小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

「二十四の瞳」⑥ 日帰りの修学旅行

 六年生の秋の修学旅行は、時節がらいつもの伊勢まいりをとりやめて、近くの金毘羅(こんぴら)ということにきまった。それでも行けない生徒がだいぶいた。働きにくらべて倹約な田舎のことである。宿屋にはとまらず、三食分の弁当をもってゆくということで、ようやく父兄のさんせいを得た。それでも二組あわせて八十人の生徒のうち、行けるというのは六割だった。ことに岬の村の子どもらときたら、ぎりぎりの日まできまらず、そのわけを、おたがいにあばきだしては、内情をぶちまけた。
「先生、ソンキはな、ねしょんべんが出るさかい、旅行に行けんので」
 マスノがいう。
「だって、宿屋にはとまらんのですよ。朝の船で出て、晩の船でもどってくるのに」
「でも、朝の船四時だもん、船ん中でねるでしょう」
「ねるかしら、たった二時間よ。みな、ねるどころでないでしょうに。それよりマスノさんは、どうしてゆかんの」
「風邪ひくといかんさかい」
「あれあれ、大事なひとり娘」
「そのかわり、旅行のお金、倍にして貯金してもらうん」
「そうお、貯金はまたできるから、旅行にやってって、いいなさいよ」
「でも、怪我するといかんさかい」
「あら、どうして。旅行すると、風邪ひいたり怪我したりするんなら、だれもいけないわ」
「みんな、やめたらええ」
「わあ、お話にならん」
 先生はにが笑いをした。
「先生、ぼくはもう、金毘羅さんやこい、うちの網船で、三べんもいったから、いきません」
 森岡正がそういってきた。
「あらそう。でもみんなといくの、はじめてでしょう。いきなさいよ。あんたは網元だからこれからだって毎年いくでしょうがね。先生いっとくから。修学旅行の金毘羅まいりが一ばんおもしろかった、とあとできっと思いますからね」

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セーラー服姿のマスノが浜辺の歌を唄う 男子は学童服の者も

 結局、十幾人かの子どもたちが、それぞれの理由(主には経済的な理由でしたが)で修学旅行に不参加となりました。岬の生徒では早苗ひとりが不参加でした。

 こんないきさつがあったとは、だれもしらず、修学旅行は六十三人の一団で出発した。男と女の先生が二人ずつで、もちろん大石先生も加わっていた。午前四時にのりこんだ船の中ではだれも眠ねむろうとする者はなく、がやがやのさわぎの中で、「こんぴらふねふね」を歌うものもいた。
 そんななかで、大石先生はひとり考えこんでいた。その考えから、いつもはなれないのが早苗だった。
 ほんとに、風邪けだったのかしら。
 (中略)

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金刀比羅宮



 こんぴらは多度津から一番の汽車で朝まいりをした。また「こんぴらふねふね」をうたい、長い、石段をのぼってゆきながら汗を流しているものもある。そんななかで大石先生はぞくりとふるえた。屋島への電車の中でも、ケーブルにのってからも、それはときどき全身をおそった。膝のあたりに水をかけられるような不気味さは、あたりの秋色をたのしむ心のゆとりもわかず、のろのろと土産物屋にはいり、同じ絵はがきを幾組も買った。せめて残っている子どもたちへのみやげにと思ったのである。
 屋島をあとに、最後のスケジュールになっている高松に出、栗林公園で三度目の弁当をつかったとき、大石先生は、大かた残っている弁当を希望者にわけて食べてもらったりした。弁当までが心の重荷になっていたことに気づき、それでほっとした。夕やみのせまる高松の街を、築港のほうへと、ぞろぞろ歩きながら、早く帰って思うさま足をのばしたいと、しみじみ考えていると、
「大石先生、あおい顔よ」
 田村先生に注意されると、よけいぞくりとした。
「なんだか、疲れましたの。ぞくぞくしてるの」
「あら、こまりましたね。お薬は?」
「さっきから清涼丹をのんでますけど」といいさして思わずふっと笑い、
「清涼でないほうがいいのね。あつういウドンでも食べると……」
「そうよ。おつきあいするわ」

 

 この後、大石先生は健康を害し、長らく学校を休むことになってしまいます。

 

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■ 不況下の修学旅行

 いわゆる金解禁を契機として、昭和4年(1929)以降の世界大恐慌と重なって、昭和5年(1930)から翌年にかけて、日本経済は危機的な状態に陥りました。昭和恐慌と呼ばれ、太平洋戦争前においては最も深刻な恐慌が起こっていました。

 冒頭に「時節がら」とありますが、その影響は小学生の修学旅行にまで及んでいました。

 作中の修学旅行は昭和8年(1933)という設定ですが、その少し前、凄まじい恐慌の最中であった昭和4年(1929)、各地で修学旅行をめぐる新たな動きが出ていました。

 静岡県で出された通牒

 修学旅行ニ関スル件通牒 昭和4年9月25日
 児童ヲシテ知見ヲ広メシメ敬神崇祖ノ念ヲ涵養スル等ノ目的ヲ以テ修学旅行ヲ実施スルハ極メテ有効ノ施設ト存セラレ候ヘトモ近時其ノ計劃度ヲ越エ父兄ノ負担過重ノ嫌アル様聞及居候ニ付テハ此際時局ニ鑑ミ其ノ負担ヲ一層軽減セシムル様爾今当分左記ニ依リ御処理(御計劃)相成様致度

 一、明治三十四年一月県令第五号第八条ニヨル県外引率(即日帰校ノ場合ヲ除ク)ノ場合ニハ伊勢神宮参拝旅行ニ限リ之ヲ認ムルコト
 二、県内旅行ニツキテモ経費節約ノ実ヲ挙グルコト
 三、夜間乗車等無理無之様特ニ注意スルコト (「静岡県教育史」)
 ※下線は筆者「教育旅行年報 データブック2020」(日本修学旅行協会、2020)

 次は、「信濃毎日新聞」、昭和4年6月5日付けの記事からです。

「児童の修学旅行に父兄の悩み 可愛い児に旅はさせ度し、金はなし 農村に起こる悲喜劇 高等科児童の修学旅行中止」
 疲弊のどん底にうめく農村では、其の悲惨がいたいけな児童の上にひしひしと押し迫って来、友達がみんなゆくのに自分だけ行けずに淋しがっているとか、いとし児のために母親が一張羅を入質したが、やがて債鬼に泣くとか、小遣い銭が少ないので、旅先で大それた万引きまでするとか、殆ど修学旅行其のものの効果をさえ問題とされる程の悲喜劇が各農村の小学校に起こっているが、上水内郡でも神郷村は高等科生徒の関西旅行を昨年来取りやめ、生徒を悲しませていたところ、今年は若槻村でも高等科生徒四十余名の関西修学旅行が村会で補助を否決され、~(後略)

佐藤秀夫・ 寺崎昌男「日本の教育課題 (5)学校行事を見直す」 (東京法令出版、2002)

 こちらは、村の財政が苦しく、補助金を取りやめたため、修学旅行の取りやめをせざるをえなくなったというものです。

 周年記念誌などには、それぞれの時代の卒業生による修学旅行の思い出が述べられていることがあります。その多くは、家族旅行など考えられなかった時代にあって、生涯忘れられないような経験ができたというような記事になっているように思われます。

 本作品では、県内の日帰り旅行であるのに、6割という参加率でした。これが、普通に県外へ2泊3日ともなれば、いったいどの程度の割合の児童が参加できていたのでしょうか。

 

■ 修学旅行といえば伊勢参宮という時代が・・・

 筆者は別のブログ「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」の中で、中学校が主ですが、明治以来の修学旅行の歴史についてまとめていますので、ご参照下さい。

コラム2  「修学旅行」 - 『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ (hatenablog.com)

 

    昭和に入り、満州事変(昭和6年8月)の前後から、修学旅行はいわゆる見学型から「伊勢参宮旅行」が盛んになる傾向を示すようになります。

 特に小学校においては、「義務教育の最終学年児童に団体訓練・神宮参拝を通して、国体観念を明徴し敬神崇祖の念を涵養するという儀式化された学校行事の一翼をになっていた」(太田孝「昭和戦前期における伊勢参宮修学旅行の研究」『人文地理 第65巻第4号』2013、下線は筆者)ということです。

 その後、昭和12年(1937)に鉄道省が告示した「神宮参拝取扱方」(告示第 98 号)によって鉄道運賃の団体割引が導入されると、全国各地から伊勢参宮だけでなく、途次に奈良・京都の観光名所にも立ち寄るという学校が増加していきました。

