小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

木山捷平「修身の時間」

 谷崎潤一郎小さな王国」の方は、少しだけお休みをいただいて、40代前半から大ファンになった木山捷平さんの作品を取り上げてみます。

 その名もズバリ「修身の時間」(初出、昭和34年9月「別冊文藝春秋」、講談社版全集第4巻所収)

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木山捷平

木山 捷平(きやま しょうへい、1904年(明治37年)3月26日 - 1968年(昭和43年)8月23日)は、岡山県小田郡新山村(現在の笠岡市)出身の小説家、詩人。東洋大学文科中退。詩人として出発し、のち小説に転じた。「海豹」同人。満州で敗戦を迎え、帰国後、その体験をもとに長編『大陸の細道』『長春五馬路』などを発表。私小説的な短編小説やエッセイを得意とした。作家として目立たない存在であるが、庶民性に徹した飄逸と洒脱な表現で没後も根強い愛読者を持つ。

 

 私が小学生のころ、父は毎朝十時ごろまでねていた。文壇に名を馳せることは、もはやあきらめていたろうが、それでも夜は一時二時ごろまで机に対(むか)って、お茶をのんだり、本を読んだり、漢詩のようなものを微吟したりしていたから、農夫にとって常識であるところの、鶏鳴と一緒にはおきられないのであった。金次郎の叔父の万兵衛の言い草ではないが、いたずらに灯油を消費するばかりであった。
    ある日、学校で修身の時間、受持の先生が、
「お前たちのお父ッつぁんは、今朝、お前たちが学校にくる時、何をして居られたか」
という突拍子もない質問を発したことがあった。私にも第何番目かに指名があたった。私はハイと勇んで立ち上がり、
「ハイ、わしのお父ッつぁんは、わしが学校に来るとき、まだねて居られました」
と正直に答えると、間髪をいれず、教室中にどっと船端をたたくような哄笑がまい上がった。
 私は前の生徒が答えた、「ハイ、おらのお父ッつぁんは、藁をうって居られました」とか、「ハイ、おらのお父ッつぁんは、牛屋の掃除をして居られました」などという立派な答えに比較して、自分の返事はひどく桁はずれの落第であったのかと、恥ずかしさに机の下に頭をかくして、長い間哄笑がしずまるまで、息の根をころしていなければならなかった。

 

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(定金恒次『木山捷平の世界』岡山文庫より)
 

 定金恒次『木山捷平研究』によれば、この作品は尋常小学校1年の修身書(明治43年)のうち、第12課「オヤヲタイセツニセヨ」という徳目の授業風景を回想的に綴ったものだということです。

 実際の父親像は、作中の記述とは全く相違しており、捷平の父・静太は村役場の収入役を勤める傍ら、果樹の種苗作りや品種改良に打ち込んだ精農家でした。

 こうした「戯画化」あるいは「自虐性」というのは木山さんの最も得意とするところで、「諧謔精神」ともいうべきもののなせるわざだと、定金氏は述べられています。

 

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「尋常小学修身書巻1」東京書籍、明治43年(1910) 
国立教育政策研究所・近代教科書デジタルアーカイブ

国定教科書第2期に使用された教科書です。

 

 1年生に「オヤヲタイセツニセヨ」という課を教えるに際して、これはよくあることですが、まずは各自の父親の日常の姿を想起させるというところから授業が始まっています。

 担任の米沢千秋先生は、上の写真のように詰め襟の制服姿も初々しい青年教師ですが、後に自らも歌人としても活躍され、矢掛中学校(現在の岡山県立矢掛高等学校)時代に詩や歌を作り始めた木山さんに大きな影響を与えた方でした。

 

 本作品の後半は、第17課「チュウギ」の話題です。

     担任の米沢先生の、備中の方言ですが、まるで講談の一席を語るような名調子が続き、子供たちの手に汗握る様子が目に浮かぶようです。

 実は、木山さんは姫路師範学校本科二部を卒業後、兵庫県出石郡弘道尋常高等小学校(2年)、同県飾磨郡荒川尋常高等小学校(1年)、同県同郡管生尋常高等小学校(1年)、東京府葛飾第二尋常高等小学校(2年)などで6年ほど教職に就いていましたので、その間の経験が反映されたものと見ることもできます。

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  ところで、私も(前期高齢者ですから)何がきっかけかは忘れましたが、木口小平のことは知っていました。

[生]1872.
[没]1894.7.29. 朝鮮,成歓
軍人。日清戦争中,安城渡の戦いで,歩兵 21連隊ラッパ手としてラッパを吹きつつ突撃中,左肺に敵弾が当り戦死。 1910年から尋常小学校1学年用の国定修身教科書に忠義の手本として「シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と,取上げられた。(「コトバンク」)

