧制高等学校では、形式的で結構ルーズな実態があったことがわかります。

趣味あれこれ 「第324回西明石・浪漫笑」

「ひと月経つの早いね!」

この落語会を教えてくれた落語通のIさんによく言う科白です。

昨夜も開演15分前に到着し、お店(「HANAZONO」という酒屋さん)に入ると、常連さんたち数名はお店の一角、「立ち飲み」ならぬ「座り飲み」コーナーで軽くやりながら開演を待っていました。(この方たちのほとんどは、終演後に噺家さんたちとの打ち上げに参加します。食事込みだと3千円。落語だけだと1200円。10月からは3500円、1500円になるとか)

さて、昨夜の演目ですが・・・

■ 露の紫さん

 『看板のピン』

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博打場の場面では、お顔に似合わず(?)迫力のあるお声で・・・・。

 

■ 桂しん吉さん

『遊山船』

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梅団治さんと並ぶ鉄道落語の創作者です。2歳近い双子のお嬢ちゃんがいて「乗り鉄」もなかなかできなくて、近年は「撮り鉄」も兼ねるようになり、これを「カネテツ」(兼ね鉄)と言うんだと笑わせていました。

大阪府立東住吉高校の芸能文化科を出て、あの名人・故桂吉朝さんに弟子入りした人です。やはり筋がいいですね

 

■ 桂梅團冶さん

『代書屋』

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この会を主宰してまもなく30年。来年3月には超大物をゲストに「30周年記念落語会」が盛大に催されます。

来月、入門40周年の独演会を繁昌亭でやられるそうで、そこでの演目から「師匠の三代目桂春団治の十八番であるこのネタを練習も兼ねてやります」と前置きしていました。

 

この「代書屋」という噺は、故・桂米朝さんの師匠三代目・桂米團治(今は米朝さんの息子さんが4代目)が戦前に大阪で代書屋さんをしていて、その経験から作ったんだそうです。

履歴書を書いてもらいに来る男の名前が、春団治系統では「田中彦次郎」ですが、故・枝雀さん系統では「松本留五郎」と違います。(他に河合浅冶郎とか湯川秀樹などもあるようです

また、男の本職も前者では「ガタロ」(河川に埋没した金属類を回収する業者)ですが、後者は「ポン」(ポン菓子製造販売人)と違っています。

その他、クスグリの入るところも、やはりそれぞれの系統で違っていて、またそれをお弟子さんが継承をしているところが、伝統芸能なんでしょうね。

私は、枝雀さん系統の桂雀太さんのが好きです。

 

伊藤整『若い詩人の肖像』①「軍事教練」その1

  

 私の入る前の年、全国の高等学校や専門学校に軍事教練が行われることになった。その年は、第一次世界戦争が終わってから四年目に当たり、世界の大国の間には軍事制限の条約が結ばれていた。世界はもう戦争をする必要がなくなった。やがて軍備は完全に撤廃される、という評価が新聞や雑誌にしばしば書かれた。軍服を着て歩く将校が失業直前の間の抜けた人間に見えた。そういう時代に、軍隊の量の縮小を質で補う意味と、失業将校の救済とを兼ねて企てられたこの軍事教練は、強い抵抗に逢った。この企ては、第一次世界戦争の終了とロシア革命の成立によって、自由主義共産主義無政府主義、反軍国主義などの新思想に正義を認めていた知識階級や学生の反感をあおった。いまその一九二一年の歴史を見ると、それは日本共産党が創立された前年であり、社会主義の文芸雑誌「種蒔く人」が発刊された年であり、日本労働総同盟が誕生した年である。(中略)
 そしてその年、すなわち私が入学する前の年に軍事教練が実施されたとき、この高等商業学校の生徒たちは軍事教練への反対運動を起こした。それに続いてその運動は各地の高等学校や大学に飛び火し、全国的な運動になった。北国の港町の、この名もない専門学校は、その事件のために存在を知られるようになった。しかし、その軍事教練は、結局実施された。そして私たちも入学早々に週に一度、菅大尉という、この学校の事務をしていた五十歳すぎの老大尉にそれを受けた。大きな口髭を生やし、痩せて顎と頬骨の出張った菅大尉は、その軍事教練のときに、私たちがどんなにダラシなくしても叱ることがなく、君たちが形だけやってくれれば教える方も義務がすむんだという、悟った坊主のような態度で教練をした。私たちは中学校の体操教師の前で感じた緊張感を全く失っていた。私たちは、軍事教練をバカバカしいと思い。のらりくらりと動きながらも、その菅大尉に腹を立てることがどうしても出来なかった。(一 海の見える町)

 

 