 

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伊勢参宮修学旅行生の統計(上記太田論文より)

 さらに、その後もこの傾向は続き、戦時体制下で修学旅行に色々と制限がかかった中で、「伊勢神宮への修学旅行は『参宮旅行』と称せられ、抑制策下においても『実施の許される特例の修学旅行』と、多くの行政当局・教育関係者には認識されていた」(太田前掲論文)のでした。

 例えば、東京都からは各区ごとに数校単位で団体臨時列車を利用し、4泊5日(往復は車中泊)の全行程を同時に行動するという形態の「参宮旅行」が企画・実施されていました。大まかな旅程は以下の通りでした。

 1日目 宮城遙拝の後、夜行列車で出発(車中泊

 2日目 午前:内宮参拝 午後:二見(奈良泊)

 3日目 奈良の観光名所参拝、見学  午後伏見桃山御陵参拝(京都泊)

 4日目 京都の観光名所参拝、見学 夕刻 京都駅発(車中泊

 5日目 東京帰着

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観光三重ホームページより

  上の統計に見るように、さすがに戦局の厳しくなる昭和19年(1944)には、大きく数字は減っていますが、それまでは戦中とはいうものの、相当な数の修学旅行生を集めていたのは、ちょっと意外なほどでした。

 費用や参加率はどれぐらいだったのか、興味のあるところですが、今のところ、そうした点についての資料は残念ながら未見です。

 

※今年、90になる老母は、兵庫県の内陸部にある「国民学校」(昭和16年~22年3月)に在学していましたが、昭和16年(1941)、自分たちの一つ上の学年は何らかの事情で修学旅行が中止になったそうです。

 そこで、翌年も中止になるかも知れないと、父親(私の祖父)は、友人とともに個人的な伊勢参宮旅行をしてくれたと言います。ところが、翌17年度はまた復活したために、学校からの参宮旅行には参加しなかったとか。

「二十四の瞳」⑤ 赤い教師への弾圧

 それは、はげしい四年間であったが、彼らのなかのだれがそれについて考えていたろうか。あまりに幼い彼らである。しかもこの幼い者の考えおよばぬところに、歴史はつくられていたのだ。四年まえ、岬の村の分教場へ入学したその少しまえの三月十五日、その翌年彼らが二年生に進学したばかりの四月十六日、人間の解放を叫さけび、日本の改革を考える新らしい思想に政府の圧迫が加えられ、同じ日本のたくさんの人びとが牢獄に封じこめられた。そんなことを、岬の子どもらはだれも知らない。ただ彼らの頭にこびりついているのは、不況ということだけであった。それが世界につながるものとはしらず、ただだれのせいでもなく世の中が不景気になり、けんやくしなければならぬ、ということだけがはっきりわかっていた。その不景気の中で東北や北海道の飢饉を知り、ひとり一銭ずつの寄付金を学校へもっていった。そうした中で満州事変、上海事変はつづいておこり、幾人かの兵隊が岬からもおくり出された。 (5 花の絵)

  下線部は、昭和3年(1928)の 「三・一五事件」と、翌昭和4年(1929)4月16日に起こった日本共産党大量検挙事件のことを述べたものです。「三・一五事件」では約1600名が検挙、治安維持法違反で起訴された者は483名、「四・一六事件」では、約300名が検挙、295名が起訴されています。
 「夫の繁治や黒島伝治佐多稲子などのプロレタリア詩人、作家の影響をうけ」(「二十四の瞳映画村」ホームページ、「壺井栄のおいたち」)た作者らしい視点で、時代背景が説明されている箇所となっています。

 

■ 警察にひっぱられる赤い教員

  そして、もうすぐ六年生に進級するという三月はじめであった。春は目の前にきていながら珍しく雪の降る中を、ひとバスおくれた大石先生は、学校前の停留所から傘もささずに走って、職員室にとびこんだとたん、異様な室内の空気に思わず立ちどまり、だれに話しかけようかというふうに十五人の先生たちを見まわした。みんな心配そうな、こわばった顔をしていた。

 

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「どうしたの?」
 同僚の田村先生にきくと、しっ というような顔で田村先生は奥おくまった校長室に、あごをふった。そして小さな声で、
「片岡先生が、警察にひっぱられた」
「えっ!」
 田村先生はまた、しずかに、というふうにこまかく顔をふりながら、
「いま、警察がきてるの」
 また校長室を目顔でおしえ、つい今のさっきまで片岡先生の机をしらべていたのだとささやいた。全然、だれにもまだことの真相は分かっていないらしく、火鉢によりあって、だまっていたが、始業のベルでようやく生きかえったように、廊下へ出た。田村先生と肩をならべると、
「どうしたの」
 まっさきに大石先生はきいた。
「あかだっていうの」
「あか? どうして?」
「どうしてか、しらん」
「だって、片岡先生があか? どうして?」
「しらんわよ。わたしにきいたって」
 ちょうど教室の前へきていた。笑って別れはしたが、二人とも心にしこりは残っていた。まだなんにも知らないらしい生徒は、雪に勢いづいたのか、いつもより元気に見えた。ここに立つと、すべての雑念を捨てねばならないのだが、教壇にたって五年間、大石先生にとってこの時間ほど、永く感じたことはなかった。一時間たって職員室にもどると、みんな、ほっとした顔をしていた。
「警察、かえったよ」
 笑いながらいったのは、若い独身の師範出の男先生である。彼はつづけて、
「正直にやると馬鹿みるっちゅうことだ」
「なんのこと、それ。もっと先生らしく……」
 突っつかれて大石先生はいうのをやめた。突っついたのは田村先生だった。

 

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綴り方文集「草の実」を火鉢にくべる教頭

 教頭が出てきての説明では、片岡先生のは、ただ参考人というだけのことで、いま校長がもらいさげにいったから、すぐ帰ってくるだろうといった。問題の中心は片岡先生ではなく、近くの町の小学校の稲川という教師が、受けもちの生徒に反戦思想を吹きこんだという、それだった。稲川先生が片岡先生とは師範学校の同級生だというので、一おうしらべられたのだが、なんの関係もないことがわかったというのである。つまり、証拠になるものが出てこなかったのだ。そのさがしている証拠品というのは、稲川先生が受けもっている六年生の文集『草の実』だというのである。それが、片岡先生の自宅にも、学校の机にもなかったのだ。
「あら、『草の実』なら見たことあるわ、わたし。でも、どうしてあれが、あかの証拠」
 大石先生はふしぎに思ってきいたのだったが、教頭は笑って、
「だから、正直者が馬鹿みるんですよ。そんなこと警察に聞かれたら、大石先生だってあかにせられるよ」
「あら、へんなの。だってわたし、『草の実』の中の綴方を、感心して、うちの組に読んで聞かしたりしたわ。『麦刈り』だの、『醤油屋やの煙突』なんていうの、うまかった」
あぶない、あぶない。あんたそれ(『草の実』)稲川くんにもらったの」
「ちがう。学校あておくってきたのを見たのよ」
 教頭はきゅうにあわてた声で、
「それ、今どこにある?」
「わたしの教室に」
「とってきてください」
 謄写版の『草の実』は、すぐ火鉢にくべられた。(上の写真)まるで、ペスト菌でもまぶれついているかのように、あわてて焼かれた。茶色っぽい煙が天井にのぼり、細くあけたガラス戸のあいだから逃げていった。
あ、焼かずに警察へ渡せばよかったかな。しかし、そしたら大石先生がひっぱられるな。ま、とにかく、われわれは忠君愛国でいこう
 教頭のことばが聞こえなかったように、大石先生はだまって煙のゆくえを見ていた。 (六 月夜の蟹)

 

  昭和4年(1929)から昭和9年(1934)あたりにかけて、「赤い教員」とか「教員赤化事件」などという見出しで、新聞紙上でセンセーショナルに報じられた事件がありました。

 

教員赤化事件
教員が共産主義運動に直接間接に関係したとして検挙された事件。1928年(昭和3)の三・一五事件以後、共産主義運動に対する弾圧は過酷化し、30年結成の新興教育研究所(32年、新興教育同盟準備会となる)と日本教育労働者組合(31年、日本労働組合全国協議会日本一般使用人組合の教育労働部となる)などに関係した教員を「赤化教員」として弾圧することが相次いだ。とくに、32年7~12月の東京府市二十数校約60名の教員検挙事件、翌年2~4月の長野県65校138名の教員検挙事件が著名である。これらの組織以外をも含め、29~33年の弾圧は99件、検挙者716名(起訴73名)、休退職者486名で、1道3府36県にわたった。(コトバンク