 ただ、その文句は、「キグチコヘイ ハ   シンデモ ラッパ ヲ クチ カラ ハナシマセンデシタ」というものでした。
 ところが、このたび国立国会図書館のデジタルコレクションなどで見ると、捷平さんが習った国定教科書2期(明治43~大正6年、木山さんは明治43年尋常小学校1年生)においては、上の画像のように「キグチコヘイ ハ   ラッパ ヲ クチ ニ アテタ ママ シニマシタ。」という一文なのです。

  この教材の一文は、第3期国定教科書(1918年・大正7~1933年・昭和8年)で改訂され、次のよく知られたものになったようです。

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 今見ると、いくら日露戦勝後の軍国主義華やかなりし時代とはいえ、小学校1年生には、実在の人物の壮絶な戦闘死の例を扱ったという点では、生々しすぎる題材ではと思われます。

 当時の教師用指導書には、これは一例ですが、次のような記述がありました。

 「木口小平が松坂大尉に従って,ラッパ吹奏の命令を受け,敵前数歩の所にありて,少しも恐れず,勇ましく進撃の譜を奏すること三度に及びしとき,忽ち弾丸に中りて舞れたりと解説」し,「諸子よ,日本人たるものは,天皇陛下の御命令あらば,勇んで戦場に出でざるべからず。ーたび戦場に出たるものは上官の命ずるままに火の中,水の中にも飛び入りて天皇陛下の御ために尽くさざるべからず」と「忠義」の実践に言及している。

「第二期固定修身教科書の忠義及び「忠君愛国」教材の背景一日露戦争に着目して一」(J ason S. Barrows )

 

 

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教師用指導書における指導案の一例

最後は教育勅語と関連付けて終わるようにとなっています。

 

 本作品の終わりに近いところで、木山さんはこんなことを言っています。

 私が、木口小平は私のところ岡山県笠岡市山口)からわずか六、七里しか離れていない、いわば同郷人岡山県高梁市成羽町だと知ったのは、それから三十年もたった昭和十七、八年のことである、迂闊な話だが、その時私は小平はあんなに国定教科書にまで採用されている有名人でありながら、まだ二等卒のままであることを初めて知った。金鵄勲章ももらっていなければ、勲八等さえもらっていないことも初めて知った。当時(大東亜戦争といった時代)は兵卒でもちょっとしたテガラをたてると、二階級とんだり、三階級特進したりしていた時代だったので、私はまことにヘンな気がしてならなかった。

 それにしても「三階級特進」とは!?

 いかにも、捷平さんらしい感想ですね。

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関連書籍を含めると100冊を超えていました(笑)

100年前のスペイン風邪の時は・・・・②

 以前から気になっていた感染症の日本史」磯田道史、文春文庫、2020年)。図書館の検索では貸し出し中だったので、イオンの書店に行って平台に売れ残っていた1冊を買い求めました。

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【目次より】
第一章 人類史上最大の脅威 牧畜の開始とコロナウイルス/ペリー艦隊が運んできた感染症/スペイン風邪は波状的に襲ってきた ほか
第二章  日本史のなかの感染症――世界一の「衛生観念」のルーツ
「最初の天皇」と疫病/奈良の大仏天然痘対策?/疫神を歓待する日本人/江戸の医学者の隔離予防論 ほか
第三章 江戸のパンデミックを読み解く
すでにあった給付金/薬をただで配った大坂の商人たち/上杉鷹山の患者支援策 ほか
第四章 はしかが歴史を動かした
横綱級」のウイルスに備えるには/都市化とパンデミック/麻疹が海を渡る ほか
第五章 感染の波は何度も襲来する ――スペイン風邪百年目の教訓
高まった致死率/百年前と変わらない自粛文化/「「感染者叩き」は百害あって一利なし ほか
第六章 患者史のすすめ――京都女学生の「感染日記」
日記が伝える「生きた歴史」/ついに学校が休校に ほか
第七章 皇室も宰相も襲われた
原敬、インフルエンザに倒れる/昭和天皇はどこで感染したか?/重篤だった秩父宮 ほか
第八章 文学者たちのスペイン風邪
志賀直哉のインフルエンザ小説/〝宮沢賢治の〝完璧な予防策〟/荷風は二度かかった? ほか
第九章 歴史人口学は「命」の学問 ――わが師・速水融のことども
数字の向こう側に/晩年に取り組んだ感染症研究 ほか

  amazonのサイトでは、「ベストセラー1位」となっており、夕食の食材を買いに行った近くのスーパーの片隅にある雑誌、書籍コーナーにも置いてあるほどです。

 教育史に関連した話題は、いくつかありましたが、今回は第八章の「文学者たちのスペイン風邪について、少し詳しめに・・・。

 この章で取り上げられているスペイン風邪に罹患した文学者は以下の通りです。

志賀直哉「流行感冒」(大正8年・1919)