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伊藤整
 いとうせい   明治38年~昭和44年・1905~1969
   小説家,評論家。本名,整 (ひとし) 。 1925年小樽高等商業学校卒業。教員となり百田宗治主宰の詩誌『椎の木』に参加,北海道の自然と交響する抒情を素朴なスタイルでうたいあげた詩集『雪明りの路』 (1926) を自費出版。上京して東京商科大学本科に入り (27) ,友人らと批評誌『文芸レビュー』を創刊 (29) し,小説『感情細胞の断面』 (30) で川端康成に認められた。商大中退後,ジョイスの『ユリシーズ』 (31~34,共訳) ,ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』 (35) を翻訳する一方,「内的独白」や「意識の流れ」を重んじる精神分析法を取入れた文学論『新心理主義文学』 (32) や,その実践としての小説『幽鬼の街』 (37) などを書いた。その後,戦時下の知識人の生き方をさぐる『得能五郎の生活と意見』 (40~41) ,『得能物語』 (42) を書き,敗戦後の退廃,混乱期の知識人の姿を『鳴海仙吉』 (50) に戯画化した。完訳『チャタレイ夫人の恋人』 (50) で猥褻罪により起訴されたのを機に芸術表現の自由をめぐる法廷闘争を展開,その体験から得た組織と人間の主題を『裁判』 (52) ,『花ひらく』 (53) ,『火の鳥』 (49~53) に展開する一方,『伊藤整氏の生活と意見』 (51~52) ,『女性に関する十二章』 (53) などの成功もあって,人気作家となった。風刺,諧謔を多用し交響曲的効果をねらう小説形式が特色で,『若い詩人の肖像』 (55) ,『誘惑』 (57) ,『氾濫』 (56~58) などでより成熟した。また物語的手法で『日本文壇史』 (52~69) をまとめ,日本近代文学館の創立にも寄与した。『伊藤整全集』 (24巻,74) がある。 67年日本芸術院賞受賞

 ( 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 

 

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 小樽高等商業学校に入学した「私」は野望と怖れ、性の問題等に苦悩しつつ青春を過ごす。昭和3年待望の上京、北川冬彦、梶井基二郎ら「青空」同人達との交遊、そして父の危篤……。純粋で強い自我の成長過程を小林多喜二萩原朔太郎ら多くの詩人・作家の実名と共に客観的に描く。詩集『雪明りの路』『冬夜』誕生の時期を、著者50歳円熟の筆で捉えた伊藤文学の方向・方法を原初的に明かす自伝的長篇小説。

講談社文芸文庫解説、http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000168438

 

 ■ 小樽高商

 

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(略年譜:創設から新制大学へ)

1905(明治38)年  小樽区会、高等商業学校の誘致にのりだす

1906(明治39)年 11月 第五高等商業学校、小樽に設置決定

1910(明治43)年  3月 文部省直轄諸学校官制改正により、小樽高等商業学校を設置
1911(明治44)年 3月  第一回入学試験志願者150人のうち72人が入学許可

1914(大正  3)年  3月  第一回卒業式、卒業生50人

1926(大正15)年 4月 第十四臨時教員養成所(英 語)設置、28人入学
1930(昭和  5)年 3月  同上廃止

1937(昭和12)年 2月 小樽市議会で本校の大学昇格運動を起こすことを決議

1941(昭和16)年 12月 校内で臨時徴兵検査 
1942(昭和17)年 9月  繰上卒業式

1943(昭和18)年 10月 徴兵延期撤廃により学徒出陣、11 月仮卒業証書授与式
1944(昭和19)年 4月  小樽高等商業学校を小樽経済専門学校に転換

1946(昭和21)年 4月 学友会の設立  緑丘会総会で大学昇格を決議、10月小樽市議会も 大学昇格を決議 
1947(昭和22)年 4月  男女共学を実施、3人の女子学生の入学

1948(昭和23)年  8月 大学教育課長W.C.イールズ氏、小樽経専を視察。 後、GHQが本学の単独大学昇格を許可
  「小樽商科大学 広報誌 ヘルメス・クーリエ 100周年記念号、2011.July 」より「小樽商科大学百年のあゆみ」から

 
    北国の小樽に東京、神戸、山口、長崎に次いで全国で五番目の高等商業学校が創設された背景には、当市が明治末には札幌よりも多い人口9万人を擁しており、商業、貿易の大変盛んな土地柄であったことと、地元の強い誘致運動が展開されたことがありました。 

    戦後新制の国立大学が誕生したとき、GHQ連合国軍最高司令官総司令部 ) の主導で「一県一国立大学」が基本原則(大都市部を除く)とされました。
 多くの高等商業(戦時中に経済専門学校や工業専門学校などに転換または改称させられていました)は、単独で国立大学となることを望んでいましたが、GHQの強い指導で大半が諦めざるを得ない状況でした。
 小樽高商(経専)も、北海道大学(当時は帝大)との統合をするはずのところ、例外的と言ってもよい形で商科単独の国立大学となることができました。
 小樽を訪れたGHQの大学教育課長W.C.イールズとの間で激しいやり取りがあり、なんとか説得に成功したということです。
  

    同校史によれば、「(1)同校の豊かな個性が評価されたこと、(2)世論が単独昇格を強く望んでおり、北大も小樽経専合併を欲していなかったこと。(3)施設設備が整備されており、国費支出が少額で済むことの三点が、その理由であったとされる。」 (天野郁夫『新制大学の誕生』下)

     いずれにしても、極めて珍しいケースではないでしょうか。

 

■ 著名な卒業生

 

  小樽高商出身の作家と言えば、小林多喜二伊藤整のお二人ですね。

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(「小樽商科大学 広報誌 ヘルメス・クーリエ 100周年記念号、2011.July 」より)

