小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

コラム5 明治・大正時代の「夏休み」その2 

大正13年(1924)静岡県教育会編集の「ナツヤスミノトモ 尋常科一学年用」(https://arukunodaisuki.hamazo.tv/e7556148.html

■   夏休み・子どもたちの暮らしぶり 

   明治34年(1901)7月刊行の雑誌「児童研究」(日本児童学会)には、 「研究實例 夏季休業中の學校児童の動作」(神村直三郎)という報告が掲載されています。
 これは、明治32年(1899)静岡県の磐田尋常小学校補習科在籍者(高等科1・2年生に相当、10歳6ヶ月から13歳未満)を対象に、夏休み中の生活実態をアンケート調査した結果です。  
 以下は補習科(高等科)2年男子18名の具体的な行動で、該当者が2人以上あるものを挙げてみました。
 当時、農村の小学生が夏休みにどんな生活を送っていたのかがよくうかがえます。

○学事(計17) 復習13 七夕の歌清書2
○遊戯・遊歩(計46) 水浴8 角力を見る6 遊ぶ5 魚釣り2 魚を捕らふ2    工兵の架橋演習を見る3 
○農事(73) 茶摘み7  煙草の葉をかく3  煙草の葉を運ぶ4  煙草の葉を摘む7 藍を干す2  畑の耕作・草取り12  田の草取り6  豆を摘む12  豆こぎ6 芋掘り3  
○家事(96) 神社に参詣3  縄を綯(な)う2  屋敷の草取り8  掃除5  風呂の水くみ5  衛生講話を聞く2  留守番2  子守6  お使い10  車を引く2  米つき14  麦つき7  茄子をとる2

 「家事」「農事」において、比較的高い数値の項目がいくつか見られます。彼らはそうした仕事やお手伝いの合間に「水浴」で遊んだり、一学期の「復習」をしていたようです。

 この頃の義務教育は尋常小学校4年(明治40年から6年)までで、ほぼすべての作業を人力に頼っていた田畑の耕作や地場産業である茶の栽培などにおいて、現在の小学5・6年生に相当する彼らは、普段から貴重な労働力であったものと思われます。

 おそらく、学校に行っている期間よりも肉体的には辛い日々であったのではないでしょうか。

 

■ 夏休みの宿題帳

 前回(その1)でも引用しましたが、「学年中途でのこの空白(=夏休み)を放置できないと考えた学校側は、休み中もなんとか子どもを学校や学習につなぎとめておくということで、登校日や学習課題を設けること」になりました。(佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館、1987年)

 串間努まぼろし小学校 ものへん』(ちくま文庫、2006年)によれば、夏季休業中の自学自習用の教材である夏休みの友は、時代や地域によってその名称こそ様々ですが、既に明治末期から存在したということです。
  では、なぜ明治の終わり頃に「夏休みの宿題帳(帖)」なるものが登場したのでしょうか。
 深谷圭助「明治期における日本の尋常小学校の『夏休帖』等に関する研究」(『中部大学現代教育学部紀要第13号』2021年)によると、以下の三点が理由及び背景として挙げられるということです。

 1 それまでの「等級制度」から「学級制度」への移行期よって教育界では学力低下」の懸念が強くなったこと。
2 教科書が国定化されたことにより、児童生徒に「復習」を促すことが容易になったこと。
3 蒟蒻版印刷、謄写版印刷の普及に伴い、洋紙を利用したノートが小学校へも導入され、宿題をプリントして、配布し、それを綴じて提出させるという復習(自学)指導のスタイルが可能になったこと。

 

 大正時代に入ると「夏季学習帳」(研文館)、「暑中学校」(文林堂)「夏季学習帳」(富田屋書店)、「ナツヤスミノトモ」(文運堂)、「自学自習 夏季練習帳」(積善館)等々の教材が出版され、学校単位で買い上げられました。これらの編集を各府県の教育会が行っていたところも多いようです。

www.maboroshi-ch.com

「夏休おさらひ日記 尋常第三学年用」(大正5年・1916)
港区教育委員会/デジタル港区教育史 見る・知る・伝える~港区教育アーカイブ
当初は「一日一ページの日記併記」というスタイルのものが多くありました。

 その後、昭和に入ってからも夏休みの友「読書感想文」「自由研究」「絵日記」などと並んで、夏休みの宿題の定番であり続けました。
 

 近年では、ICT教育の普及により、小学校高学年を中心に、「夏休みの宿題をタブレットPCで提出」という小学校が増えてきているようです。

 100年以上続いた「夏休みの宿題」にも、少しずつ変化が生じています。

 

■ 林間学校(臨海学校)のはじまり

高松市新瓦町尋常小学校の林間学校

大正4年 新瓦町尋常小学校の林間学校⑥ | 牟礼のまちだより (fc2.com)

 

 明治末期から大正の初めにかけて、全国の主に都市部の小学校で、林間学校(または臨海学校)が行われるようになりました。
 これはドイツの「ヴァルトシューレ」(森の学校)を中心とする欧米の実践を模範とした導入されたもので、当初は「虚弱児童の健康促進」を目的としたものでした。

 その後は、健康な児童のための鍛錬的な実践や、体験を通じた学習を主目的としながら、あわせて史跡巡りや産業見学を行うなど、各地で多様な実践が展開されていきました。

「林間の読書」(大正14年・1925、港区旧竹芝小学校 「夏季学園記念写真帳」より 

 

11校の児童400名が静岡県原里村(現在の御殿場市)に向かっています。空気が清涼であり、小魚の遊ぶ清らかな小川もあるなど、林間学校の場所として適していると記録されています。また、原里村の人々や日本栄養協会などからの支援も受け、教育的環境にも恵まれていました。
(港区教育委員会/デジタル港区教育史 見る・知る・伝える~港区教育アーカイブ~校外学習)