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内田百閒「実説艸平記」(昭和26年・1951、新潮社)

宮沢賢治の手紙(妹トシの看病記録)
斎藤茂吉の手紙(長崎医学専門学校教授)
永井荷風断腸亭日乗

 

■ 「二度かかった?」永井荷風

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 著者は、永井荷風の有名な日記断腸亭日乗の記述から、荷風大正7年(1918)11月と大正9年(1920)1月の2回、「インフルエンザの罹患が疑われる」と述べています。

断腸亭日乗」・・・断腸亭日乗』(だんちょうていにちじょう)は、永井荷風日記。1917年(大正6年)9月16日から、死の前日の1959年(昭和34年)4月29日まで、激動期の世相とそれらに対する批判を、詩人の季節感と共に綴り、読み物として近代史の資料としても、荷風最大の傑作とする見方もある。(Wikipedia

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永井荷風

断膓亭日記巻之二大正七戊午年


十一月十一日。昨夜日本橋倶楽部、会塲吹はらしにて、暖炉の設備なく寒かりし為、忽風邪ひきしにや、筋骨軽痛を覚ゆ。体温は平熱なれど目下流感冒猖獗の折から、用心にしくはなしと夜具敷延べて臥す。夕刻建物会社員永井喜平来り断膓亭宅地買手つきたる由を告ぐ。
十一月十三日。永井喜平来談。十二月中旬までに居宅を引払ひ買主に明渡す事となす。此日猶病床に在り諸藝新聞を通覧す。夜大雨。
十一月十四日。風邪未痊えず
十一月十五日。階前の蝋梅一株を雑司ヶ谷先考の墓畔に移植す。夜半厠に行くに明月昼の如く、枯れたる秋草の影地上に婆娑たり。胸中売宅の事を悔ひ悵然として眠ること能はず。
十一月十六日。欧洲戦争休戦の祝日なり。門前何とはなく人の徃来繁し。猶病床に在り。書を松莚子に寄す。月明前夜の如し。
十一月十八日。早朝より竹田屋の主人来り、兼て凖備せし蔵書の一部と画幅とを運去る。午後数寄屋橋歯科医高島氏を訪ひ、梅吉方に赴き、十二月納会にまた/\出席の事を約す。明烏下の段をさらふ。此日晴れて暖なり。
十一月廿日。本年秋晩より雨多かりし故紅葉美ならず、菊花も亦香気なし。されど此日たま/\快晴の天気に遇ひ、独り間庭を逍遥すれば、一木一草愛着の情を牽かざるはなし。行きつ戻りつ薄暮に至る。
(中略)
十一月廿三日。花月楼主人を訪ふ。楼上にて恰も清元清寿会さらひありと聞き、会場に行きて見る。菊五郎小山内氏等皆席に在り。
十一月廿四日。洋書を整理し大半を売卻す。此日いつよりも暖なり。
十一月廿五日。晴天。寒気稍加はる。四谷見附平山堂に赴き家具売却の事を依頼す。
十一月廿六日。春陽堂番頭予の全集表帋見本を持来りて示す。平山堂番頭来り家具一式の始末をなす。売却金高一千八百九拾弐円余となれり。
十一月廿七日。建物会社※(二の字点、1-2-22)員永井喜平富士見町登記所に赴き、不動産譲渡しの手続を終り、正午金員を持参す。其額弐万参千円也。三菱銀行に赴き預入れをなし、築地の桜木に立寄り、夕餉をなし、久米氏を新福に訪ひ、車を倩ひて帰る。
十一月廿八日。竹田屋主人来る。倶に蔵書を取片付くる中突然悪寒をおぼえ、驚いて蓐中に臥す
十一月廿九日。老婆しん転宅の様子に打驚き、新橋巴家へ電話をかけたる由、昼前八重次来り、いつに似ずゆつくりして日の暮るゝころ帰る。終日病床に在り。
十一月三十日。八重次今日も転宅の仕末に来る。余風労未癒えず服薬横臥すれど、心いら立ちて堪えがたければ、強ひて書を読む。
十二月朔。体温平生に復したれど用心して起き出でず。八重次来りて前日の如く荷づくりをなす。春陽堂店員来り、全集第二巻の原稿を携へ去る。
(中略)
十二月三日。風邪本復したれば早朝起出で、蔵書を荷車にて竹田屋方へ送る。午後主人手代を伴来り家具を整理す。此日竹田先日持去りたる書冊書画の代金を持参せり。金壱千弐百八拾円ほどなり。

 11月11日に異常を感じてから12月3日に「本復」するまでの3週間あまりの記録です。

高熱を発したり、医者にかかったりという記述はありませんが、初日の「筋骨軽痛を覚ゆ」から、著者はインフルエンザの疑いがあるとしています。

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早期治療を呼びかけるポスター(大正9年、ジャパンアーカイブズ)