 

■ 学校教練 -陸軍現役将校学校配属令ー
 

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  阪高等商業学校(現・大阪市立大学)の学校教練

   

 引用文の冒頭に「私の入る前の年、全国の高等学校や専門学校に軍事教練が行われることになった。」あります。
 ところが、作者・伊藤整が小樽高等商業に入学したのは、大正11年(1922)のことで、有名な「陸軍現役将校学校配属令」が公布されて「全国の高等学校や専門学校に軍事教練が行われることになった」のは、伊藤の卒業した直後、大正14年4月のことでした。彼が新設の小樽市立中学校に英語教師として着任したばかりの頃です。

 

   「軍事教練」は一般用語で、公式には「学校教練」と称していました。
 既に明治19年(1886)に初代文部大臣の森有礼(もりありのり)の提唱によって中等学校や高等小学校に「兵式体操」という科目が導入されていました。
(私のブログ「坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」では、コラムその7「兵式体操」で取り上げています。

https://sf63fs.hatenablog.com/entry/2019/02/26/084928

 しかし、この「兵式体操」については、本来の精神から離れ、形式に流れているなどと、その実効性を疑う声も多かったということです。

 文部省、陸軍省のそれぞれには次のような思惑があったと研究者は指摘しています。

 第一次世界大戦が終り,軍縮が進行するに従い ,世界の情勢が変化した。即ち,来るべき戦争は国家総力戦であり,それには国家総力をあげての戦争への動員を可能とする体制を,軍縮が進行する中で構築しなければならなかった。

 そして,そこに軍縮により余剰となった将校をいかに確保するかという問題,有事の際に動員した国民を短期間で兵とするための軍事予備教育の問題 ,思想対策の問題が生じた。陸軍側としては将校はそれ相当の軍事教育と経験を有することから,兵を作るようなわけにはいかない。

 そして軍にとっては学校で行う軍事教育は不十 分であるという認識があった 。文部省側には徳育を裨補し,体育に資することが現状に鑑み要務であり,それには現役将校による教練が有効であるという認識があった。   

 そして,ここに余剰将校を現役将校として確保し,志気を沈滞させないために現役のまま学校に配属し,教練に当らしめ,学生生徒に軍事予備教育を与えるという方策が考案された。※下線・太字は筆者

「配属将校制度の成立過程について」(大橋伸次)

 

 やや難解な表現ではありますが、文部、陸軍両省の利害が一致したというところでしょうか。(もちろん、両省の合意だけで実施できるものではなく、10年近くにわたって内閣直属の重要な教育諮問機関である臨時教育会議及び文政審議会での審議を経たのものでした )

  

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山梨県甲府中学~現甲府第一高~の教職員集合写真、昭和7年・1932、https://mainichi.jp/articles/20160223/ddm/002/040/075000c

   

 【対象となった学校】

 師範学校 中学校 実業学校

 高等学校  大学予科  専門学校 大学学部

 高等師範学校  臨時教員養成所  実業学校教員養成所
 実業補習学校教員養成所

 

 【実施内容】

 各個教練、部隊教練、射撃、指揮法、陣中勤務、手旗信号、距離測量、測図学、軍事 講話、戦史など

 

 

 

  

島崎藤村『夜明け前』① 「上等・下等小学校」

 

 

 一方にはまた、学事掛りとしても、村の万福寺の横手に仮校舎の普請の落成するまで、さしあたり寺内を仮教場にあて、従来寺小屋を開いていた松雲和尚(しょううんおしょう)を相手にして、できるだけ村の子供の世話もしなければならないからであった。子弟の教育は年来の彼のこころざしであったが、まだ設備万端整わなかった。(第二部第八章)

  
    

    新時代の教育はこの半蔵の前にひらけつつあった。松本までやって来て見て、彼は一層その事を確かめた。それは全く在来の寺小屋式を改め、欧米の学風を取りいれようとしたもので、師範の講習もその趣意のもとに行なわれていた。その教育法によると、小学は上下二等にわかたれる。高等を上とし、尋常を下とする。上下共に在学四か年である。下等小学生徒の学齢は六歳に始まり九歳に終わる。その課程を八級にわかち、毎級六か月の修業と定め、初めて学に入るものは第八級生とするの順序である。教師の心得(う)べきことは何よりもまず世界の知識を児童に与えることで、啓蒙(けいもう)ということに重きを置き、その教則まで従来の寺小屋にはないものであった。単語図を教えよ。石盤を用いてまず片仮名の字形を教え、それより習字本を授けよ。地図を示せ。地球儀を示せ。日本史略および万国地誌略を問答せよの類(たぐい)だ。試みに半蔵は新刊の小学読本を開いて見ると、世界人種のことから始めてある。そこに書かれてあることの多くはまだ不消化な新知識であった。なお、和算と洋算とを学校に併(あわ)せ用いたいとの彼の意見にひきかえ、筑摩県の当局者は洋算一点張りの鼻息の荒さだ。いろいろ彼はおもしろくなく思い、長居は無用と知って、そこそこに松本を去ることにした。ただ小倉啓助のような人を自分の村に得ただけにも満足しようとした。彼も心身の過労には苦しんでいた。しばらく休暇を与えられたいとの言葉をそこに残し、東京の新しい都を見うる日のことを想像して、やがて彼は塩尻、下諏訪から追分、軽井沢へと取り、遠く郷里の方まで続いて行っている同じ街道を踏んで碓氷峠(うすいとうげ)を下った。   (第二部 第十章)