 こうした活動は東京を除けば、西日本、特に近畿地方において都市部の小学校で積極的に展開されました。 

 一方、九州、東北、山陰地方など比較的自然の豊かな地域や大都市の少ない地域においては、実施例が多くありませんでした。

 農山村や漁村などでは上にも述べたように、小学生たちも労働力として期待されており、林間学校や臨海学校など、彼ら(彼女ら)には無縁のものであったと言えるでしょう。

 

【参考・引用文献等】

佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館、1987年

串間努まぼろし小学校 ものへん』ちくま文庫、2006年

港区教育委員会/「デジタル港区教育史」~ 見る・知る・伝える~港区教育アーカイブ

ブログ「牟礼のまちだより」

http://   http://muremure.blog35.fc2.com/blog-entry-77.html?sp

野口穂高「大正期における「林間学校」の受容と発展に関する一考察―その目的と実践内容の分析を中心に―」『早稲田大学 教育・総合科学学術院 学術研究(人文科学・社会科学)第64号』2016年

深谷圭助「明治期における日本の尋常小学校の『夏休帖』等に関する研究」『中部大学現代教育学部紀要第13号』2021年



 

コラム5 明治・大正時代の「夏休み」その1

田山花袋田舎教師』初版本 口絵

■ 「夏休み」はいつ頃に始まったのか?

 先日の7月21日(木)に全国のほとんどの小中高等学校が「夏休み」に入りました。2022年度の場合、公立学校では8月31日(水)までの42日間というが最多であるということです。

https://www.o-uccino.jp/article/posts/88031

 では、この夏休みはいつ頃、どういう経緯で始まったのでしょうか。

 明治5年(1872)の「学制」公布の頃には、一般に盂蘭盆休みはありましたが、長期の休暇は定められていませんでした。

 ただ、「お雇い外国人」と呼ばれる外国人教師を採用していた東京開成学校(後の東京大学)などでは、彼らの母国での習慣にしたがって、夏休みを設けていたそうです。それが次第に中等学校から小学校にも広がり、大阪府を例にとると、明治7年(1874)から大暑につき5日間の休業が定められました。

 文部省が初めて「夏季休業」について言及したのは、明治14年(1881)の「小学校教則綱領」の第7条においてで、そこには『小学校ニ於テハ日曜日、夏季冬季休業日及大祭日、祝日等ヲ除クノ外授業スヘキモノトス』という文言があります。

 当初、夏休みの日数は一定しませんでした。

 世間では、正月以外の長期の休暇に対する理解が乏しく、中にはそれに反対するような意見もありました。稲作が主体の我が国の農業では、稲の生育にとって大切な夏の時期に休むなどということは考えられないことだったのです。
 しかし、明治の末頃には、夏休み期間は東北、北海道などを除けば8月1日から31日までというのが次第に一般的になっていったようです。

 なお、現在のように7月下旬から8月末までというのは昭和10年代に入って(ただし、戦時中は除く)からのことでした。

 夏休みの導入について、その経緯と問題点を、佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』は次のように述べています。

 夏休み自体、欧米の慣行が外人教師を通じて導入されたもので、米作りを核とした日本の伝統社会にはなかった風習である。
 九月学年では学年末が夏休みとなるからよかったのだが、四月学年では新学期開始から三ヶ月半、ようやく子どもたちが学校に慣れたところで長い休みとなる。学年中途でのこの空白を放置できないと考えた学校側は、休み中もなんとか子どもを学校や学習につなぎとめておくということで、登校日や学習課題を設けることになった。

 我々が当然のことと思っている夏休みの宿題ですが、日本、中国、韓国などの東アジアの一部の国々を除けば、宿題がないのが「世界標準」だそうです。

 

■ 「夏季休業中の心得」

 七月はしだいに終わりに近づいた。暑さは日に日に加わった。(中略)
学校では暑中休暇を誰もみんな待ちわたっている。(中略)

 三十日の学課は一時間で終わった。生徒を集めた卓(テーブル)の前で、
「皆さんは暑中休暇を有益に使わなければなりません。あまりに遊び過ごすと、せっかくこれまで教わったことをみんな忘れてしまいますから、毎日一度ずつは、本を出してお復習(さらえ)をなさい。それから父さん母さんに世話をやかしてはいけません。桃や梨や西瓜(すいか)などをたくさん食べてはいけません。暑いところを遊んで来て、そういうものをたくさんに食べますと、お腹(なか)をこわすばかりではありません。恐ろしい病気にかかって、夏休みがすんで、学校に来たくッても来られないようになります。よく遊び、よく学び、よく勉めよ。本にもそう書いてありましょう。(十七)

田山花袋田舎教師」より、「青空文庫」、底本:「田舎教師 他一編」旺文社文庫、1966年 ※太字は筆者

 時代は明治30年代の中頃、現在の埼玉県羽生市周辺を舞台とする作品で、主人公の林清三は中学を出たばかりの代用教員です。内容は、よくある夏休み前の注意事項となっています。

 

 明治の終わり頃の、これは高等小学校(現在の中学校に相当)のものですが、「夏季休業の心得」が見つかりましたので、紹介してみたいと思います。

「明治四十四年 京都市第一高等小学校教育概況」より「夏季休業中の心得」
    ※現・京都市立上京中学校の前身  

 新字体に改めています     
    
○体力ノ維持ト増進
一 朝起セヨ 一 普通体操ノ二三節ヲ行ヘ 一 毎朝深呼吸ヲ行ヘ  

一 毎朝成可(なるべく)適度ノ散歩ヲセヨ    一 時々冷水ヲ以テ身体ヲ拭ヘ  

一 時々頭髪ヲ洗ヘ  一 休業中一二回ハ数里ノ道ヲ踏ミテ体力錬磨ノ実ヲ挙グル ヲ得バ甚可  
 一 判読不能(「水泳」の文字が見える)
一 夜更カシスナ    一 消化シ難キモノヲ食フナ  一 過食スナ 