 

 二度目は大正9年荷風42歳の時でした。

正月十二日。曇天。午後野圃子来訪。夕餉の後忽然悪寒を覚え寝につく。目下流行の感冒に染みしなるべし。
正月十三日。体温四十度に昇る
正月十四日。お房の姉おさくといへるもの、元櫓下の妓にて、今は四谷警察署長何某の世話になり、四谷にて妓家を営める由。泊りがけにて来り余の病を看護す。
正月十五日。大石君診察に来ること朝夕二回に及ぶ
正月十六日。熱去らず。昏々として眠を貪る
正月十七日。大石君来診。
正月十八日。渇を覚ること甚し。頻に黄橙を食ふ
正月十九日。病床万一の事を慮りて遺書をしたゝむ
正月二十日。病况依然たり
正月廿一日。大石君又来診。最早気遣ふに及ばずといふ。
正月廿二日。悪熱次第に去る。目下流行の風邪に罹るもの多く死する由。余は不思議にもありてかひなき命を取り留めたり。
正月廿五日。母上余の病軽からざるを知り見舞に来らる。
正月廿六日。病床フロオベルの尺牘を読む。
正月廿七日。久米秀治来訪。
正月廿八日。褥中全集第四巻校正摺を見る。
正月廿九日。改造社原稿を催促する事頗急なり。
正月三十日。大工銀次郎来談。
正月卅一日。病後衰弱甚しく未起つ能はず。卻て書巻に親しむ。
二月朔。臥病。記すべき事なし。
二月二日。臥病。
二月三日。大石君来診。
二月四日。病床フオガツアロの作マロンブラを読む。
二月六日。唖※(二の字点、1-2-22)子来つて病を問はる。
二月七日。寒気甚し。玄文社合評会の由。
二月九日。病床に在りておかめ笹続篇の稿を起す。此の小説は一昨年花月の廃刊と共に筆を断ちしまゝ今日に至りしが、褥中無聊のあまり、ふと鉛筆にて書初めしに意外にも興味動きて、どうやら稿をつゞけ得るやうなり。創作の興ほど不可思議なるはなし。去年中は幾たびとなく筆秉らむとして秉り得ざりしに、今や病中熱未去らざるに筆頻に進む。喜びに堪えず。
二月十日。蓐中鉛筆の稿をつぐ。終了の後毛筆にて浄写するつもりなり。
二月十一日。烈風陋屋を動かす。梅沢和軒著日本南画史を読む。新聞紙頻に普通選挙の事を論ず。盖し誇大の筆世に阿らむとするものなるべし。
二月十二日。蓐中江戸藝術論印刷校正摺を見る。大正二三年の頃三田文学誌上に載せたる旧稾なり。
二月十四日。建物会社※(二の字点、1-2-22)員永井喜平見舞に来る。
二月十五日。雪降りしきりて歇まず。路地裏昼の中より物静にて病臥するによし。
二月十七日。風なく暖なり。始めて寝床より起き出で表通の銭湯に入る。

(本文は「青空文庫」より)

  一時は、死を覚悟して遺書まで用意した荷風でした。

 日記からは、病気が全快しない間も、校正刷りを見たり、原稿を書いたりと売れっ子作家ゆえの大変さも垣間見られます。

 筆者は、「同じ感染症に二度かかる可能性もあり得る」として、「スペイン風邪の場合は『前流行』時と『後流行』時ではウイルスが変異していた可能性」を指摘しています。

 まさに、今懸念されている事態に相当するようなことが、実際に100年前には起きていたということになります。

100年前のスペイン風邪のときは・・・・①

www.fukashi-alumni.org

 このブログで現在取り上げている「戸倉事件」「倭事件」が起きた大正7年(1918)から大正9年(1920)の3年間は、世界的には第一次大戦、国内では米騒動(7年夏)が起こるなど、なかなか大変な時期でもありました。

1917年 大正6年 ・ロシア革命
1918年 大正7年 ・米騒動→コメ価格の暴騰による全国的な暴動事件
第一次世界大戦終戦→連合国軍の勝利
(8月)・シベリア出兵(~1922)
・[9月] 原敬内閣 →日本初の政党内閣
スペイン風邪が全世界で大流行(~1920年
1919年 大正8年 ・パリ講和会議第一次世界大戦講和条約を決定する会議
・朝鮮で三一独立運動が起こる →日本の支配から独立を求める運動
1920年 大正9年 ・(1月)国際連盟発足(本部はスイスのジュネーブ
・[5月2日] 第一回メーデー開催(上野公園)
   