 

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国民新聞 1932.12.22 (昭和7)

 引用した場面は、大石先生の受け持つ児童たちが六年生に進級する直前の3月の初めという設定になっています。

 「香川県近代教育史年表」には、昭和8年3月3日のところに、「高松8.3.3事件が発生、県警察部特高課が高松高商生ら70名を共産思想取り締まりに関連して検挙。(香川県政史年表)」とありますので、作中の一件はこの事件をもとに描かれたのではないでしょうか。

 「警察に引っぱられた片岡先生」師範学校時代の同級生で、「受け持ちの生徒に反戦思想を吹き込んだ」稲川という教員ですが、伊ケ崎暁生『文学でつづる教育史』(民衆社、1974)によると、実在の人物をモデルにしているということです。

 モデルとなった久留島義忠(明治44~平成8年・1911~1996、後に共産党兵庫県議会議員を務めた)が取り組んだ教育活動と「事件」については、以下の論文に記載がありました。

 昭和4年(1929)10月には雑誌『綴方生活』(東京文圏社)が発行され、そのスローガンは「教育における生活重視」であり、「教育生活の新建設」であったが、香川県内にも同書の購読者や講習会・研修会で発表する綾歌郡坂本小学校の三谷寿夫や坂出西部小学校の守屋敏郎らの教師もいて、新興農村建設に生活綴方教育を結びつけた学校として小豆郡福田小学校の名もあった。
 また、昭和恐慌を契機に階級意識にめざめた教師が、児童の生活擁護とともに、自主性や創造力を育てようという新興教育運動も起こった。昭和5年(1930)8月に新興教育研究所が設立され、同年9月には機関紙『新興教育』が創刊され、各地に新興教育読書会が組織されるなど購読者が増えていった。香川県内でも同7年10月に、久留島義忠や石丸満行らによって新興教育研究所香川県支部準備会が結成されている。香川県師範学校卒業生の久留島義忠や滝口春男などは、師範学校在学中は『詩と創作』を発行し、卒業後は赴任校(久留島は草壁小学校ー苗羽小学校から約1キロと近い滝口は吉津小学校)で詩の創作や作文指導などを通じて新興教育を行った。しかし、文部省は昭和3年に学生課を特設して思想善導に力を入れ、同4年には全国社会教育主事会議を開いて教化総動員実施案を決議させ、これに基づいて香川県でも教化動員実施計画要綱を作成して、国体明徴・国民精神作興などの教化運動を推し進めた結果、同8年3月3日に、高松署を中心に全県下の警察官を総動員して、新興教育同盟香川支部関係者を中心に久留島・滝口も含む28人が、治安維持法違反の容疑で一斉検挙される高松8.33事件(赤化教員検挙事件)が起こり、これを境に新興教育運動は急速に弱められるとともに、自由主義的な生活綴方教育運動も次第に抑圧されていったのである。

溝 渕 利 博「香 川 県 郷 土 教 育 史 研 究 序 説(三)」( 高松大学研究紀要第73 号、 2019)

  これで、作中の一件は実際にあった検挙事件を元に書かれたものと考えて間違いないと思われます。

 その久留島氏が検挙された反戦思想」とはどういうものだったのでしょうか。

 昭和9年(1934)に文部省学生部が「秘密資料」として作成した『プロレタリア教育の教材』国立国会図書館デジタルコレクション)にその検挙理由が記されていました。

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 香川県小豆郡草壁尋常高等小学校訓導久留島義忠(新興教育同盟準備会香川県支部準備関係者、昭和8年3月31日懲戒免職、同6月30日起訴)は国史の時間には神代時代の伝説(例えば天孫降臨)は本当かどうかを受け持ち児童に質問し、「神代の神話の如き御伽話ようなものは、本当の歴史ではない。諸君が大きくなった時は判って来る」と言って建国の歴史を否定した。(同書第四篇第五節)

  同書では、修身科に始まり、体操、手工に至るまで、全国各地の小学校における「赤化教育」或いは「プロレタリア教育」(今風に言うと、偏向教育でしょうか)の事例を収集しています。

 念の入ったことに、事例に続いては「児童に対する影響」という章を設け、児童の意識調査の結果を紹介しています。

 そして、最後に「結語」として、概ね以下のような分析と考察をしています。

①彼等左傾教員は、国家の否定、現行社会制度・道徳の破壊のための闘争を専ら強調し、教育本来の目的を忘れている傾向がある。

②当面の闘争を説くが故に、多くは断片的で統一を欠き、まとまった理論体系をなしていない。

③その教育方法は既に我々(文部省)が既に唱えていたものの模倣に過ぎない。

④プロレタリア教育は様々な欠点を持つにもかかわらず、なかなか巧みに行われ、児童に対しては強い影響力を有している。

⑤彼等左傾教員は教壇上からだけではなく、最近はピオニール、子供会、復習会などの非合法的組織においてプロレタリア教育を行おうとしているので、今後はその対策を行う必要がある。

  では、その当時の小学生は「赤い教育」や「赤化教員」について、どんな受け取り方をしていたのでしょうか。一例を挙げてみましょう。

 そういえば、昭和五年から八年にかけて、私が尋常四年から六年の頃だが、よく赤化教員の検挙という記事が新聞に載って、大人たちの話題になっていたのを思い出す。(中略)広い世の中には先生でも悪い人間がいるものかなと、不思議に思ったりしたが、これがまさに弾圧の嵐だったわけだ。
 新聞に載る赤い教師の赤とはどういう意味か理解できず、先生に尋ねてみようと思ったが、先生には同僚に当たる先生のことを聞くのは悪いような気がしたのでやめ、祖父に尋ねたら「そりゃキョウサントーじゃ」と答えたが、おそらく当時の年寄りには、共産党のどこが悪いのか、はっきり説明できなかったのではないかと思う。(中略)
 その頃、津山一の資産家の女子大出の娘が捕まったとか、どこそこの誰それさんが引っ張られたとか、農林学校の誰それが退校処分になったとかが、不況に喘ぐ田舎の村の話題になった。(竹内途夫「尋常小学校ものがたりー昭和初期・子供たちの生活誌福武書店、1991年)

※著者は大正9年(1920)岡山県北部の勝田郡勝北町(現在は津山市)の生まれ、昭和2年(1927)に小学校入学。「二十四の瞳」の子供たちよりも一つ年上です。

 

「二十四の瞳」④ 唱歌の授業 ー女先生と男先生ー

■ 浜辺で唄った歌は・・・ 

    二学期初日、前夜の嵐で岬の村はかなりの被害を受けていました。大石先生は子どもたちと道路に転がっている石を取り除く作業をしていたのですが、一人の子どもの面白おかしい話に思わず笑ってしまいます。それを目撃したよろず屋のおかみさんは、すごい剣幕で走り寄り「人が災難に遭ったのが、そんなにおかしいんですか」と大石先生を叱り付けました。

 浜にでて歌でもうたわぬことには、先生も生徒も気持のやりばがなかった。浜におりると先生はすぐ、両手をタクトにして、歌いだした。
 はるははよからかわべのあしに
「あわて床屋とこや」である。みんながとりまいて、ついて歌う。
 かにが みせだし とこやでござる
 チョッキン チョッキン チョッキンナ
 歌っているうちに、みんなの気持は、いつのまにか晴れてきていた。
 うさぎゃおこるし かにゃはじょかくし
 しかたなくなく あなへとにげる

 おしまいまで歌っているうちに、失敗した蟹(かに)のあわてぶりが、じぶんたちの仲間ができたようなおもしろさで思いだされ、いつかまた、心から笑っている先生だった。「このみち」だの「ちんちん千鳥」だの、一学期中におぼえた歌をみんな歌い、「お山の大将」でひとやすみになると、生徒たちはてんでに走りまわり、おとなしく先生をとりまいているのは一年生の五、六人だけだった。(二 魔法の橋)

 

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    この後、その浜で大石先生は子どもたちが作った落とし穴に落ちて、足を挫いてしまいます。

 作中に出てくる曲は下のように、いずれも詩が、大正7年(1918)に文学者の鈴木三重吉が創刊した児童雑誌「赤い鳥」に掲載されたものです。

 時代を超えて今も歌い継がれている名曲ばかりで、日本歌曲が好きな筆者には、「このみち」(この道)などは、芸術歌曲としてよく知られていますが、1年生にはちょっと難しいのではと思われます。