一 湯茶ヲ多ク飲ムナ
一 間食ヲツツシメ    一 氷水ヲタシムナ(ママ)

○教科ノ復習ト自習
一 毎日二時間乃至三時間時間割ヲ定メテ既習ノ教科ヲ復習セヨ
一 与ヘラレタル宿題ヲ行ヘ  

一 教科書以外ノ書物ヲ読マントスル者ハ聖賢偉人ノ伝記地理理科工芸ニ関スルモノノ類ヲ択ベ而シテコレ等ハソノ多キニ亙ランヨリハ寧(むしろ)一部ノ書ヲ熟読スルヲ可トス   

一 図画又ハ博物標本ノ製作蒐集手工品制作等ヲナシ得ル便宜アルモノハ可成コレヲナセ
○徳性ノ保持ト涵養
一 毎朝夕校訓及児童心得ヲ誦読シコレガ実行ニ力(つと)メヨ
一 常ヨリモ多ク家業ヲ分担セヨ   

一 養ヒ得タル良習慣ヲ失ハヌヤウ力(つと)メヨ

(中略)
○宿題 算術毎日一題 書方一枚  図画一枚 地図一枚 手工一点 英習字一枚

 高等科の生徒というと、今の中学生1、2生に相当するわけですが、内容を見ていくと、小学校の低学年・中学年あたりに向けてのものかと思われるぐらいに、懇切丁寧な(?)指示がなされているように思います。

 

その2へつづく

 

※110年ほど後の現在、ネット上でいくつかの小中学校のホームページ上に掲載されている「夏季休業の注意事項」を見ると、必ずと言ってよいほどインターネットやSNS等に関するトラブルへの注意がありました。これが「令和の現実」なのですね(゚Д゚)

 

【参考・引用文献】

※黒羽弥吉 編「小学校教則綱領」1881年

「レファレンス協同データベース」学校の夏休み、冬休みはいつから始まったか知りたい。 | レファレンス協同データベース (ndl.go.jp

佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館、1987年

佐藤秀夫『学校教育うらおもて事典』小学館、2000年

田山花袋田舎教師』(「青空文庫」、底本:「田舎教師 他一編」旺文社文庫、1966年)

※「明治四十四年 京都市第一高等小学校教育概況」1911年

石川啄木「雲は天才である」その3 「教授細目」と「教案」

有佐一郎『学級文庫シリーズ ; 4・5年生 石川啄木 : 薄幸の歌人』(日本書房、1957年)の挿絵

 ある日のこと、主人公の代用教員・新田耕助は自作の「校歌」を子供たちに勝手に歌わせた一件で、校長と首座訓導の古山から注意を受けました。

 古山が先づ口を切つた。『然し、物には総て順序がある。其順序を踏まぬ以上は、……一足飛に陸軍大将にも成れぬ訳ですて。』成程古今無類の卓説である。
 校長が続いた。『其正当の順序を踏まぬ以上は、たとへ校歌に採用して可いものでも未だ校歌とは申されない。よし立派な免状を持つて居らぬにしても、身を教育の職に置いて月給迄貰つて居る者が、物の順序も考へぬとは、余りといへば余りな事だ。』
(中略)
『然し、』と古山が繰り出す。此男然しが十八番だ。『その学校の生徒に歌はせるには矢張り校長さんなり、また私なりへ、一応其歌の意味でも話すとか、或は出来上つてから見せるとかしたら穏便で可いと、マア思はれるのですが。』
『のみならず、学校の教案などは形式的で記す必要がないなどと云つて居て、宅(うち)へ帰れば、すぐ小説なぞを書くんださうだ。それで教育者の一人(いちにん)とは呆れる外はない。実に、どうも……。然し、これはマア別の話だが。新田さん、学校には、畏くも文部大臣からのお達しで定められた教授細目といふのがありますぞ。算術国語地理歴史は勿論の事、唱歌裁縫の如きでさへ、チアンと細目が出来て居ます。私共長年教育の事業に従事した者が見ますと、現今の細目は実に立派なもので、精に入り微を穿(うが)つ、とでも云ひませうか。彼是十何年も前の事ですが、私共がまだ師範学校で勉強して居た時分、其頃で早や四十五円も取つて居た小原銀太郎と云ふ有名な助教諭先生の監督で、小学校教授細目を編んだ事がありますが、其時のと今のと比較して見るに、イヤ実にお話にならぬ、冷汗です。で、その、正真(ほんたう)の教育者といふものは、其完全無欠な規定の細目を守つて、一毫(いちがう)乱れざる底(てい)に授業を進めて行かなければならない、若しさもなければ、小にしては其教へる生徒の父兄、また高い月給を支払つてくれる村役場にも甚だ済まない訳、大にしては我々が大日本の教育を乱すといふ罪にも坐する次第で、完たく此処の所が、我々教育者にとつて最も大切な点であらうと、私などは既に十年の余も、――此処へ来てからは、まだ四年と三ヶ月にしか成らぬが、――努力精励して居るのです。尤も、細目に無いものは一切教へてはならぬといふのではない。そこはその、先刻(さつき)から古山さんも頻(しき)りに主張して居られる通り、物には順序がある。順序を踏んで認可を得た上なれば、無論教へても差支がない。若しさうでなくば、只今諄々と申した様な仕儀になり、且つ私も校長を拝命して居る以上は、私に迄責任が及んで来るかも知れないのです。それでは、如何(どう)もお互に迷惑だ。のみならず吾校の面目をも傷つける様になる。』
『大変な事になるんですね。』と自分は極めて洒々(しやあしやあ)たるものである。尤も此お説法中は、時々失笑を禁じえなんだので、それを噛み殺すに不些少(すくなからず)骨を折つたが。『それでつまり私の作つた歌が其完全無欠なる教授細目に載つて居ないのでせう。』
『無論ある筈がないでサア。』と古山。
『ない筈ですよ。二三日前に作つた許りですもの。アハヽヽヽ。先刻からのお話は、結局あの歌を生徒に歌はせては不可(いかん)、といふ極く明瞭な一事に帰着するんですね。色々な順序の枝だの細目の葉だのを切つて了つて、肝胆を披瀝(ひれき)した所が、さうでせう。』