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島崎藤村(しまざきとうそん)

1872~1943、明治-昭和時代前期の詩人,小説家。
明治5年2月17日生まれ。島崎正樹の4男。東北学院,小諸義塾などの教師をつとめる。明治26年北村透谷らの「文学界」創刊に参加。30年「若菜集」で新体詩人として出発し,ついで「一葉舟(ひとはぶね)」「落梅集」を刊行。39年「破戒」で自然主義文学の代表的作家となり,「新生」「夜明け前」などを発表した。昭和18年8月22日死去。72歳。長野県出身。明治学院卒。本名は春樹。デジタル版 日本人名大辞典+Plus

   

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 『夜明け前』(よあけまえ)は、島崎藤村によって書かれた長編小説。2部構成。「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで知られる。
   日本の近代文学を代表する小説の一つとして評価されている。
米国ペリー来航の1853年前後から1886年までの幕末・明治維新の激動期を、中山道の宿場町であった信州木曾谷の馬籠(まごめ)宿(現在の岐阜県中津川市馬篭)を舞台に、主人公・青山半蔵をめぐる人間群像を描き出した藤村晩年の大作である。青山半蔵のモデルは、旧家に生まれて国学を学び、役人となるが発狂して座敷牢内で没した藤村の父親・島崎正樹である。     出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

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中山道・馬籠宿)

 

 ■ 上等・下等小学校

 

 明治5年(1872)発布の「学制」において小学校の制度は、次のように定められました。

 

 尋常小学は小学校制度の本体をなすものであって、上下二等にわかれ、男女ともに必ず卒業すべきものとし、下等小学は六歳から九歳まで、上等小学は十歳から十三歳までとしている

 その教科は下等小学では綴字・習字・単語・会話・読本・修身・書牘(とく)・文法・算術・養生法・地学大意・窮理学大意・体術・唱歌の一四教科であり、上等小学はこのほかさらに史学大意・幾何学大意・罫(けい)画大意・博物学大意・化学大意・生理学大意を加え、土地の状況によっては、外国語の一、二・記簿法・図画・政体大意を加えうることとした。   文部科学省「学制百年史」「 一 学制における小学校の制度」http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317586.htm

 

 

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明治6年学校系統図)

 

 現在の高知県高岡郡佐川町に生まれた植物学者牧野富太郎(まきの とみたろう、1862年5月22日(文久2年~昭和32年・1862~1957)は、できたばかりの小学校に入学した頃のことを次のように回想しています。

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 そうしておるうちに明治七年はじめて小学校ができ、私も入学した。私は既に小学校に這入(はい)る前に色々と高等な学科を習っていたのであるが、小学校では五十音から更(あらた)めて習い、単語・連語・その他色々のものを掛図について習った。本は師範学校編纂の小学読本であった。博物図もあった。

 その頃の学校にはボールドはあったが、はじめチョークというものが来なかったので「砥の粉(とのこ)」で字や画をかいたが、間もなくチョークが来た。
小学校は上等・下等の二つに分たれ、上等が八級、下等が八級あって、つまり十六級あった。試験によって上に進級し、臨時試験を受けて早く進むこともできた。私は明治九年頃、せっかく下等の一級まで進んだが、嫌になって退校してしまった。嫌になった理由は今判らないが、家が酒屋であったから小学校に行って学問をし、それで身を立てることなどは一向に考えていなかった。      『牧野富太郎自叙伝』より「幼年期」下線は筆者

 ※ボールド・・・・黒板

 この頃の小学校は、能力に応じて課程を修める「等級制」を採用していました。

 一年たてば、皆がそろって進級できる「学年制」ではなく、半年ごとに行われる進級試験に合格した者だけが上の級に進むことができたのです。

 ですから、下の写真のように卒業証書も半年ごとに出されました。 

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(「モノが語る明治教育維新」第16回―日本最初(!?)の卒業証書 (1)筆者: 唐澤 るり子、https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/mono16

 

 「進級試験」(定期試験、昇級試験等とも)は厳格さが重視され、落第する者も多くいました。

 学校に適応できず、退学する者も多く、明治8年の等級別在籍者の比率をみると、第八級が65.2%と全体の3分の2を占めるのに対し、第七級は16.7%と激減します。

 級が上がるほどに在籍者は少なくなり、第一級ともなると全児童の0.1%しかいなかったというデータがあります。

 下等小学といえど、卒業がいかに難しかったかということが分かります。

 一方で、この制度の下では飛び級が認められていました。

 有名な例としては夏目漱石(金之助)が挙げられます。

 彼は下等小学の第八級と第七級を半年で終え、続く第六級・第五級も半年で終えています。

 そうした優秀な生徒には、証書の他に褒賞も与えられたことが、漱石の自伝的作品『道草』の中に出てきます。

「小学校の卒業証書まで入れてある」
   その小学校の名は時によって変っていた。一番古いものには第一大学区第五中学区第八番小学などという朱印が押してあった。
 「何ですかそれは」
 「何だか己も忘れてしまった」
 「よっぽど古いものね」
  証書のうちには賞状も二、三枚交まじっていた。昇(のぼ)り竜と降(くだ)り竜で丸い輪廓(りんかく)を取った真中に、甲科と書いたり乙科と書いたりしてある下に、いつも筆墨紙と横に断ってあった。
 「書物も貰(もら)った事があるんだがな」
  彼は『勧善訓蒙(かんぜんくんもう)』だの『輿地誌略(よちしりゃく)』だのを抱いて喜びの余り飛んで宅(うち)へ帰った昔を思い出した。 