「日本史資料室」ホームページより

  新型コロナの報道で、100年余り前のスペイン風邪に言及されることがあります。どの程度のパンデミックだったのでしょうか。

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スペイン風邪に罹患した米軍兵士)

スペインかぜ(英語: 1918 flu pandemic, Spanish Flu、スペイン語: La pandemia de gripe de 1918、gran pandemia de gripe、gripe española)は、1918年から1920年にかけ全世界的に大流行したH1N1亜型インフルエンザの通称。アメリカ疾病予防管理センター(CDC)によるインフルエンザ・パンデミック重度指数(PSI)においては最上位のカテゴリー5に分類される。
全世界で5億人が感染したとされ、 別のデータでは世界人口(18億-19億)のおよそ27%とされており、 これには北極および太平洋諸国人口も含まれる。死亡者数は5,000万-1億人以上、おそらくは1億人を超えていたと推定されており、人類史上最も死者を出したパンデミックのひとつである。現状の歴史的・疫学的データでは、その地理的起源を特定できていない。
流行源は不明であるが、初期にスペインから感染拡大の情報がもたらされたため、この名で呼ばれているパンデミックが始まった1918年は第一次世界大戦中であり、世界で情報が検閲されていた中でスペインは中立国であったため戦時の情報統制下になく、感染症による被害が自由に報道されていた。一説によると、この大流行により多くの死者が出たことで徴兵できる成人男性が減ったため、第一次世界大戦終結が早まったといわれている。
 日本では1918年(大正7年)4月、当時日本が統治していた台湾にて巡業していた真砂石などの大相撲力士3人が謎の感染症で急死。同年5月の夏場所では高熱などにより全休する力士が続出したため、世間では「相撲風邪」や「力士風邪」と呼んでいた。

その後、1918年(大正7年)8月に日本上陸、同年10月に大流行が始まり、世界各地で「スパニッシュ・インフルエンザ」が流行していることや、国内でも各都道府県の学校や病院を中心に多くの患者が発生していることが報じられた。第1回の大流行が1918年(大正7年)10月から1919年(大正8年)3月、第2回が1919年(大正8年)12月から1920年(大正9年)3月、第3回が1920年(大正9年)12月から1921年(大正10年)3月にかけてである。

当時の人口5500万人に対し約2380万人(人口比:約43%)が感染、約39万人が死亡したとされる。有名人では1918年(大正7年)に島村抱月が、1919年(大正8年)に大山捨松竹田宮恒久王辰野金吾がスペインかぜにより死去している。  (Wikipedia

 

■ 信州白樺派教師も罹患
  

 1920(大正9)年1月29日付笠井三郎書簡(今井信雄氏収集資料)を紹介します。笠井は赤羽王郎とともに、信州白樺派の代表的な教師でした。「新しい村」信州支部長に就き、小学校で自由教育を実践した人物です。この書簡は、南箕輪小教員であった笠井が稲荷山の酒造家宮越喜一郎にあてたもの。「大変感冒が至る所に流行していますが、皆様は如何でせう。僕も少し風気味でもう十日許りになります。大したことにハならないと信じて居ますが、出来るだけの注意は怠りません」と笠井は記します。通常なら「ただの風邪」だと気にも留めない書簡ですが、これはちょうど100年前に長野県民に多大な被害を与えていたスペインインフルエンザのこと。笠井はこれに罹患したとみられます。

 日本には大正7年9月に上陸し下旬から3週間の内に全国へ広がりました。長野県は、10月23日付信濃毎日新聞の記事によると「長商(現長野商業高校)にも力士病」という見出しが最初です。まだ「謎の高熱病」ということで「力士病」と呼んでいたことがわかります。とくに狭い空間に密集し換気のない製糸工場で大量の感染者が出て、諏訪地方の製糸工場は大きな打撃を受けた模様です。1918年秋から19年冬にかけて長野県内で62万人の患者、死者は6000人余りとされています
 笠井が感染したのは第3波のインフルエンザでした。1919年秋から翌1920年3月にかけて流行しました。とくに郡部での死者は日ごとに増え、2月上旬には死亡者が長野県内で1日平均40~50名に達しました。特徴は、第2波に比べて患者数は大幅に減ったものの、患者死亡率は11.2パーセントもの高率にのぼっています。免疫ができたものの、ウイルスは強毒性に変異したため、多くの死者が出たのです。(速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』藤原書店、2006年)。
 笠井は4月30日の宮越への手紙に「姉さまも湯(薬)が大変良かった」「ちかしい人達の健在程嬉しいものはない」と記し親族のインフルエンザからの生還を記す一方、「久しいこと友は病気で臥せって居る」となお伊那で感染が続いていることを述べています。この未知なるウイルス、長野県は、全国でももっとも遅くまでこの流行に悩まされた地域として知られています。
 昨年亡くなられた速水融先生は2006年の著書にこう記します。当時の政府はマスクの使用、うがい手洗いの励行、人ごみを避けるなどの通告を繰り返して促した、小学校や中等学校は休校とした、これらはわれわれが唯一とり得る対処法であり、こういった対策が当時の人口に対して死亡者数0.8パーセントに抑えられた理由である、と。つまり今まさに流行するこの新型コロナウイルス対策は変わっていない。