 

■    「教授細目」とは
  「学校には、畏くも文部大臣からのお達しで定められた教授細目といふのがありますぞ。算術国語地理歴史は勿論の事、唱歌裁縫の如きでさへ、チアンと細目が出来て居ます。」

 よほど教育史に関心がある方でないと、「教授細目」などという言葉は初耳ではないかと思います。

 『精選版 日本国語大辞典』には次のような説明があります。この言葉が出てくるのは管見では、本作品ぐらいのようです。
   

〘名〙 学習指導計画、学習指導案に相当する、旧学制下の用語。教科ごとの教材を各学期、各週に配列し、教材の指導目標、内容、方法などを書き、授業の予定を示したもの。
※雲は天才である(1906)〈石川啄木〉一「畏くも文部大臣からのお達しで定められた教授細目といふのがありますぞ」

※「学習指導案」というのは誤解を招くのではないでしょうか。これは後にふれるように、古くは「教案」と称されていました。

尋常科5年・高等科1年用「日本歴史」教授細目(「明治41年 石川県師範学校附属小学校)

 「教授細目」という言葉が初めて登場したのは、明治24年(1891)の「小学校教則大綱」においてでした。

 その第二十条に「小学校長若(もし)クハ首席教員ハ小学校教則二従ヒ其(その)小学校二於テ教授スヘキ各教科目ノ教授細目ヲ定ムヘシ」という規程があります。

 この規程により各学校は、地域や学校の実情に応じて「教授細目」を定めなければならないことになりました。

国(文部省):「小学校教則大綱」
             ↓

 府県:「小学校教則」(文部大臣の認可を要す)
             ↓
各学校:「教授細目」
             ↓

 各教員:「教授週録」

 このように、「整然とした学科課程の管理組織の確立」文部科学省『学制百年史』)が見られたわけです。

  ただ、小規模校が多く、教員の配置も不十分であったこの当時、各学校単位で教授細目を作成することは、なかなか困難なことでした。そこで、郡や市の校長会、教育会などが編纂委員会を招集して作成していたケースが多いようです。

 また、各府県の師範学校附属小学校においては、各教科の教授細目を編成、刊行しており、府県内の学校がそれを「参考」にしていたものと思われます。
 実際、本作品のように代用教員を入れてわずか4名の教員で、「地域や学校の実情に応じた」各学年・各教科の教授細目を作成することなど、とうてい無理な話でした。

 

 啄木は「渋民日記」(明治39年4月24~28日)の中でも、「文部省の規定した教授細目は『教育の仮面』にすぎぬのだ」と述べており、本作品における新田耕助の言動は、作者・啄木の教育観を素直に反映したものであることがうかがえます。

  余は余の在職中になすべき事業の多いのを喜ぶものである。余は余の理想の教育者である。余は日本一の代用教員である。これ位うれしい事はない。又これ位うらめしい事もない。余は遂に詩人だ、そして詩人のみが真の教育者である。
 児童は皆余のいふ通りになる。就中たのしいのは、今迄精神に異状ありとまで見えた一悪童が、今や日一日に自分のいふ通りになつて来たことである。教授上に於ては、先ず手初めに修身算術作文の三科に自己流の教授法を試みて居る。文部省の規定した教授細目は「教育の仮面」にすぎぬのだ。 ※下線は筆者

 

■ 教案を書かない代用教員

旧渋民尋常高等小学校の教室

 教案

〘名〙 授業の前に、教材の指導目標に基づく指導過程を考え、時間を配当し、目的、方法などを記述した予定案。教授案。指導案。
※雲は天才である(1906)〈石川啄木〉一「学校の教案などは形式的で」

 石川啄木(本名・一 はじめ)が渋民尋常高等小学校に在勤中、作中のように「教案などは形式的で記す必要がない」などと言って本当にそれを書かなかったのかどうかについては、伝記や同僚の証言などでも確認はできませんが、「足跡」という自伝的要素の強い作品の中にも下記のような部分があることから、彼が授業の前に「教案」を作成し、校長の「検閲」を受けるという当然の義務を怠っていた可能性はあると思われます

 

(S村尋常高等小学校で代用教員の千早健の同僚孝子が同窓の女友達の一人へ遣つた手紙から)

先生(千早健)は又、教案を作りません。その事で何日(いつ)だつたか、巡(まは)つて来た郡視学と二時間許り議論をしたのよ。その時の面白かつたこと。結局視学の方が敗けて胡麻化(ごまくわ)して了つたの。」

石川啄木「足跡」(「青空文庫」、底本:『石川啄木全集 第三巻 小説』筑摩書房、1978年)

岐阜県稲葉郡小学校長会 編 『教案編成法』(玉成堂、1900年)
より第三編「教案例」第一章教授日案用紙
 右端の枠内には、「予備」「提示」「比較」「統括」「応用」と印刷されています。当時我が国で大流行していたヘルバルト派の五段階教授法を前提としたものになっています。

 

 「国立国会図書館デジタルライブラリー」で「教案」と検索すると、当時刊行されていた各学年各教科の「教案例」が多数見つかります。

 教育界で指導的な立場にある人物や師範学校附属小学校教員によるものが多いのは、上述の「教授細目」と同様です。

徳島県師範学校附属小学校「尋常3年修身科教授案例」明治41年(1908)

 今は教科書会社が作ってくれた(?)「教師用指導書」なるものがありますが、作品の当時は国定教科書の時代でした。やはり現場ではそうした刊行物を「参考」にせざるを得ないような状況があったのではないでしょうか。

 

※ 国会図書館といえば、従来からよく利用させてもらっていたデジタルライブラリーに、5月から「個人向けデジタル化資料送信サービス」というのが始まり、本登録を済ませました。これまでの公開点数約56万から153万点と3倍近くに拡大し、戦後の著作物でも絶版などで入手困難なものが閲覧できるようになりました。

一昔前には想像も出来なかったようなことが現に起こっており、ずいぶんと助かっています!