『道草』三十一

     

 同様の例をもう一人。明治の文豪・幸田露伴(慶応3年~昭和22年・1867~1947)

の「少年時代」からの引用です。

 

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 「飛び級」のことが「抜擢」と表現されています。

 九歳のとき彼のお千代さんという方が女子師範学校の教師になられたそうで、手習いは御教えにならぬことになりました。で、私を何所へ遣ったものでしょうと家でもって先生に伺うと、御茶の水の師範学校付属小学校に入るが宜かろうというので、それへ入学させられました。其頃は小学校は上等が一級から八級まで、下等が一級から八級までという事に分たれて居ましたが、私は試験をされた訳では無いが最初に下等七級へ編入された。ところが同級の生徒と比べて非常に何も彼も出来ないので、とうとう八級へ落されて仕舞った。下等八級には九つだの十だのという大きい小供は居なかったので、大きい体で小さい小供の中に交ぜられたのは小供心にも大に恥しく思って、家へ帰っても知らせずに居た。然し此不出来であったのが全く学校なれざるためであって、程なく出来るようになって来た。で、此頃はまだ頻りに学校で抜擢ということが流行って、少し他の生徒より出来がよければ抜擢してずんずん進級せしめたのです。私もそれで幸いにどしどし他の生徒を乗越して抜擢されて、十三の年に小学校だけは卒業して仕舞った。(「少年時代」)

 

 

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 当初の就学率は上のようになっていました。

 学校へ行く意味も十分に理解されないような状況で、義務教育とはいいながら授業料が徴収されていたわけですから、当局の奨励にもかかわらず、就学率が伸び悩んだのも当然と言えるかもしれません。

山本有三『路傍の石』④ 「私立大学の専門部」

 

 日給が取れるようになると、彼は前の学校の近くにある、私立大学の商科の夜学専門部にはいった
(中略)
 ところが、前の学校の近くまで行くと。門の前は学生で黒くなっていた。ビール箱の上に乗って、演説している学生もあった。吾一は思わず足をとどめた。
「・・・・諸君、諸君はこれでも黙っているのか。これでも学校の言うなりになっているのが、生徒の本分だと思っているのか。」
「ノー、ノー。」
「学校当局は、今度もまた学校改善のためだという。しかしながら、諸君、改善の名や美しといえど、改善、改善と叫びながら、学校は今までに、いったい何を改善してくれたのだ。」
(中略)
「あれはな、生徒が演説をやっているんじゃない。教師がやっているんだ。ビール箱の上に乗っかっているのは、生徒だが、あれはただの人形だよ。学校騒動っていうと、世間では生徒が騒いでいるように思っているけれども、本当は生徒が騒いでいるのではない。生徒を騒がせているのだ。」
「先生のうちにそんな人がいるんですか。」
「怖い世の中だよ。同じ学校に働いていながら、内実は敵味方だ。どこの学校でもとは言えないが、大抵の学校には、中に党派があってな、お互いに、相手の落ち度を見つけ出しては、たたき落そうとしているのだ。」(「学校」一)

 

(結局、次野先生はこの騒動の結果、教員免許を持っていないことを理由に整理・解職された20名近くの一人に含まれてしまいました。)

 

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■ 「私立大学の夜学専門部」へ

 

 吾一が卒業した「夜間の商業学校」というのは、作中に「生徒の間から甲種昇格運動が起こってきましたからね。」(「あらしのあと」一)という教員の言葉があって、明治32年(1899)の「実業学校令」に規定された「乙種商業学校」(修業年限を3年以内、入学資格を12歳以上で高等小学校2年修了程度とする)であることがわかりました。
 そうした学歴しか持たない吾一が、「私立大学の商科の夜学専門部にはいった」となると、ちょっと違和感を覚えてもおかしくはないでしょう。
 どうも、受験勉強をしているような形跡もありませんし、また、それが可能な状況でもありません。
 そこで、明治30年代後半あたりの私立大学専門部や専門学校のことを調べてみると、いろんなことがわかってきました。

  専門部(せんもんぶ)とは、第二次世界大戦前の日本に旧制大学の付属機関として設置されていた教育組織である。専門部は、大学令に基づく組織ではなく、専門学校令に基づく別教育機関であり、実学を中心とした教育組織であった。多くは○○大学付属専門部○科ないしは○○大学付属××専門部という名称となっている。
    出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

 