「長野県立歴史館ブログ」https://www.npmh.net/blog/2020/04/31100.php

 

 昨年の我が国と同じく、学校は休校になりました。

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休校を報じた当時の新聞(西日本新聞ホームページ)

 

■ 長野県下の状況は・・・

 長野県立松本深志高等学校(旧制県立松本中学校)同窓会ホームページのコラム「トンボのメガネ」(2020年4月18日付け)には、県下の状況が次のように記されています。

 100年前に世界中にひろがった流行性感冒がある。スペイン風邪とよばれる。大正7(1918)年8月から10年7月にかけて長野県下でも猛威をふるった。県下の死亡者は7年2278人、8年1237人、9年3347人、10年134人で、4年間に約7000人にたっした。

 スペイン風邪が長野県で流行しはじめたのは、東京で大正7年10月にひらかれた中等学校マラソン大会に出場した長野師範の選手が感染してもち帰ったものといわれる。松本で流行しはじめたのは同月20日ころからだ。

 流行が比較的はやくあらわれたのは学校で、10月30日の『信濃民報』は、「松本中学で740人中250人、同日1週間の休校を決定、松本高等女学校・女子師範学校が、それぞれ600人中113人、210人中71人の欠席、近く休校をさけられまい。市内小学校は全体で数百人が欠席、職員の欠席も多く、1人で2組を担当しているものも多い」などと報じた。

 松本尋常高等小学校開智部では、大正7年11月4日から1週間にわたって「流行性感冒」のため臨時休校とした。

 また、『信濃民報』(11月27日)は、「製糸工場は片倉の500人をはじめ各工場とも大打撃をうけ、100人、200人が病床にあり、1本の針金にいくつもの氷嚢をぶら下げた光景は見るからに悲惨なものであった。市が実施している女工らの特別教育の学期試験も欠席が多く、処置なしである」と報じた。

 流行がややおくれてでた歩兵第五十聯隊では、12月にはいってもほとんど衰えをみせなかった。12月18日に、入院中のものは数十人、死亡者は18人にたっした。新兵の死亡はほぼ1日1人の割合とさえいわれた。死亡者は五十聯隊の例にもみられるように、身体的にも無理をしやすい青壮年層に多かった。

 このように、学校、工場、軍隊と集団生活を余儀なくされる空間で、感染がみるみるうちに拡大していったのでした。

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(「医療サイト 朝日新聞アピタル」より)

 マスクのことを、「口覆」(くちおおい)と表現しています。

 元々は、「① 袖、扇などで口をおおい隠すこと。また、そのもの。

② 茶道で、茶壺の口をおおうもの。」(「日本国語大辞典」)とありますが、まだ「マスク」という外来語は浸透していなかったのでしょうか。
 
 次回は、当時の作家たちのスペイン風邪体験と関連する作品を紹介してみたいと思います。
 

加能作次郎と国民英学会

1月16・17日に実施された初の「大学入学共通テスト」。

国語の大問を、古文、漢文、小説の順に解いてみました。(評論はちょっと先延ばし😀
小説の出典は、加能作次郎「羽織と時計」大正7年・1918)で、初めて見る作家の名前でした(問題は、予備校の分析では難化となっていましたが、割と本文・設問共に素直であったかと)

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加能作次郎(石川県志賀町ホームページより)

 

しかし、「かのう さくじろう」?、どこかで聞いたような・・・・。
あれこれ考えて思い出したのが、大好きなシリーズ男はつらいよ」の第29作「寅次郎あじさいの恋」に登場する有名な陶芸家・加納作次郎片岡仁左衛門)と漢字1字違いだったのです。