 

【参考・引用文献】
文部省『学制百年史』ぎょうせい、1971年
 ※岐阜県稲葉郡小学校長会 編 『教案編成法』玉成堂、1900年

徳島県師範学校附属小学校編『各科教授案例』黒崎静寿堂、1908年

※石川県師範学校附属小学校『石川県師範学校附属小学校各科教授細目. 上』1908年

石川啄木「足跡」(「青空文庫」、底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房、1978年)

石川啄木『雲は天才である』その2 「校歌」

  詳しく説明すれば、実に詰らぬ話であるが、問題は斯うである。二三日以前、自分は不図した転機(はずみ)から思付いて、このS――村小学校の生徒をして日常朗唱せしむべき、云はゞ校歌といつた様な性質の一歌詞を作り、そして作曲した。作曲して見たのが此時、自分が呱々(ここ)の声をあげて以来二十一年、実際初めてゞあるに関らず、恥かし乍ら自白すると、出来上つたのを声の透る我が妻に歌はせて聞いた時の感じでは、少々巧い、と思はれた。今でもさう思つて居るが……。妻からも賞められた。
(中略)
『其歌は校長さんの御認可を得たのですか。』
『イヤ、決して、断じて、認可を下した覚えはありませぬ。』と校長は自分の代りに答へて呉れる。
 自分はケロリとして煙管を啣(くは)へ乍ら、幽かな微笑を女教師の方に向いて洩した。古山もまた煙草を吸ひ初める。
 校長は、と見ると、何時の間にか赤くなつて、鼻の上から水蒸気が立つて居る。『どうも、余りと云へば自由が過ぎる。新田さんは、それあ新教育も享(う)けてお出でだらうが、どうもその、少々身勝手が過ぎるといふもんで……。』
『さうですか。』
『さうですかツて、それを解らぬ筈はない。一体その、エート、確か本年四月の四日の日だつたと思ふが、私(わし)が郡視学さんの平野先生へ御機嫌伺ひに出た時でした。さう、確かに其時です。新田さんの事は郡視学さんからお話があつたもんだで、遂私も新田さんを此学校に入れた次第で、郡視学さんの手前もあり、今迄は随分私の方で遠慮もし、寛裕(おほめ)にも見て置いた訳であるが、然し、さう身勝手が過ぎると、私も一校の司配を預かる校長として、』と句を切つて、一寸反り返る。此機を逸(はづ)さず自分は云つた。
『どうぞ御遠慮なく。』
『不埓(ふらち)だ。校長を屁とも思つて居らぬ。』
(中略)
『只今伺つて居りました処では、』と白ツぱくれて古山が口を出した、『どうもこれは校長さんの方に理がある様に、私には思はれますので。然し新田さんも別段お悪い処もない、唯その校歌を自分勝手に作つて、自分勝手に生徒に教へたといふ、つまり、順序を踏まなかつた点が、大(おほ)いに、イヤ、多少間違つて居るのでは有るまいかと、私には思はれます。』
『此学校に校歌といふものがあるのですか。』
『今迄さういふものは有りませんで御座んした。』
『今では?』
 今度は校長が答へた。『現にさう云ふ貴君(あなた)が作つたではないか。』
『問題は其処ですて。物には順序……』
 皆まで云はさず自分は手をあげて古山を制した。『問題も何も無いぢやないですか。既に私の作つたアレを、貴君方が校歌だと云つてるぢやありませぬか。私はこのS――村尋常高等小学校の校歌を作つた覚えはありませぬ。私はたゞ、この学校の生徒が日夕吟誦しても差支のない様な、校歌といつたやうな性質のものを試みに作つた丈です。それを貴君方が校歌といふて居られる。詰(つま)り、校歌としてお認め下さるのですな。そこで生徒が皆それを、其校歌を歌ふ。問題も何も有つた話ぢやありますまい。この位天下泰平な事はないでせう。』

不意に、若々しい、勇ましい合唱の声が聞えた。二階の方からである。
春まだ浅く月若き
生命いのちの森の夜の香に
あくがれ出でて我が魂(たま)
夢むともなく夢むれば……     ※下線は筆者

 

昭和29年(1954)新東宝映画

■ 「校歌」にも認可が必要!? 

 主人公・新田耕助代用教員として勤めているこの尋常高等小学校の教員のうち、田島校長と首座訓導の古山は、普段から新田の勤務ぶりや言動を批判的な目でながめています。

 今回の「校歌」の件についても、校長らが問題にしているのは、新田がしかるべき手続きを経ないで、自分が作った歌を勝手に生徒たちに歌わせたことでした。
 

 『此学校に校歌といふものがあるのですか。』と訪ねる新田に対して、『今迄さういふものは有りませんで御座んした。』と古山が答えています。
  時代は明治39年(1906)頃のこと。学制公布から30数年が経過していますが、実は「校歌」のない学校がほとんどでした。
 今では、「校歌のない学校」など、とうてい考えられませんが、そもそも学制公布から令和の現在に至るまで、学校に校歌の制定を義務付けたり、それを奨励したりする法令は、一度も公布されておらず、校歌の制定はすべてそれぞれの学校独自の判断によるものでした。
 では、作品の当時、それぞれの学校が自主的に校歌を制定し、児童生徒に歌わせてよかったのかというと、そこには文部当局による規制がありました。
 それは、文部省訓令第七号(明治 27年 12 月 28 日公布、昭和 6年 9 月 10 日廃止)によるもので、紀元節天長節などの「祝日大祭日儀式」の際に歌う唱歌だけではなく、「校歌」を含む唱歌全般が規制の対象となっており、すべての唱歌に文部大臣の認可が必要とされていたのです。