「あわて床屋」作詞・北原白秋、作曲・山田耕筰 大正12年(1923)

「この道」同上、昭和2年(1927)

「ちんちん千鳥」作詞・北原白秋(大正10年・1921)作曲・近衛秀麿、成田為三

笠智衆演じる男先生と子供たちが歌うシーンがあります。なかなかの見所です。ただし、私には近衛、成田どちらの曲とも違うように聞こえました(笑)

「お山の大将」 作詞・ 西條八十、作曲・ 本居長世(大正10年・1921)

 

 十日すぎても、半月たっても女先生は姿を見せなかった。職員室の外の壁にもたせてある自転車にほこりがたまり、子どもたちはそれをとりまいて、しょんぼりしていた。もう小石先生はこないのではないかと考えるものもあった。

 

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二十四の瞳映画村ホームページより

■ 男先生の「ヒフミ唱法」

 小さな村の小学校では、唱歌しょうかは一週一度だった。その一時間を、男先生はもてあましたのだ。女先生が休みだしてから、はじめのうちは、ならった歌を合唱させたり、じょうずらしい子どもに独唱どくしょうさせたりした。そうしてひと月ほどはすんだが、いつまでもごまかすわけにもゆかず、そこで男先生はとうとうオルガンのけいこをはじめ、そのためにあせを流した。先生は声をあげて歌うのである。

 ヒヒヒフミミミ イイイムイ――

 ドドドレミミミ ソソソラソ――と発音するところを、年よりの男先生はヒヒヒフミミミ――という。それは昔、男先生が小学校のときにならったものであった。

ミミミミフフフ ヒヒフミヒ――

 

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 中高校生の頃から50余年後の今も、吹奏楽や合唱に親しんできた筆者ですが、曲を階名で歌うときに、「ドレミ唱法」ではなく、「ヒフミ唱法」というのがあったことを、初めて知りました。

 これは、明治の初期に西洋音楽を学び、米国留学から、帰国後は音楽教育を始めとして、近代公教育の確立に大きな功績のあった伊沢修二嘉永4~大正6年・1851~1917)が作成した「唱歌法凡例」の中で示し、明治30年代の末まで学校教育で使われた和風の階名唱法です。 明治40年代以降は、尋常小学校なども「ドレミ唱法」に置き換わったということですが、おそらく明治前半期の生まれの男先生が受けた「唱歌」の授業においては、この「ヒフミ唱法」が普通に行われていたのでしょう。

 

 

■ 男先生の唱歌の授業では・・・

 (金曜日の夜になると、男先生は奥さんに励まされながらオルガンの練習をするのですが、割と上手くいったあるとき、ご機嫌になった男先生はこんなことを言い出しました)

「そうだよ。ひとつ、しゃんとした歌を教えるのも必要だからな。大石先生ときたら、あほらしくもない歌ばっかり教えとるからな。『ちんちんちどり』、だの、『ちょっきんちょっきんちょっきんな』、だの、まるで盆おどりの歌みたよな柔(やお)い歌ばっかりでないか

「それでも、子どもはよろこんどりますわ」
「ふん。しかし女の子ならそれもよかろうが、男の子にはふさわしからぬ歌だな。ここらでひとつ、わしが、大和魂をふるいおこすような歌を教えるのも必要だろ。生徒は女ばっかりでないんだからな」

  そして、いよいよ土曜日の三時間目「唱歌」の時間がやってきました。

 ところが、今日は少しちがう。教室にはいると男先生はもう、オルガンの前にちゃんと腰かけてまっていた。女先生とは少し調子がちがうが、ブブーと、おじぎのあいずも鳴った。みんなの顔に、おや? といういろが見えた。二枚の黒板には、いつも女先生がしていたように、右側には楽譜が、左側には今日ならう歌が立てがきに書かれていた。

 

千引の岩

千引の岩は重からず
国家につくす義は重し
事あるその日、敵あるその日
ふりくる矢だまのただ中を
おかしてすすみて国のため
つくせや男児の本分を、赤心を

 

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黒板の右下には「第一学年用 尋常小学修身掛図」が見えています。

掛図は明治の頃の教材と思っていましたが、昭和初期にも使われたいたんですね。

 

 男先生はオルガンの前から教壇にきて、いつもの授業のときのように、ひっちく竹の棒の先で、一語一語を指ししめしながら、この歌の意味を説明しはじめた。まるで修身の時間のようだった。いくらくりかえして、この歌の深い意味をとき聞かしても、のみこめる子どもは幾人もいなかった。一年生がまっさきに、二年生がつづいて、がやがや がやがや。三年生と四年生の中にも、こそこそ こそこそ ささやき声がおこった。と、とつぜん、ぴしっ! とひっちく竹が鳴った。教壇の上の机をはげしくたたいたのである。とたんに、ざわめきはやみ、鳩のような目がいっせいに男先生の顔をみつめた。
(中略)
「ヒヒヒフミミミ イイイムイ はいッ」
 生徒たちはきゅうに笑いだしてしまった。ドレミハを、男先生は昔流に歌ったのである。しかし、いくら笑われても、今さらドレミハにして歌う自信が男先生にはなかった。そこでとうとう、ヒフミヨイムナヒ(ドレミの音階)からはじめて、男先生流に教えた。そうなるとなったで、生徒たちはすっかりよろこんだ
 ――ミミミミフフフ ヒヒミヒー フーフフフヒミイ イイイイムイミ……
 これでは、まるで気ちがいが笑ったり怒ったりしているようだ。たちまちおぼえてしまって、その日から大はやりになってしまった。だれひとり、その勇壮活発な歌詞をうたって男先生の意図に添おうとするものはなく、イイイイ ムイミーと歌うのだった。 ( 三 米五ン合豆一升)

※「ひっちく竹」・・・篠竹のこと。教鞭として使われている。

  後半は涙をさそうシーンが多いこの映画(松竹作品、昭和29年・1954、木下恵介監督・脚本)ですが、この場面には子どもたちと同じく観ているほうも思わず笑ってしまいます。

 「東京物語」「男はつらいよシリーズ」等々の作品で名バイプレーヤーとして映画史にその名を残した笠智衆さんの新たな一面を見せてもらいました。

 さて、男先生が気合いを入れて教えようとする、この「千引の岩」明治30年・1897、作詞:大和田建子、作曲:小山作之助)について調べようと、いつもの「国立国会図書館デジタルコレクション」で検索すると、以下のテキストに掲載されていました。

1「唱歌集」富山正治編 (富山正治, 明治35年・1902)

2「小学軍歌集」 (秀英堂,大正元年・1912)
3「新選学校唱歌集」 日本唱歌会 編 (国華堂, 明治44年・1911)
4「新編軍歌集」 剣光外史 編 (湯浅粂策, 大正元年・1912)
5「大正少年唱歌」 少年音楽研究会 編 (大志満屋書店,大正5年 1916)

  主に小学校上級学年用の曲として作られたもので、国家に対しての「忠義」をストレートにうたった歌詞は、さすがに一年生や二年生には難しすぎたことと思われます。

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メロディーは同じですが、男女別々の歌につくられていました。上記1「唱歌集」より。

譜面は五線譜ではなく、「数字譜」で示されています!


 以上、今回は女先生が浜辺で子供たちと歌う場面(映画では、どこかの少年少女合唱団とおぼしき訓練された声でしたが)と、男先生が時代遅れのヒフミ唱法を生徒達に笑われながら教える場面を取り上げてみました。
 作者に、そうした意図があったものかどうかは分かりませんが、研究者はこの二つの場面について次のような興味深い指摘をしています。

 主人公の女教師は子どもたちに『赤い鳥』から生まれた童謡を指導し、老いた男先生が古色蒼然とした唱歌を指導するといった対比が、主人公の教育姿勢を象徴的に示している

 

荒川 志津代「映画『二十四の瞳』に描かれた子ども像−戦後における子どもイメージの原点についての検討−」(名古屋女子大学 紀要55、2009年)

 ※今回の記事を書くに当たって、amazonPrimevideoで映画をレンタル(¥400、48時間以内に視聴)しました。

 上にも書きましたが、笠智衆さん(1904~1993)の男先生、その奥さんに浦辺粂子さん(1902~1989)と、我々世代(筆者は花の(?)昭和30年組です)には特に懐かしいお二人ですが、男先生が夜の教室でオルガンの練習をしながら交わす会話が、コミカルに聞こえるあたりも印象深いものでした。