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 「専門部」は多くの私学において、財政的な基盤を担っていました。つまり、学生数においても「大学部」の数倍の学生を収容して、その授業料を収入源としていたわけです。
    多くの 私学では、予科を経なければ進めない「大学部」よりも、 中学卒業程度の学力があれば入学することができる「専門部」(本科)のほうが人気を博していました。

    さらに、「別科」にあっては学力や学歴を問わないことから、吾一のように中学校に進めなかったような苦学生を多く収容していたということです。
     こうして、「大学」を名乗りながら、「専門部」へ入学者が集中したのは、比較的短期間での「速成」が可能であったことと、何よりも「夜間開講」であっ たことが大きな要因でした。

 作中では「夜学専門部」という表現がされていますが、専門部はほとんどすべてが「夜学」であったのです。
   この当時、東京にあった商学の専門部をもつ大学しては、次の学校が挙げられます。

 早稲田大学  中央大学   日本大学  法政大学  明治大学

 

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専修大学の正門、大正6年:1917、https://www.senshu-u.ac.jp/event/20180227-00000350.html

※正門の左には「高等予備校」の看板が見られます。私立大学の中には経営のために、官立の高等学校受験のための予備校を併設しているところがありました。

    学生の服装がいかにも勤労青年といった風ですが、中には壮年といってよいような人も写っています。昼間の学校と違って、学生の年齢層が広かったのでしょう。

 

■ 授業も教師もパートタイム

 

 明治時代前半の私立学校の授業は大部分が午後または夜間に行われていました。

 その後、経営が安定するにつれて昼間の授業が増えてきましたが、法政・日本・専修などの私立大学では、大正の初めでも夜間部が中心の授業形態をとっていました。

(天野郁夫『旧制専門学校』)

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 明治期の授業風景、「だから、専修!2013」より、https://yab.yomiuri.co.jp/adv/senshu/dakara-senshu/ds01.html

 こうした授業形態は、吾一のように昼間働きながら「苦学」を続け、「立身出世」を夢見る青年には好都合でした。

 一方で、この形態は、財政面から専任教員を雇えず、非常勤講師に全面依存していたこれらの学校にとっては、教員の確保ができるという点でもメリットのあるものでした。

 明治大学の専門部には、明治37年(1904)の時点で65名の講師がいましたが、それらの講師の本職は司法官28、弁護士、東京帝大教授6、行政官・会社員4、その他11となっていました。(天野・前掲書)

 卒業生を海外へ留学させるなどの努力をしていた早稲田、慶応の両校を除くその他の学校にとっては、教員を「自給」するなど至難のことというのが実態であったようです。

 

山本有三『路傍の石』③ 「苦学生」

 

「大きくなったもんだなあ。-ところで、学校はどうした。」
「学校へなんか、とても行けません。」
「夜学にも行っていないのか。」
「ええ。行きたいとは思ってるんですけれど、まだ小遣いだけで、とても給料をもらえるようになれないもんですから。」(中略)
「おい、おまえは商業学校でも行くか。」
持っていたトックリを、彼は、パタリとチャブ台の上に置いた。
「へえ。」吾一はびっくりして、次野の顔を見上げた。
「おれの行ってるところでよけりゃ、おれがなんとかしてやるがな。」
「先生は、こちらでも学校に出ておいでになるんですか。」
「うん、食えないから、夜学の商業学校に行っているのだ。」
「先生の教えている学校へ上がれば、こんな、ありがたいことはありません。」
「きたない学校だぞ。」
「ええ、結構です、勉強さえできりゃ。」
(「次野先生」二)

 

 

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昭和13年・1938の日活映画のポスター)

 

■ 夜学の商業学校へ
  
 吾一の置かれた状況を見かねた近所の書店の主人・黒川が学費の援助を申し出ましたが、士族でプライドの高い父の同意を得られず、吾一は同級生秋太郎の父が経営する呉服屋・伊勢屋に丁稚奉公することになってしまいました。
 伊勢屋から逃亡したのち、吾一は父のいる東京へと向かいます。
 文選工をしていたときに、偶然恩師の次野と再会、次野のはからいで彼の勤める「夜学の商業学校」に入ることになりました。
  昼間働いて学費を稼ぎ、夜は学校に通うという苦学生の道を選んだのです。
 

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山本有三の学んだ正則英語学校、http://www.seisokugakuen.ac.jp/about/history.html

 さて、吾一の入った学校というのは、どんな学校だったのでしょうか。
 作中では、まず、1時限が地理の授業で、続いて、算術、英語という時間割になっていますから、これは中等学校レベルの各種学校ではないかと思われます。
 作者自身は、中学への編入を目指して正則英語学校(後に正則商業学校)に学んだ経験がありますから、そのことが反映されているのではないでしょうか。
 明治36年(1903)当時、東京府には私立の各種学校が271校あり、約2万6千の学生・生徒が在籍していました。(「東京府学事年報」第34・35より)
 「次野の計らいで、彼は秋の学期から夜学の商業学校に、~」とありますから、入学試験や編入試験のない、融通の利く学校だったのでしょう。
 上の「学事年報」には「設立認可ニ関シテハ厳密ナル調査ヲ遂グルヲ以テ経済ノ基盤不確実ニシテ興廃常ナキモノノ如シハ漸ク其ノ数ヲ減セリ」と現況報告があります。
 言い換えると、それまでいかに経営基盤の弱い各種学校が多かったかということになります。