『官報』第3452号、1894年(明治27年)12月28日

文部省訓令第七号
北海道庁 府県
小学校ニ於テ唱歌用ニ供スル歌詞及楽譜ハ本大臣ノ検定ヲ経タル小学校教科用図書中ニ在ルモノ又ハ文部省ノ撰定ニ係ルモノ及地方長官ニ於テ本大臣ノ認可ヲ受ケタルモノヽ外ハ採用セシムヘカラス但他ノ地方長官ニ於テ一旦本大臣ノ認可ヲ経タルモノハ此限ニ在ラス
明治二十七年十二月二十八日文部大臣 侯爵西園寺公望    ※新字体に改めています 

 

 文部省が学校における唱歌を規制したのは、端唄、清元、常磐津などの「卑猥な俗曲」が蔓延して学齢期の子どもたちに悪影響を及ぼしていることと、その対策として学校に導入した軍歌にも「愚劣な歌詞」を含むものが目立つようになってきたからでした。下は、その一例です。

「滑稽軍歌」(『ちゃんちゃん征伐流行歌』より)

『ちゃんちゃん征伐流行歌』の口絵

 小学校においても、明治の末頃から校歌を制定しようとする学校が目立つようになってきました。

 ところが、作詞はともかく作曲については、適当な人物を得られないことが多いことから、作詞・作曲を東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)に委託する学校が、1930年代に至るまで数多くありました。

 明治40年(1907)から昭和20年(1945)までの間、東京音楽学校への校歌委託件数は、小学校国民学校を含む)で154校、中等学校(中学校、高等女学校など)で246校、高等教育機関(高等学校、専門学校、大学など)で32校、その他24校の計456校にも上っています。

東京音楽学校明治23年に落成した校舎)

 ちなみに、報酬額の相場は、昭和の初期では小学校で30円以上、中等学校で50円以上でした。昭和6年(1931)の小学校教員の初任給は45円から50円程度でしたから、この報酬額は意外に良心的(?)と言ってもよいかと思われます。

 

■ 渋民小学校の校歌

 下記は、啄木の母校の後身である盛岡市立渋民小学校の校歌です。

作曲:清瀬保二

1. 春まだ浅く 月若き
生命の森 夜の香に
あくがれ出でて 我が魂の
夢むともなく 夢むれば
さ霧の彼方 そのかみの
希望は遠く たゆたいぬ

 

2. そびゆる山は 英傑の
跡を弔ふ 墓標
音なき河は 千歳に
香る名をこそ 流すらむ
此処は何処と 我問えば
汝が故郷と 月答ふ

 

3.雪をいただく 岩手山
名さえやさしき 姫神
山の間を 流れゆく
千古の水の 北上に
心を洗い 身を清め
学の道に 進めかし

 

 

現在の渋民小学校(盛岡市ホームページ)

校歌 歌碑(「たかしの啄木歌碑礼賛」ホームページより)

 校歌の歌詞には、主人公が作中で子供たちに歌わせようとした「校歌」(「校友歌」?)の1番から5番のうち、1番・3番・5番の歌詞が採用され、5番の最後に「学びの道に進めかし」と補作されています。

 

 詩は七五調の文語詩で格調高いものですが、小学生には相当に難解な表現と内容であると思われますが、いかがでしょうか。

 

 蒼丘書林編『回想 教壇上の文学者 異才の教育実践』(1980年)には、渋民尋常小学校で一年間、啄木に教わった方々の座談が掲載されていますが、本作品のようなことが実際に行われていたことが分かる証言があります。

 

立花・玉山(松) 唱歌の時間には、自分で作った歌をうたわせた。たとえば

  ~長く流るる北上の/濁らぬ水に洗いつつ/吾等の心とこのからだ/きれいに優しく磨きあげ/あまたの人にほめられて/えらい人になりましょう

玉山(松) それから、こんなのもあった。

  ~東は姫神山/西には岩手山/その真ん中流れる北上川/そのほとりに立つ/わが渋民尋常高等小学校

 といったような歌。そんなのを自分でこさえて歌わせたわけです。

 

【参考・引用文献】

渡辺裕『歌う国民』中公新書、2010年  
須田珠生『校歌の誕生』人文書院、2020年
須田珠生「近代日本の学校にみる校歌の成立史」京都大学、博士論文要約、2019年 