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Wikipediaの略年譜は次のようになっています。

1885年(明治18年)1月10日 :石川県羽咋郡西海村風戸に生まれる[1]。
1886年明治19年)11月19日 :実母「はい」が死去[3]。その後、同年中に父は浅野ゆうと再婚する。
1981年(明治24年) :西海尋常小学校に入学[3]。
1898年(明治31年)9月 :病気により、学校を退学し、京都の伯父の家に寄寓するも、下男のように使われる[3]。このとき13歳。
1900年(明治33年) :伯父が死去[3]。その後、大阪へ出る[3]。
1903年明治36年
月日不明 :父・浅次郎が病気のため、作次郎は帰郷する(あるいは、病気のために父・浅次郎が帰郷する)[1][4]。[3]
11月 :検定試験に合格して準教員の免状を得、羽咋郡柳瀬尋常小学校(現・宝達志水町立樋川小学校の前身[5])の準教員として勤務し始める[1]。このとき18歳。
1904年(明治37年) :検定試験に合格し、尋常小学校の正教員となる[3]。
1905年(明治38年) :上京し、国民英学校に通学[3]。
1907年(明治40年)4月 :早稲田大学文学部文学科高等予科に入学[3]。このとき22歳。
1908年(明治41年)9月 :早稲田大学文学部英文科に入学[3]。当校では、坪内逍遥島村抱月、片山伸諾らに師事し、とくに片山伸諾から大いに影響を受ける。
1910年(明治43年)7月 :処女作「恭三の父」を文芸雑誌『ホトトギス』7月号に発表[1][3]。このとき25歳。
1911年(明治44年
4月 :「厄年」を『ホトトギス』に発表[3]。このとき26歳。
7月 :早稲田大学を卒業し、早稲田大学出版部に入る。[3]
1913年(大正2年)5月 :博文館編集部に入り、『文章世界』編集の任に当たる[3]。このとき28歳。
1914年(大正3年) :羽咋郡稗造村田中(現・羽咋郡志賀町田中)の浄法寺の長女・島田房野と結婚。
1917年(大正6年)6月 :『文章世界』の編集主任となる[3]。このとき32歳。
1918年(大正7年)10月 :「世の中へ」を『読売新聞』紙上にて連載開始[3]。
1920年大正9年)12月 :「厄年」を博文館から出版[3]。このとき35歳。
1940年(昭和15年)8月 :「乳の匂ひ」を『中央公論』に発表[3]。このとき55歳。
1941年(昭和16年)8月5日 :東京市牛込区薬王寺町(現・東京都新宿区市谷薬王寺町)の自宅にて[6]「乳の匂ひ」を校正中、クループ性急性肺炎で死去(享年57、満56歳)[3]。「心境」が絶筆となる[1]。戒名は釈慈忍。
没後
1941年(昭和16年
8月中 :牧野書店から「乳の匂ひ」刊行。
11月 :櫻井書房から「世の中へ」刊行。
1952年(昭和27年)8月 :生誕地・西海村風戸(現・志賀町西海風戸)に加能作次郎文学碑(石碑)が建立される[7]。
1957年(昭和32年) :志賀町が「加能作次郎顕彰作文コンクール」を実施し、以後、毎年の恒例となる。
1985年(昭和60年) :志賀町にて生誕百年祭が開催され、記念事業の一つとして地元生徒を対象とする加能作次郎文学賞が生まれる。
2007年(平成19年)12月14日 :生誕地に近い志賀町富来領家町にて、作次郎をテーマとする「作次郎ふるさと記念館」が開館。

  「1898年(明治31年)9月 :病気により、学校を退学し」というのは、石川県志賀町のホームページ上の略年譜(下)にあるように、「高等小学校」を3年で中退というのが正しいのではないかと思われます。
当時は、尋常小学校4年、高等小学校2(~4)年という学制でした。能登半島の漁村のことですから、高等小学校へ進んだ者も少なかったことでしょう。
後に、小学校教員の検定試験に合格しています。田舎では、高等小学校卒の代用教員は珍しくありませんでしたが、それに甘んじることなく正教員の資格を取ったあたりに、学力優秀な青年であったことがうかがえます。

作次郎略譜
明治18年1月10日 浅次郎、はいの長男として西海村風戸で誕生
       家業は漁業、2歳上の姉よう
明治20年 母はい死亡、父は浅野ゆうと再婚
明治24年 西海尋常小学校入学 成績優秀のため進学を勧められる
明治28年 富来高等小学校入学 「少年世界」を愛読
明治31年 京都に出奔、叔父の店で丁稚しながら夜学に通う
明治36年 小学校教員検定試験に合格、志雄町の柳瀬尋常小学校
明治38年 退職し東京へ。家庭教師を営む
明治40年 早稲田大学文学部入学 自然主義にも感化される

(石川県志賀町ホームページ)

 作者はしばらく尋常小学校に勤務した後に上京して、「1905年(明治38年) :上京し、国民英学校に通学」(Wikipedia)とありますが、これは「国民英学会」の誤りです。名称は「学会」ですが、れっきとした学校です。