 

■ 苦学ブーム
  

 さて、この「苦学」という言葉も今ではすっかり死語になってしまいましたが、この言葉がブームになった時代がありました。
 ちょうど、本作品の時代背景となる明治三十年代のことでした。

 

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(酒井勉『男女 東京苦学遊学案内』修学堂、明治39年・1906)

 

 何故、明治三十年頃から苦学ということが盛んに言われるようになったのだろうか。単に明治三十年以後、苦学が大量化したということにとどまらない。明治三十年以前と以後とでは苦学の質的転換があったからである。
 明治二十年代までの学歴/上昇移動センスは、士族や比較的富裕な階層の子弟に限定されていた。富裕な層であれば苦学はあり得ない。また富裕でなくても士族の子弟たちは、藩の寮や奨学金、東京で成功している親戚や知人などの人的ネットワークを利用できた。(中略)三十年以前の苦学はさまざまなネットワークに庇護されていた。「庇護型」苦学である。
 明治三十年代に士族以外の貧しい階層に上京遊学熱が広がる。ネットワークなしの上京遊学が大量現象として生じる。つまり、この間に苦学の大量化現象という量的変化と、「庇護型」苦学から「裸一貫型」苦学への質的変化があった。(竹内洋『立志・苦学・出世ー受験生の社会史ー』)

   

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 そうしたブームの中で、苦学生のためのハウツー本も多く刊行されました。

 

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 上は、吉川庄一郎『東京苦学案内』(保成堂、明治34年・1901)という本の目次です。

 苦学生の心構えから始まり、「自活の方法」として、苦学生に適した様々な仕事が紹介されています。

 そのうち、新聞配達、人力車夫、牛乳配達の三つが、主な仕事でした。

 しかし、現実にはこれらの仕事は中学生程度の年齢の者にとっては過酷すぎました。学校に出たとしても睡魔に襲われ、勉強どころではありません。重い病気にかかるものも少なくありませんでした。

 「日本力行会」という団体が明治31年(1899)に組織され、苦学生に職業を斡旋したり、宿舎を提供したりしていましたが、その会長自身が「苦学は百人に一人しかその初志を貫徹しない」とまで言い切った(竹内・前掲書)ぐらいに、困難を極めたのが、苦学生の実態でした。

 少年向けの雑誌や「中学世界」のような受験雑誌には成功談だけでなく、次第に苦学の失敗談苦学生堕落などといった内容の記事が掲載されていくようになったと言います。

 それでも、こうした遊学・苦学ブームは大正期にかけても、おさまることはありませんでした。

山本有三『路傍の石』② 「中学へ進むには・・・・」

ねえ、おっかさん・・・・」と、口を切った。
「なに。ー」
「ねえ、・・・・やっておくれよ。-いいだろう。」
中学のことは今に始まったことではない。こう言えば、おっかさんには、すぐにわかると思っていた。しかし、おっかさんは、
「どこへ行くんです。」と、そっけなく聞き返した。
「中学校さ。」
「まあ、おまえ、そんなところへ・・・・」
  おれんは、うわ目で吾一をちらっと見ただけで、袋を張る手は少しも休めなかった。
「だって、秋ちゃんも、道ちゃんも行くんだぜ。」
「そりゃ、ああいうおうちのむすこさんなら、行くでしょうさ。-」
「だから、おれもやっとくれよ。」
「・・・・・・・・」
「そうはいきませんよ。お医者さんや、大きな呉服屋のむすこさんとは、いっしょになりませんよ。」
「だって、秋ちゃん、学校、できないんだぜ。」
「・・・・・・・・」
「あんなできないのいが行くんなら・・・・」
吾一ちゃん、中学はね、できる人ばかりが行くんじゃないんですよ。」
「そ、そんなこと言ったって、できないやつなんか、受かりゃしないよ。きょう、先生が言ったよ。はいる前に入学試験があるんだって・・・・」
(中略)
「よう、おっかさんてば。やっておくれよ。」(「その夜の言葉」二)

 


 幸いなことには、訴訟さえすめば、父が学資を出してくれるというので、彼は裁判が早く終わることを望んでいた。そして、前の通り、一生懸命受験勉強をやっていた。
 ところが、入学試験、入学試験と、志願者たちが騒いだほどのこともなく、土地柄のせいもあるのだろう、いよいよとなったら、応募者の数が意外に少なくて、中学へ願書を出した者は、無試験でみんな入学を許されることになった。それを聞くと、秋太郎などは飛び上がって喜んだが、吾一は張り合いが抜けてしまった。それだけならなんでもないが、願書の受付が締め切りになるというのに、入学金がないので彼は願書を出すことができなかった。(「移り変わり」二)

 

 

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吾一(池田秀一)と母・おれん(淡島千景
  東映映画『路傍の石』(1964年)より
  https://ameblo.jp/musasino-0514/entry-12341770702.htm

 

■ 「高等小学校現象」とは

 

 明治20年代後半から尋常小学校の就学率が増加し、30年代に入ると高等小学校へ進む子供たちの数も増え続けました。
   明治28年から38年の10年間は、毎年一万人ずつの増加が見られたということです。
 一方、その間に高等小学校卒業者で中学校を初めとする中等学校に進学しない者も急激に増加し、卒業者のおよそ70~80%は上級学校に進みませんでした。