※骨皮道人『ちゃんちゃん征伐流行歌』弘文堂、1894年

蒼丘書林編『回想 教壇上の文学者 異才の教育実践』1980年

石川啄木『雲は天才である』その1 「日本一の代用教員」

名作でたどる明治の教育あれこれ: 文豪の描いた学校・教師・児童生徒   六月三十日、S――村尋常高等小学校の職員室では、今しも壁の掛時計が平常(いつも)の如く極めて活気のない懶(ものう)げな悲鳴をあげて、――恐らく此時計までが学校教師の単調なる生活に感化されたのであらう、――午後の第三時を報じた。大方今は既(はや)四時近いのであらうか。といふのは、田舎の小学校にはよく有勝(ありがち)な奴で、自分が此学校に勤める様になつて既に三ヶ月にもなるが、未だ嘗(かつ)て此時計がK停車場の大時計と正確に合つて居た例(ためし)がない、といふ事である。
(中略)
 午後の三時、規定(おきまり)の授業は一時間前に悉皆(しつかい)終つた。平日(いつも)ならば自分は今正に高等科の教壇に立つて、課外二時間の授業最中であるべきであるが、この日は校長から、お互月末の調査(しらべ)もあるし、それに今日は妻(さい)が頭痛でヒドク弱つてるから可成(なるべく)早く生徒を帰らしたい、課外は休んで貰へまいかという話、といふのは、破格な次第ではあるが此校長の一家四人――妻と子供二人と――は、既に久しく学校の宿直室を自分等の家として居るので、村費で雇はれた小使が襁褓(おしめ)の洗濯まで其職務中に加へられ、牝鶏(ひんけい)常に暁を報ずるといふ内情は、自分もよく知つて居る。何んでも妻君の顔色(がんしよく)が曇つた日は、この一校の長たる人の生徒を遇する極めて酷だ、などいふ噂もある位、推して知るべしである。自分は舌の根まで込み上げて来た不快を辛くも噛み殺して、今日は余儀なく課外を休んだ。一体自分は尋常科二年受持の代用教員で、月給は大枚金八円也、毎月正に難有頂戴して居る。それに受持以外に課外二時間宛(づつ)と来ては、他目(よそめ)には労力に伴はない報酬、否(いや)、報酬に伴はない労力とも見えやうが、自分は露聊(いささか)これに不平は抱いて居ない。何故なれば、この課外教授といふのは、自分が抑々(そもそも)生れて初めて教鞭をとつて、此校の職員室に末席(ばつせき)を涜(けが)すやうになつての一週間目、生徒の希望を容れて、といふよりは寧(むし)ろ自分の方が生徒以上に希望して開いたので、初等の英語と外国歴史の大体とを一時間宛とは表面だけの事、実際は、自分の有つて居る一切の智識、(智識といつても無論貧少なものであるが、自分は、然し、自ら日本一の代用教員を以て任じて居る。)一切の不平、一切の経験、一切の思想、――つまり一切の精神が、この二時間のうちに、機を覗ひ時を待つて、吾が舌端より火箭(くわせん)となつて迸(ほとばし)る。的なきに箭(や)を放つのではない。男といはず女といはず、既に十三、十四、十五、十六、といふ年齢(とし)の五十幾人のうら若い胸、それが乃ち火を待つ許りに紅血の油を盛つた青春の火盞(ひざら)ではないか。火箭が飛ぶ、火が油に移る、嗚呼そのハツ/\と燃え初そむる人生の烽火のろしの煙の香ひ! 英語が話せれば世界中何処へでも行くに不便はない。たゞこの平凡な一句でも自分には百万の火箭を放つべき堅固な弦(ゆみづる)だ。(一)
 青空文庫」(底本:『石川啄木全集 第三巻 小説』筑摩書房、1978年)
 

【作品紹介】
  詩や短歌では叙情味あふれる作品で天性の才能を発揮し、矛盾に満ちた明治という時代への鋭い考察も相俟って今もなお熱烈な読者を持つ石川啄木が心血を注いだ小説。故郷・渋民村の高等小学教の教員時代に書き出され、青年たちの鬱屈と貧しき者、弱き者の心に共振していく初期短篇三作と、唯一新聞に連載された中篇を収録し、短い生涯を駆け抜けた啄木文学の可能性を提示する。(講談社文芸文庫・電子版解説)
 

石川啄木】 
 明治19年~45年(1886-1912)岩手県日戸村生まれ。本名一。生後まもなく、父が渋民村宝徳寺住職となる。唯一の男子として両親の愛情を一身に受け、村人からは神童と騒がれ、気位高く育つ。盛岡中学在学時に「明星」に感銘、17歳の時、文学を志して上京するが、健康を害し帰郷。20歳で処女詩集『あこがれ』を出版、天才詩人の評判を得る。が、自分の才能と自負心と、両親妻子を養わねばならぬ貧困の現実とに引き裂かれ続け、肺結核で不遇の生涯を閉じた。歌集『一握の砂』、友人らの尽力で死後出版された『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』等がある。 (新潮社 著者プロフィールwww.shinchosha.co.jp/sp/writer/758  )

■  代用教員となるまで

(略年譜)
  明治19年1886年)2月20日
岩手郡日戸村(ひのとむら)(今の盛岡市玉山区日戸)の常光寺で生まれる。(18年10月27日説もある。)
一(はじめ)と命名。父一禎が住職をしていた。
明治20年(1887年) 1歳
父一禎の転住により、渋民村の宝徳寺に移る。
明治21年1888年)12月20日 2歳
妹光子生まれる。
明治24年(1891年) 5歳
岩手郡渋民尋常小学校(いまの渋民小)に入学。
明治28年(1895年) 9歳
尋常小学校卒業。盛岡市立高等小学校(いまの下橋中)に入学。
金田一京助を知る。
明治31年(1898年) 12歳
県立盛岡中学校(現、盛岡第一高等学校)に入学。
同中で教師大井蒼梧、先輩野村長一・金田一京助らの影響を受け、文学への傾斜を深める。
明治32年(1899年) 13歳
2年に進級。堀合節子と知り合う。
明治35年(1902年) 16歳
同中学を退学。試験でカンニングし、処分されたのが直接の動機といわれる。

啄木が盛岡中学校を退学した経緯については、私のもう一つのブログ「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」の中の「コラム14  試験とカンニング」(https://sf63fs.hatenablog.com/entry/2019/03/16/004722)でとり上げています。ご参照ください。
11月に上京、与謝野鉄幹を訪ねる。
明治36年1903年) 17歳
2月、病により帰郷。
明治37年(1904年) 18歳
「明星」や「時代思潮」の誌面を飾り、新進詩人として注目を集めるようになる。
10月、処女詩集「あこがれ」刊行のため、上京。
明治38年(1905年) 19歳
5月、詩集「あこがれ」刊行。堀合節子と結婚。9月、雑誌「小天地」を発行。
明治39年1906年) 20歳
4月、母校渋民小学校の代用教員となる。12月、長女京子誕生。
  
岩手県立図書館ホームページより
https://www.library.pref.iwate.jp/books/kyoudo/kentaku/takuboku.html

旧渋民尋常高等小学校校舎、現在は移築されています

 啄木は妻・節子の父が岩手郡役所に勤めており、その友人である郡視学・平野喜平に就職を依頼、渋民尋常高等小学校に尋常科代用教員として採用されました。

 このとき、有資格者であるT准訓導が他校へ転出させられました。

 当時の教員は校長の遠藤忠志、主席訓導の秋浜市郎、岩手師範学校女子部出身の上野さめ子、そして代用教員の石川一(啄木)の計四名でした。
 生徒数283名(高等科68名、尋常科215名)で、啄木は尋常科二年を受け持ちました。

 

 ■  月俸八円!