「二十四の瞳」③複式学級 板木

 分教場の先生は二人で、うんと年よりの男先生と、子どものように若い女先生がくるのにきまっていた。それはまるで、そういう規則があるかのように、大昔からそうだった。職員室のとなりの宿直室に男先生は住みつき、女先生は遠い道をかよってくるのも、男先生が三、四年を受けもち、女先生が一、二年と全部の唱歌と四年女生の裁縫を教える、それも昔からのきまりであった。生徒たちは先生を呼ぶのに名をいわず、男先生、女先生といった。年よりの男先生が恩給をたのしみに腰をすえているのと反対に、女先生のほうは、一年かせいぜい二年すると転任した。なんでも、校長になれない男先生の教師としての最後のつとめと、新米の女先生が苦労のしはじめを、この岬の村の分教場でつとめるのだという噂もあるが、うそかほんとかはわからない。だが、だいたいほんとうのようでもある。

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(「二十四の瞳」映画村ホームページ)

 ■ 複式学級というシステム
 現在、我が国の小中高等学校においては、同一年齢の児童・生徒によって編制する「学年制」(高等学校の一部に「単位制」)を採用して、「学級」を単位に教育活動を行うのが普通です。
 本作品のような「複式学級」(小中学校において2つ以上の学年の児童・生徒を1つに編制した学級)は、それこそずっと昔の話だと思っていました。
 ところが、令和2年度(2020)の文部科学省「学校基本調査」のデータに拠りますと、全国の公立小学校計19,217校のうち、「複式学級のある学校」は1,920校(全体の10%)、「複式学級のみの学校」は326校(1.7%)となっており、1割を超える学校には複式学級があるという実態は、全く意外なものでした。
 この割合の経年変化については不明ですが、公立小学校の学校数について見ると、最も多かったのは昭和32年(1957)の26,988校でしたが、令和2年度(2020)には、19,525校にまで減少しています。なくなった学校は7,463校、率にして27.7%という高い数値になります。言うまでもなく、地方において特に著しい少子化の進行、小規模校の統廃合などによるものと思われます。
 筆者の住む市においても、既に今年度初めて小中一貫校が開設され、小学校が2校閉校となった地域があります。母校の小学校につても小中一貫の計画が進んでいるようで、実現すると、母校が元に位置に残っているのは高校だけという寂しいことになりそうです。

 この「複式学級」のメリット、デメリットについては、古くから種々様々な議論があるようですが、本作品のように新任の教員が「一、二年と全部の唱歌と四年女生の裁縫」を教えるとなると、その大変さは容易に想像がつきます。

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2学年が一つの学級で1人の教諭から授業を受ける「複式学級」=福嶺小学校 | 宮古毎日新聞社ホームページ -宮古島の最新ニュースが満載!-

 

■ 初めての授業へ 

 カッ カッ カッ カッ
 始業を報じる板木(ばんぎ)が鳴りひびいて、大石先生はおどろいて我れにかえった。ここでは最高の四年生の級長に昨日えらばれたばかりの男の子が、背のびをして板木をたたいていた。校庭に出ると、今日はじめて親の手をはなれ、ひとりで学校へきた気負いと一種の不安をみせて、一年生のかたまりだけは、独特な、無言のざわめきをみせている。三、四年の組がさっさと教室へはいっていったあと、大石先生はしばらく両手をたたきながら、それにあわせて足ぶみをさせ、うしろむきのまま教室へみちびいた。はじめてじぶんにかえったようなゆとりが心にわいてきた。( 一 小石先生)

  校内で始業や終業を知らせるのに、現在は時報チャイム」が使われるのが普通で、「キーン コーン カーン コーン」(元はウエストミンスターの鐘」のメロディーだそうです)の音色に学校時代が懐かしく思い出されるという人も多いことでしょう。

 戦前は、何で時刻を知らせたかというと、小学校では「時鐘」「振り鐘」(振鈴とも)が多かったようです。明治時代の中学校では、衛門に喇叭手がいて、軍隊と同じく喇叭によって合図したところも結構ありました。

はてなブログ「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」 5一時間目の喇叭その1
https://sf63fs.hatenablog.com/entry/2019/02/03/110911

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時鐘(秋田市立広面小学校)

 時鐘や振り鐘(振鈴)を叩いたり、振ったりするのは、通常は用務員さん(昔は小使いさんなどと呼んでいました。現在は校務員さん)の仕事でしたが、岬の分教場では四年生の級長が「板木」を叩いています。
 学校を描いた古い小説をよく読んできた筆者ですが、「板木」が出てくる場面を見るのは初めてでした。

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「板木」

寺院では時報として使ってきました。江戸時代は、火の見櫓に取り付けられ、半鐘とともに火事を知らせました。(「文化デジタルライブラリー」https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc6/edc_new/html/809_bangi.html

 今ではすっかり消滅したものかと思っていましたが、ジャーナリストであった羽仁もと子・吉一夫妻によって、1921年(大正10年)に創立された自由学園男子部(中高等学校)では今も使われていました。

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横75㎝縦55㎝厚さ15㎝のケヤキの木が使われています(https://www.jiyu.ac.jp/boys/blog/news/20557

 

 引用文の広範に「大石先生はしばらく両手をたたきながら、それにあわせて足ぶみをさせ、うしろむきのまま教室へみちびいた」とあります。

 何気なく読み過ごしてしまいそうな箇所ではありますが、昔の小学校では雨天時以外は毎日「朝礼」(ここでは描かれていませんが)があり、終了後に整列したまま、「級長の号令により整然と威儀を正して」教室に入ったのでした。(竹内途夫「尋常小学校ものがたり 昭和初期子供たちの生活誌」より)

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 入学式の翌日でしょうか、要領のわからない一年生のかたまりを、これも新任の先生が「イチニ イチニ」とでも掛け声をかけながら、教室に入れようとしている、たいへん微笑ましいシーンとは言えないでしょうか。

 

「二十四の瞳」② 「女学校の師範科を出た正教員のぱりぱり」は自転車に乗って現れた!

 

 

 道みちささやきながら歩いてゆく彼らは、いきなりどぎもをぬかれたのである。場所もわるかった。見通しのきかぬ曲がり角の近くで、この道にめずらしい自転車が見えたのだ。自転車はすうっと鳥のように近づいてきたかと思うと、洋服をきた女が、みんなのほうへにこっと笑いかけて、
「おはよう!」
 と、風のように行きすぎた。どうしたってそれは女(おなご)先生にちがいなかった。歩いてくるとばっかり思っていた女先生は自転車をとばしてきたのだ。自転車にのった女先生ははじめてである。洋服をきた女先生もはじめて見る。はじめての日に、おはよう! とあいさつをした先生もはじめてだ。みんな、しばらくはぽかんとしてそのうしろ姿を見おくっていた。全然これは生徒の敗けである。どうもこれは、いつもの新任先生とはだいぶようすがちがう。少々のいたずらでは、泣きそうもないと思った。
「ごついな」
「おなごのくせに、自転車にのったりして」
「なまいきじゃな、ちっと」
 男の子たちがこんなふうに批評している一方では、女の子はまた女の子らしく、少しちがった見方で、話がはずみだしている。
「ほら、モダンガールいうの、あれかもしれんな」
「でも、モダンガールいうのは、男のように髪かみをここのとこで、さんぱつしとることじゃろ」
 そういって耳のうしろで二本の指を鋏(はさみ)にしてみせてから、
「あの先生は、ちゃんと髪ゆうとったもん」
「それでも、洋服きとるもん」
「ひょっとしたら、自転車屋の子かもしれんな。あんなきれいな自転車にのるのは。ぴかぴか光っとったもん」
「うちらも自転車にのれたらええな。この道をすうっと走りる、気色(きしょく)がええじゃろ」
(中略)

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「映画ありき クラシック映画に魅せられて」より、1954年木下恵介監督作品(女先生:高峰秀子

二十四の瞳 - Twenty-Four Eyes -


――こまったな。女学校の師範科を出た正教員のぱりぱりは、芋女出え出えの半人前の先生とは、だいぶようすがちがうぞ。からだこそ小さいが、頭もよいらしい。話があうかな。昨日、洋服をきてきたので、だいぶハイカラさんだとは思っていたが、自転車にのってくるとは思わなんだ。困ったな。なんで今年にかぎって、こんな上等を岬へよこしたんだろう。校長も、どうかしとる。――
 と、こんなことを思って気をおもくしていたのだ。この男先生は、百姓の息子が、十年がかりで検定試験をうけ、やっと四、五年前に一人前の先生になったという、努力型の人間だった。いつも下駄ばきで、一枚かんばんの洋服は肩のところがやけて、ようかん色にかわっていた。子どももなく年とった奥さんと二人で、貯金だけをたのしみに、倹約にくらしているような人だから、人のいやがるこのふべんな岬の村へきたのも、つきあいがなくてよいと、じぶんからの希望であったという変かわり種だった。靴をはくのは職員会議などで本校へ出むいてゆくときだけ、自転車などは、まださわったこともなかったのだ。しかし、村ではけっこう気にいられて、魚や野菜に不自由はしなかった。村の人と同じように、垢をつけて、村の人と同じものを食べて、村のことばをつかっているこの男先生に、新任の女先生の洋服と自転車はひどく気づまりな思いをさせてしまった。