国民英学会(こくみんえいがくかい)は、明治・大正期に著名だった日本の私塾ないし進学予備校、英語学校。単なる洋学校ではなく、旧制中学校から旧制専門学校相当の教育機関の要素があった[1]。
1888年明治21年)2月、慶應義塾の英語教師経験をもち、英語雑誌を刊行していた米国人のフレデリックイーストレイク(イーストレーキ)と慶應義塾出身の英学者磯辺弥一郎によって東京市神田区錦町3丁目(現在の千代田区神田錦町)に設立。当時、慶應義塾の人々が力を入れて推進していたのは、医学や英学であって実用英語ではなかった[2]。これに不足を感じた磯辺が幹事に、イーストレーキが教頭となり、両人のほかに1名の教師を雇って開校した[3]。初めは授業料も無く月謝も極めて安かった。苦学生のための夜間部も開校し、1906年明治39年)には別科の中に数理化受験科を設立するまでに至った。
開校2年のうちに会員総数は1700名を越え、日々出席する生徒は600人を数える盛況となったが[4]、イーストレーキが収入面の不満から、退職して独立することを磯辺に通告、数百人の生徒を抱えるなか、退職わずか1週間ほど前の突然の通告であったため、急ぎ和田垣謙三、井上十吉に協力を仰ぎ、川田正澂、長沢市蔵、高橋五郎 (翻訳家)らを講師に招いて運営を続けた[5]。イーストレーキの妻によると、退職はイーストレーキの意思ではなく、磯辺の策略により追い出されたとしている[6]。
第一高等学校をはじめとする高等学校、高等商業学校(東京高等商業学校→東京商科大学)、慶應義塾などの正規の学歴コースに乗れない者たちを対象とする学校であるにも拘らず、講師陣には高名な英語学者であるアーサー・ロイド(慶應義塾大学教授)、斎藤秀三郎(第一高等学校教授)、吉岡哲太郎(理学博士)、内藤明延、岡倉由三郎を迎えるなど講義の質が高く、人気を集めた。

(中略)
正則英語学校の出現で、国民英学会は勢いをそがれることとなったが、正則と並ぶ英学校としてその後の大正・昭和初期にかけても学問機関として存続し、1945年ごろまで活動していたことが確認できる[8]。

著名な出身者
村田省蔵 - 政治家、実業家
蒲原有明 - 詩人
幸徳秋水 - 思想家
長谷川如是閑 - ジャーナリスト
坂田祐 - 教育者(中退)
杉村楚人冠 - ジャーナリスト
千葉亀雄 - ジャーナリスト
辻潤 - 詩人
福士幸次郎 - 詩人
物集高量 - 国文学者
柳井隆雄 - 脚本家(中退)
谷崎精二 - 作家、英文学者
神戸弥作 - 国文学者
鈴木泉三郎 - 劇作家
安藤貫一 - 英文学者
一力健治郎 - 河北新報社創業者(社主)
近松秋江 - 小説家

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幸徳秋水の卒業証書 (高知県四万十市ホームページ)

 

同校は、私立の英語学校ではありますが、実際は受験予備校としての側面が大きかったようです。

平井嶺南著『立身成功案内』(明治40年・1907、文星社、国立国会図書館デジタルコレクション)によれば、以下のような学科を設けていました。
普通科・受験科・正科・英文科・会話専修科(いずれも修業年限1年)
作者がどの科にいたかは不明ですが、後に早稲田に入学していることから、「受験科」と仮定すると、同書には次のような説明があります。

 「受験科・・・高等学校、高等商業学校、海軍兵学校、東京外国語学校の入学に応ず可き学力を養成す」

「入学資格:高等小学校二年修学の者もしくはこれと同等の学力を有する者」

 

その頃の、正統的な学校ルートは、「尋常小学校(+高等小学校)→中学校→高等学校・専門学校」ですが、主に経済的な理由から中学校に進めない青年が地方から上京し、東京に次々と設立されていた受験予備校を経て、高等教育機関(主に私立)に進んでいたのではないでしょうか。
よく知られている予備校は、正則英語学校(明治29年)、研数学館明治35年)、正則予備校(同前)のほか、中央、日本、明治などの各大学(法令上は専門学校)が経営していた高等予備校(明治38~43年頃)でした。

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明治35年(1902)東京専門学校から早稲田大学へ改称(ジャパンアーカイブズ)

 

ちなみに、作者の経歴の中に「1908年(明治41年)9月 :早稲田大学文学部英文科に入学」とありますが、早稲田が大学令大正7年・1918)による「大学」となったのは、大正9年(1920)のことで、それ以前は専門学校令(明治36年・1903)に準拠した高等教育機関であり、「大学と称することを認められていた」のでした。
このことは、他の私立大学も同様でした。

※というわけで、共通テストがきっかけで、加能作次郎という作家と国民英学会という予備校のことを少し知ることが出来ました。
この作者の作品は、青空文庫で読むことができます。
40代の中頃の数年間、県内の共通テストのような問題作成に携わったことがありますが、素材の選定はなかなか大変なことです。
どこかの国公立大学近代文学か国語教育がご専門の先生でしょうが、失礼ながらこんな埋もれた作家の小品をよく発掘されたことだと感心しました。