 竹内洋『立身出世と日本人』では、そのあたりの事情を、「高等小学校現象」という言葉を使って説明しています。

 

 彼らは学校によって欲望を喚起されながら、鎌を腰にして農作業にいそしむか、町(村)役場の書記や給仕、巡査、小学校の代用教員となり日々憂悶する。父母もこれを持て余し、当人も自分の憂悶を持て余す。勉強立身の空転が始まる。こういう空転を「高等小学校現象」と呼ぶことができる。小学校時代の友人が進学していくのを見て羨望に耐えず自暴自棄になってゆく。家は貧しく母を養わなければならない。中等学校に進学したいが、資金も時間もない。示唆と教示をあたえてほしい式の投書が少年雑誌にふえるのがこのころである。

 

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(高等小学校の同級生たち。秋太郎=吾一が丁稚奉公する呉服屋伊勢屋の息子で中学へ進む。京造役は当時15歳の風間杜夫少年!,http://garadanikki.hatenablog.com/entry/20180624/1529794800

 

⬛️   中学へ進むには  ―三つの「力」―

 

 そのころ一般に、「中学校に入り、無事に卒業するためには、『学力』『資力』『体力』(健康)の三つがそろっていないとだめだ」と考えられていました。ここでは、「体力」を除く二つの「力」について見ていくことにします。
  
 まず、「学力」についてですが、制度上は高等小学校二年の課程を終えて進学できるようにはなっていました。しかし、実際は高等三年、四年を終えた者の比率が高かったのでした。
 山本有三の地元、栃木町(現在の栃木市)には、明治29年(1896)に栃木県尋常中学校の栃木分校が開設されていました。

    山本勇造少年が入りたかった同校は、明治32年(1899)独立して栃木県第二中学校(後に栃木中学校、現在の栃木高等学校)となります。

 

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(栃木高等学校の記念館。創設時の校舎)

 「明治33年栃木県学事年報」(国立国会図書館デジタルコレクション)によると、その年の入学者88名のうち高等二年修了者はわずか4名(5%)でした。最も多いのが高等四年修了の62名(70%)、続いて高等三年修了の22名(25%)といった状況でした。
  これは、中学校側の要求する学力と、高等小学校で培われたそれとの間に、かなりの隔たりがあったことを示すものだと言えます。
  ちなみに、同書には明治33年の入学者は88名で、志願者は299名(3.4倍)という記載があります。
 また、同年の他校の志願倍率をみても、第一中学校(3.1倍)、第三中学校(2.4倍)となっています。
 作中の「応募者の数が意外に少なくて、中学へ願書を出した者は、無試験でみんな入学を許されることになった」というのはフィクションではないでしょうか。

 

 もう一つの要件である「資力」、すなわち家庭の経済力ですが、吾一の母親の言葉に端的に示されているように、進学の可否に関しては「学力」以上に極めて重要な要件でした。
 明治三十年代半ば頃の公立中学校の授業料を各県の「学事年報」で調べてみますと、授業料の月額は、次のように一円から一円五十銭といったところでした。
  

  兵庫県  一円(兵庫県立中学校学則、明治三十四年五月)
  静岡県  一円二十銭(静岡県立中学校学則、明治三十四年三月)
  長野県    一円四十銭(長野県立中学校学則、明治三十四年三月)
  三重県    一円五十銭(三重県立中学校学則、明治三十八年七月)

  当時は各府県とも学校数が限られており、交通機関が未発達であったために、寄宿舎に入らざるを得ない生徒の比率が高く、保護者にとっては、授業料にその費用を加えると、相当な負担になっていたものと思われます。     

    寄宿生が一ヶ月に要する費用は、次の表のように、小学校正教員平均俸給月額の六割程度にも達するほどでした。

  

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  明治38年(1905)に、和歌山県の潮岬村にあった高等小学校四年から、県立新宮中学校(現在の県立新宮高等学校)の二年級に編入した西(旧姓・山口)弘二氏は、父親から次のように言われたと述べています。
 

    父に話すと「中学校など以ての外、あれは金持ちの学校で、一年に百円も要るのだ。夢にも左様な考えを持つな。師範なら金も要らず、直ぐ職に就けるから、やってよい。中学はとてもとても、少しばかりの田畑や山でも売らねばならぬ。出来ない相談だ。祖先には済まぬ」とて、相手にしてくれなかった。  (『日本の教育課題10 近代日本人の形成と中等教育』)

 

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詩人で小説家の佐藤春夫(明治25~昭和39年・1892~1964)はその頃新宮中学校に在籍していました。

    吾一の母親にしても、西氏の父君にしても、その言葉から、当時の庶民が中学校というものをどのように見ていたかがよく分かりますね。

 

# 吾一役の池田秀一さん(1949年生まれ)は、我々世代が子供の頃の名子役でした。

現在は声優として『 機動戦士ガンダム』のシャア・アズナブル役をはじめ、『名探偵コナン』の赤井秀一役など、人気作品のキャラクターを多く演じていらっしゃいます。