 

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男先生(笠智衆、「鄙からの発信・残日録」、https://bouen.morishima.com/2006/08/23/post_763/

 ■ 「女学校の師範科を出た正教員のぱりぱり」は自転車に乗って現れた

 これまで、岬の分教場に着任したのは、その多くが「芋女出え出え(出たばっかり)の半人前の先生」だったとあります。この「芋女」というのは大正9年(1920)に、島における唯一の高等女学校として設立された草壁町外4ヶ村組合立小豆島高等女学校(現在の香川県立小豆島高等学校)のことだと思われます。
 大正末期から昭和初期にかけての農村の疲弊から、小学校を管理運営する町当局は財政が苦しく、少しでも教員の給与を低く抑えようと、高等女学校を出たばかりの代用教員を雇っていたのではないでしょうか。 
 それに対して、今度の大石先生は「女学校の師範科を出た正教員のぱりぱり」だということで、検定上がりの男先生木下恵介監督作品では笠智衆が演じた)は気を重くしています。

 さて、この「(高等)女学校の師範科」というのがどうも気になって色々と調べてみました。高等女学校には、「専攻科」や「補習科」を設けたところはあったようですが、「師範科」は聞いたことがありません。(新潮文庫の解説は「女子師範学校出」としています)
 そこで、手がかりを「大石先生のモデル」になった人物に求めてみました。

 地元の研究者は、大石久子先生のモデルは3名いたとしています。(四国学院大学文学部教授 須浪敏子氏)
1 田浦分校で教職経験のある作者・壺井栄の妹である岩井シンさん
2 高松出身で、壺井栄が勤めていた坂手の郵便局に近い坂手尋常高等小学校に勤めていた森 静江さん
3 田浦分校で昭和5年から昭和9年まで勤務していた中村千栄子さん
(様々な条件から2の森さんが本命視?されているとか・・・)

 ※「ぱりぱり」生きがよく、張りのあるさま。また、そのような人。「ぱりぱりな(の)新人」「ぱりぱりの江戸っ子」(小学館デジタル大辞泉

  上記3人のうち、森さんと中村さんは私立明善高等女学校高松市にあった。現在の英明高等学校の前身)のご卒業です。
 「香川県近代教育史年表」には明善高女の設立について、次のように記されています。

大正6年(1917)
  3・15 私立明善高等女学校、高松市天神前に創立

(4月13日開校式・校長山川波次)(本科・専攻科・師範科を設置)。

高松市史年表)(https://www.library.pref.kagawa.lg.jp/know/local/local_3006-2

 また、「全国高等女学校実科高等女学校ニ関スル諸調査」大正13年・文部省普通学務局)では、「師範科」という名称はありませんが、同校の「補習科」卒業生52名のうち、21名が卒業後に教職に就いたと記載されていますので、大石先生が「女学校の師範科を出た正教員」(但し、尋常小学校本科正教員と思われます)という設定は、あながち作者の思い違いとは言えないようです。
※「師範科」は学校独自の名称らしく、文部省などの統計には出てきません。

 田中智子「第十四講 高等女学校の発展と『職業婦人』の進出」(筒井清忠編『大正史講義・文化篇』ちくま新書、2021年)には、「高等女学校は、その時々の社会のニーズを吸収しうる人材養成機関とみなされた。(中略)高等女学校の補習科(修業年限二年以内)は、各地の師範学校では供給しきれず不足状態にあった小学校教員の養成を行うこともあった」とあり、この場合もその一例と見ることができるではないでしょうか。

 

■ 自転車と洋装ー女教員の洋装化ー

 大正から昭和にかけて、自転車が普及していく過程を分かりやすく解説しているサイトがありました。

 大正時代には20代以降の女性が自転車に乗る機会はほとんどなく、急を要する産婆さんや荷物運搬のために商店のおかみさんらが乗るくらいであった。
 昭和初期は不況にも関わらず、自転車の販売は順調に伸び、販売合戦も熱を帯びていた。製造会社代理店による小売店向けの景品付キャンペーンが盛んに行われ、販売台数に応じて抽選本数が小売店に与えられた。景品は「自転車」「桐たんす」「指輪」「かばん」「時計」など実用品が多かった。(中略)
 自転車の保有台数が大正9年(1920年)は200万台であったのが、5年後には2倍の410万台にまで増加した。
 昭和の時代に入ると、女性の乗輪に対して違和感が消えつつあるときであったので、女性を新たな市場開発の場とした。
自転車文化センター」ホームページ、

「自転車から見た戦前の日本」http://cycle-info.bpaj.or.jp/?tid=100129

  颯爽と自転車乗って現れた新任の女先生を見た女児たちは「うちらも自転車にのれたらええな」と言いますが、村のおかみさんたちは「ほんに世もかわったのう。おなご先生が自転車にのる。おてんばといわれせんかいな」と少しばかり驚くやら呆れるやら。
 何気ない描写ではありますが、時代はちょうど大正から昭和へという時代の転換期にあったことが読み取れる箇所となっています。

 ところで、子供たちにとっては「洋服をきた女先生もはじめて見る」とあるのですが、いったいそれまでの女性の先生たちの服装はどうなっていたのでしょうか。
 佐藤秀夫編『日本の教育課題2 服装・頭髪と学校』東京法令出版、1996年)には、「教員や児童への服装規制」の中で、大まかにその変遷が述べられています。

 小学校における体操・遠足など活発な活動の重視などを契機にして、1900年代以降(明治30年代後半以降)男性教員の洋装化が進行し始めた。女性教員の場合も、同じく1900年代から体操指導の必要上「女袴」の着用が指示され、1920代後半(昭和初年以降)ごろからはスーツ型洋服が基準として示されるようになった。

 

  昭和初期、女子教員の洋装化が教育界でも議論されていた頃、東京のデパートで「職業婦人洋装陳列会」なる展示会が催されていました。

 東京市女教員修養会では小学校女教員の服装は洋服に限ると、これが実現の第一階梯としてその標準型を中心とし、併せて各種の職業婦人服をも蒐(あつ)め、九月十二日より九日間、上野松坂屋で陳列会を催し、一般に婦人服選定の一助とした。

 

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職業婦人の洋装:女教員

 スリーピースのスポーツドレス、ハーフコートとスカートは紺ウールポプリン地、白富士絹ブラウス(二十七円) 「アサヒグラフ昭和4年9月18日」

(「ナカコズクラフトズウェブロ」昭和前半期のあれこれ、http://nakaco.sblo.jp/article/35410430.html

  昭和4年(1929)当時、女性の尋常小学校本科正教員の平均月俸は50.5円(男性は71.8円、「日本帝国統計年鑑第55回」による)でした。月収の半分強という高価な洋服ではなかなか浸透しなかったのも無理はありません。
 農村部においては洋装化の進行はさらに遅かったものと見られます。卒業写真などを見ていくと、男子教員は洋服、女子教員は和服に袴といった姿が長らく見られ、女子教員の洋服姿が見られるのは昭和10年代(1935年以降)に入ってからのことです。

 

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昭和初期の女性教員は羽織に袴姿が普通でした

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昭和13年(1938)の卒業生(男女教員・児童共に全員洋服、学童服)



 上の写真はいずれも筆者の母校である兵庫県社町立社小学校(現在は加東市立、郡内・市内で最大規模の学校でした)の「創立百年誌」(昭和48年、1973)からです。

坪井栄「二十四の瞳」① 昭和3年 岬の分教場

一 小石先生
 十年をひと昔というならば、この物語の発端は今からふた昔半もまえのことになる。世の中のできごとはといえば、選挙の規則があらたまって、普通選挙法というのが生まれ、二月にその第一回の選挙がおこなわれた、二か月後のことになる。昭和三年四月四日、農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女の先生が赴任してきた。
 百戸あまりの小さなその村は、入り江の海を湖のような形にみせる役をしている細長い岬の、そのとっぱなにあったので、対岸の町や村へゆくには小舟で渡ったり、うねうねとまがりながらつづく岬の山道をてくてく歩いたりせねばならない。交通がすごくふべんなので、小学校の生徒は四年までが村の分教場にゆき、五年になってはじめて、片道五キロの本村の小学校へかようのである。手作りのわらぞうりは一日できれた。それがみんなはじまんであった。毎朝、新らしいぞうりをおろすのは、うれしかったにちがいない。じぶんのぞうりをじぶんの手で作るのも、五年生になってからの仕事である。日曜日に、だれかの家へ集まってぞうりを作るのはたのしかった。小さな子どもらは、うらやましそうにそれをながめて、しらずしらずのうちに、ぞうり作りをおぼえてゆく。小さい子どもたちにとって、五年生になるということは、ひとり立ちを意味するほどのことであった。しかし、分教場もたのしかった。
 分教場の先生は二人で、うんと年よりの男先生と、子どものように若い女先生がくるのにきまっていた。それはまるで、そういう規則があるかのように、大昔からそうだった。職員室のとなりの宿直室に男先生は住みつき、女先生は遠い道をかよってくるのも、男先生が三、四年を受けもち、女先生が一、二年と全部の唱歌と四年女生の裁縫を教える、それも昔からのきまりであった。生徒たちは先生を呼ぶのに名をいわず、男先生、女(おなご)先生といった。年よりの男先生が恩給をたのしみに腰をすえているのと反対に、女先生のほうは、一年かせいぜい二年すると転任した。なんでも、校長になれない男先生の教師としての最後のつとめと、新米の女先生が苦労のしはじめを、この岬の村の分教場でつとめるのだという噂もあるが、うそかほんとかはわからない。だが、だいたいほんとうのようでもある。

・分教場・・・ 本校の校舎とは別に設けた教場。特に、僻地などで、本校から離れた地域の児童生徒のために設けられた教場。分校(「コトバンク」)
※原文にあるフリガナのうち、平易なものは省略しています。

 

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【作品】
 海辺の寒村に、女子師範学校出の大石先生が赴任してきた。担当する分教場の小学一年生は十二人。新米先生は、様々な家庭の事情を抱えた生徒たちを慈愛に満ちた眼差しで導き、時と場所を越えた師弟関係を築いていく。やがて戦争、そして敗戦。自らも苦渋の季節を経て、四十になった先生は、再び分教場の教壇に立ち、昔の教え子の子どもたちと出会う。真の師弟愛を描いた不朽の名作。(新潮文庫解説)

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壺井栄Wikipedia

 

【作者】

 明治32年(1899)8月5日、醤油の樽職人である岩井藤吉、妻アサの五女として坂手村(現在小豆島町坂手)に生まれた。幼少にして家計が傾いたため、他家の子守をしながら坂手小学校へ通い、内海高等小学校を卒業。村の郵便局、村役場等に勤め、傍ら文学書を読む。大正14年(1925)同郷の壺井繁治をたよって上京、彼と結婚した。夫の繁治や黒島伝治佐多稲子などのプロレタリア詩人、作家の影響をうけ、昭和13年(1938)処女作「大根の葉」を文芸に発表。以来「暦」「初旅」「母のない子と子のない母と」等、300篇にのぼる作品を発表し、新潮文芸賞、児童文学賞芸術選奨文部大臣賞、女流文学賞などを受ける。中でも昭和29年(1954)木下恵介監督の手で映画化された『二十四の瞳は一躍有名となり、今日の観光小豆島の盛況の端緒を開いた。昭和42年(1967)6月6日、死の直前に小豆島町名誉町民に推挙され、同月23日67歳、東京で没した。(「二十四の瞳映画村」ホームページ、https://www.24hitomi.or.jp/tuboisakae/

 

■ 昭和3年 岬の分教場

 今回取り上げる「二十四の瞳」とオリーブ、醤油などの産地として知られる小豆島(しょうどしま)。筆者の住む兵庫県では神戸港や姫路港からフェリーが出ており、そんなに遠くはないのですが、残念ながらまだ訪れたことはありません。

 

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岬の分教場(小豆島観光協会ホームページ)

 

 ちょうど50年前、高校一年のときの担任で音楽のS先生はこの島の出身で、大学のクラスメートで香川県出身のI君は初任地がこの島の高校であったと記憶しています。

 さて、本作品は引用文にもあるように、「昭和三年四月」「岬の分教場」「新米の女(おなご)先生」が赴任して来るとこから始まります。分教場の位置は上の地図で分かりますが、昭和3年」(1928)とはいったいどんな年だったのでしょうか。日本史では、「昭和恐慌」とか「金融恐慌」と習った記憶はありますが、もう少し具体的にイメージできるように次に色んなジャンルでの特徴的な出来事や流行などを挙げてみました。

 

「あの日あの時・昭和3年」より昭和三年(1928年)
出来事
・「第12回衆議院選挙(第1回普通選挙)実施」
 25歳以上の男子に選挙権が与えられた初の選挙。有権者総数はそれまでの4倍に。(それまでは、納税額により選挙資格が制限されていた。)

・「三・一五事件」
 日本共産党員に対する一斉検挙。全国各地の警察官を動員約1600人を検挙した。当時の田中義一内閣は、この事件をきっかけに「改正治安維持法」を公布。
 共産党と何らかの関わりがあると当局に判断された人がすべて処罰の対象になった。

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「ジャパンアーカイブズ」より

・「昭和天皇即位大礼」
・「満州某重大事件(張作霖爆殺事件)」
 奉天市内の瀋陽駅の手前で中国の軍閥政治家・張作霖が列車爆破で殺害された事件。日本の助けで満州を支配した張が蒋介石の国民革命軍との戦いに敗れて満州に戻る途中、満州支配下におこうと考えた関東軍参謀の計画で実行された爆発で殺されたもの。
・「野口英世死去」
 西アフリカのガーナで黄熱病に感染し死去。53歳。梅毒性疾患の研究の権威。
スポーツ・芸能
・「アムステルダムオリンピック開催」
 三段跳び織田幹雄と200m平泳ぎ・鶴田義行が優勝。初の金メダルに輝く。 
・「ラジオ体操始まる」
・「大相撲実況放送開始」
・「歌舞伎のソビエト興行」
 二世市川佐団次一行がモスクワで17日間、レニングラードで1週間公演。

建築物

・「首相官邸完成」
・「坂本龍馬像」高知市の桂浜に明治維新の志士・坂本龍馬銅像が青少年の寄付により建立された。
世相
・「モボ・モガ
 ダンスホールやカフェーなど新しい盛り場に登場した、流行の最先端をいく洋装の男女。
・「マネキンガール」
 高島屋呉服店が開いた東京博覧会で日本初のマネキンが登場。人形でなく人だった。大卒サラリーマンの月給70~80円時代に平均200円という職業婦人の最高給とり。
・「受験地獄」
 進学希望者が増える反面、学校数が増えず進学できない生徒が急増。
ヒット商品
・「蓄音機」
 動力にぜんまいを2個使用。いっぱい巻くとSPレコード二枚分聴けた。重さ約14キロ。60円。

流行語

・「インテリ」
 ロシア語のインテリゲンチャの略。特に体制に批判的な知識人をさす。
・「陸の王者
 慶応義塾大学のこと。東京六大学野球早慶戦人気から広まる。応援歌「陸の王者」に由来。
・「彼氏」
 徳川夢声が「彼女」に対して「彼」も2文字にしようとつくった言葉

ヒット曲
君恋し二村定一  出船/藤原義江  出船の唄/藤原義江 道頓堀行進曲/内海一郎  波浮の港佐藤千夜子  鉾をおさめて/藤原義江 私の青空二村定一
https://www.jrt.co.jp/radio/natsumero/anohi/anohi23-S03.htm

 

 ■ 手作りのわらぞうり

  小学生(当時は尋常小学校)たちの通学時の服装なども時代により色々と変化がありました。

 尋常小学校ものがたり 昭和初期子供たちの生活誌』福武書店、1991年)の著者・竹内途夫氏は、同書の「第六章・暮らしの中の子供たち 五・子どもの衣服」の中で次のように述べています。(竹内氏は大正9年・1920、岡山県北部の出身)

 

 昭和一桁の年代は、子どもの衣生活のうえでは、和服から洋服への移行期だったと言える。私が尋常一年に入学したのは、昭和2年(1927)4月であるが、その入学式の時は男女の全員が和服であったと思う。それが昭和8年3月の尋常か卒業の記念写真を見ると、男子40人全員が学童服であり、女子21人は3人が洋服で、18人が和服、和服は羽織と袴をつけている。

(中略)

・子供の履き物

 履き物といえば、手作りの藁草履が主役をつとめた。この草履の寿命は一週間ぐらいで、毎週の初めに新しい草履を履いた足の裏の感覚は、とてもさわやかで気持ちがよかった。藁草履は自分でも作れたが、とても人前で履けるものはできなかったので、藁と手間賃を出して、人に作ってもらった。(中略)今風のズックの靴が出始めたのは、確か昭和3年(1928)頃だったか。その商標がナポレオンだったので、「ナポレオン靴」といっていたが、この靴は初めの頃はかなり高価だったので、比較的余裕のある家の子が履いていた。ところが、高いようでも長持ちすることがわかると、一週間ももたない草履に代わって、見る間に普及し、二、三年のうちにほぼ全員が履くようになった。

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和服に草履履き姿

  

 昭和30年生まれの筆者は、藁草履を履いたことがないので、自信を持っては言えませんが、よほど丈夫に作ってあったとしても、通学の往復に加えて体育や休み時間の遊び、さらには帰宅後の遊びなどを考えると、手作りの藁草履では二日ともたなかったのでしょうね。

 

木山捷平「修身の時間」

 谷崎潤一郎小さな王国」の方は、少しだけお休みをいただいて、40代前半から大ファンになった木山捷平さんの作品を取り上げてみます。

 その名もズバリ「修身の時間」(初出、昭和34年9月「別冊文藝春秋」、講談社版全集第4巻所収)

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木山捷平

木山 捷平(きやま しょうへい、1904年(明治37年)3月26日 - 1968年(昭和43年)8月23日)は、岡山県小田郡新山村(現在の笠岡市)出身の小説家、詩人。東洋大学文科中退。詩人として出発し、のち小説に転じた。「海豹」同人。満州で敗戦を迎え、帰国後、その体験をもとに長編『大陸の細道』『長春五馬路』などを発表。私小説的な短編小説やエッセイを得意とした。作家として目立たない存在であるが、庶民性に徹した飄逸と洒脱な表現で没後も根強い愛読者を持つ。

 

 私が小学生のころ、父は毎朝十時ごろまでねていた。文壇に名を馳せることは、もはやあきらめていたろうが、それでも夜は一時二時ごろまで机に対(むか)って、お茶をのんだり、本を読んだり、漢詩のようなものを微吟したりしていたから、農夫にとって常識であるところの、鶏鳴と一緒にはおきられないのであった。金次郎の叔父の万兵衛の言い草ではないが、いたずらに灯油を消費するばかりであった。
    ある日、学校で修身の時間、受持の先生が、
「お前たちのお父ッつぁんは、今朝、お前たちが学校にくる時、何をして居られたか」
という突拍子もない質問を発したことがあった。私にも第何番目かに指名があたった。私はハイと勇んで立ち上がり、
「ハイ、わしのお父ッつぁんは、わしが学校に来るとき、まだねて居られました」
と正直に答えると、間髪をいれず、教室中にどっと船端をたたくような哄笑がまい上がった。
 私は前の生徒が答えた、「ハイ、おらのお父ッつぁんは、藁をうって居られました」とか、「ハイ、おらのお父ッつぁんは、牛屋の掃除をして居られました」などという立派な答えに比較して、自分の返事はひどく桁はずれの落第であったのかと、恥ずかしさに机の下に頭をかくして、長い間哄笑がしずまるまで、息の根をころしていなければならなかった。

 

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(定金恒次『木山捷平の世界』岡山文庫より)
 

 定金恒次『木山捷平研究』によれば、この作品は尋常小学校1年の修身書(明治43年)のうち、第12課「オヤヲタイセツニセヨ」という徳目の授業風景を回想的に綴ったものだということです。

 実際の父親像は、作中の記述とは全く相違しており、捷平の父・静太は村役場の収入役を勤める傍ら、果樹の種苗作りや品種改良に打ち込んだ精農家でした。

 こうした「戯画化」あるいは「自虐性」というのは木山さんの最も得意とするところで、「諧謔精神」ともいうべきもののなせるわざだと、定金氏は述べられています。

 

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「尋常小学修身書巻1」東京書籍、明治43年(1910) 
国立教育政策研究所・近代教科書デジタルアーカイブ

国定教科書第2期に使用された教科書です。

 

 1年生に「オヤヲタイセツニセヨ」という課を教えるに際して、これはよくあることですが、まずは各自の父親の日常の姿を想起させるというところから授業が始まっています。

 担任の米沢千秋先生は、上の写真のように詰め襟の制服姿も初々しい青年教師ですが、後に自らも歌人としても活躍され、矢掛中学校(現在の岡山県立矢掛高等学校)時代に詩や歌を作り始めた木山さんに大きな影響を与えた方でした。

 

 本作品の後半は、第17課「チュウギ」の話題です。

     担任の米沢先生の、備中の方言ですが、まるで講談の一席を語るような名調子が続き、子供たちの手に汗握る様子が目に浮かぶようです。

 実は、木山さんは姫路師範学校本科二部を卒業後、兵庫県出石郡弘道尋常高等小学校(2年)、同県飾磨郡荒川尋常高等小学校(1年)、同県同郡管生尋常高等小学校(1年)、東京府葛飾第二尋常高等小学校(2年)などで6年ほど教職に就いていましたので、その間の経験が反映されたものと見ることもできます。

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  ところで、私も(前期高齢者ですから)何がきっかけかは忘れましたが、木口小平のことは知っていました。

[生]1872.
[没]1894.7.29. 朝鮮,成歓
軍人。日清戦争中,安城渡の戦いで,歩兵 21連隊ラッパ手としてラッパを吹きつつ突撃中,左肺に敵弾が当り戦死。 1910年から尋常小学校1学年用の国定修身教科書に忠義の手本として「シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と,取上げられた。(「コトバンク」)

 ただ、その文句は、「キグチコヘイ ハ   シンデモ ラッパ ヲ クチ カラ ハナシマセンデシタ」というものでした。
 ところが、このたび国立国会図書館のデジタルコレクションなどで見ると、捷平さんが習った国定教科書2期(明治43~大正6年、木山さんは明治43年尋常小学校1年生)においては、上の画像のように「キグチコヘイ ハ   ラッパ ヲ クチ ニ アテタ ママ シニマシタ。」という一文なのです。

  この教材の一文は、第3期国定教科書(1918年・大正7~1933年・昭和8年)で改訂され、次のよく知られたものになったようです。

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 今見ると、いくら日露戦勝後の軍国主義華やかなりし時代とはいえ、小学校1年生には、実在の人物の壮絶な戦闘死の例を扱ったという点では、生々しすぎる題材ではと思われます。

 当時の教師用指導書には、これは一例ですが、次のような記述がありました。

 「木口小平が松坂大尉に従って,ラッパ吹奏の命令を受け,敵前数歩の所にありて,少しも恐れず,勇ましく進撃の譜を奏すること三度に及びしとき,忽ち弾丸に中りて舞れたりと解説」し,「諸子よ,日本人たるものは,天皇陛下の御命令あらば,勇んで戦場に出でざるべからず。ーたび戦場に出たるものは上官の命ずるままに火の中,水の中にも飛び入りて天皇陛下の御ために尽くさざるべからず」と「忠義」の実践に言及している。

「第二期固定修身教科書の忠義及び「忠君愛国」教材の背景一日露戦争に着目して一」(J ason S. Barrows )

 

 

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教師用指導書における指導案の一例

最後は教育勅語と関連付けて終わるようにとなっています。

 

 本作品の終わりに近いところで、木山さんはこんなことを言っています。

 私が、木口小平は私のところ岡山県笠岡市山口)からわずか六、七里しか離れていない、いわば同郷人岡山県高梁市成羽町だと知ったのは、それから三十年もたった昭和十七、八年のことである、迂闊な話だが、その時私は小平はあんなに国定教科書にまで採用されている有名人でありながら、まだ二等卒のままであることを初めて知った。金鵄勲章ももらっていなければ、勲八等さえもらっていないことも初めて知った。当時(大東亜戦争といった時代)は兵卒でもちょっとしたテガラをたてると、二階級とんだり、三階級特進したりしていた時代だったので、私はまことにヘンな気がしてならなかった。

 それにしても「三階級特進」とは!?

 いかにも、捷平さんらしい感想ですね。

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関連書籍を含めると100冊を超えていました(笑)