 啄木の小説『足跡』(「スバル」第二号、明治42年2月1日)には次の場面があり、

上記4人の給料が記されています。

 健の月給はたった八円であった。そして、その八円はいつでも前借になっていて、二十一日の月給日が来ても、いつの月でも健には、同僚と一緒に月給の渡されたことがない。四人分の受領書を持って行った校長が、役場から帰ってくると、孝子は大抵紙幣と銀貨を交ぜて十二円渡される。検定試験あがりの秋野は十三円で、古い師範出の校長は十八円であった。そして、校長は気の毒そうな顔をしながら、健にはぞんざいな字で書いた一枚の前借書を返してやる。彼は平然としてそれを受け取って、クルクルと丸めて火鉢にくべる。

 金額はフィクションではなく、当時在籍した4人の実際の俸給月額が記されています。

 次の表は 明治39年岩手県渋民村(ママ)尋常高等小学校の職員の月給です。石川一(啄木)が在職中のものです。
 年齢は数え年です。訓導の上野(うわの)さめ子は、岩手県最初の女性教員だったそうです。
職 位     職 員 名     月俸     備考
校 長     遠藤忠志     18円     高等科担当。師範卒
主席訓導    秋浜市郎     13円     尋常3,4年担当。検定試験上り。50才くらい
訓 導     上野さめ子    12円     尋常1年担当。師範女子部卒。23才。
代用教員    石川 一      8円     尋常2年担当。22才。

「明治人の俸給」(https://coin-walk.site/J022.htm)より

 主人公・新田耕助月俸8円というのは、たしかに薄給には違いないのですが、明治30年代終わり頃としては、特に低い額とも言えないようです。

 田山花袋田舎教師の主人公・林清三(中学卒業、明治35年頃という時代設定)は代用教員としては最高額に近い11円という好待遇でしたが、埼玉県下の代用教員の平均俸給月額は6円50銭でした。(「明治三十五年埼玉県学事年報」による)

 

 それよりも、これは明治の初めから後々の時代に至るまで、ずっと指摘され続けたことですが、小学校教員全体の給料が相対的に低かったことが問題でした。

 上のグラフのように、本科正教員であっても最も多いのは12円であり、作中の校長のように18円という月俸は、高給取りの部類に入るという実態があったようです。

 週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史・上』(朝日文庫、1987年)によると、明治39年(1906)の警視庁巡査の初任給は12円となっています。また、全国の日雇い労働者の平均賃金は日額40銭(25日働いて月額10円)となっていますので、小学校教員の薄給ぶりが想像できることでしょう。

 背景には、給与を負担していた町や村の財政力の乏しさがありました。

 去る二十一日の月給日にも請求致し候ひしも、俸給金村役場より出来ず、お葉書によって今日も催促に参り候ひしも矢張り駄目、これは昨年の凶作の影響にて村税未納者多く、村費皆無のために候、誠に困り入り候、最も私一人でなく、学校の職員四人共同にて融通の余裕もなく、いづこも同じ秋の夕 暮れに御座候。役場にては、月末迄には何とかして払うと申居り候 (明治39年4月23日付けの友人への手紙)下線は筆者

  これは借金をしている友人への手紙なので、やや誇張している部分があるかもしれませんが・・・・。

 一般的に小規模の町や村にとって、小学校の管理・運営にかかる経費、中でも教員の給与は、財政的な負担が大きいことから、給料を抑えることができる代用教員に依存していた面があったと言われています。

 その代用教員の多くは旧制中学校・高等女学校、場合によっては高等小学校の卒業者で、上級学校に進学するための学資を得るために、一時的に代用教員となった者がかなりの割合でいたようです。

 もちろん、在職中に小学校教員検定試験を受けて正教員への道をめざす者も多くいましたが、啄木の場合はまさに「糊口を凌ぐ」ためのものでした。

 

 最後に当時の教え子による回想を紹介しておきましょう。(蒼丘書林『回想 教壇上の文学者 異才の教育実践』より)

 

佐藤 その頃の先生は、月給八円だったということですが、暮らしぶりはどうでしたか。

秋浜 私らが先生の家へ行っていたとき、学校から帰ってきた先生に、奥さんが玄関先で「今晩のご飯ありません」と言っていたこともありました。先生はそのまま二階に上がり、唱歌をうたったり、歌を作ったりしていました。弁当を持ってこないこともたびたびあったようです。

遠藤 でも、当時の百姓は、みんなアワやヒエを食べていたんですから、村で住むなら八円でもやってけたんじゃねえすか。

遊座 結局、お寺さんに生まれ育っていますし、それに啄木の性格もある意味で派手好きだったろうし、文学上のお付き合いも多いといったことが家計に影響していたんでしょうね。

 

 弁当を持ってこれないいわゆる「欠食児童」の存在はよく知られていますが、「欠食先生」もいたのですね。

 

【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション

週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史・上』朝日文庫、1987年

「明治人の俸給」(https://coin-walk.site/J022.htm

※「明治三十八年岩手県学事年報」

海原徹『明治教員史の研究』ミネルヴァ書房、1973年

蒼丘書林編『回想 教壇上の文学者 異才の教育実践』蒼丘書林、1980年

谷崎潤一郎「小さな王国」その6 小学校教員の待遇をめぐって

 七人目の子を生んでから、急に体が弱くなって時々枕に就いて居た貝島の妻が、いよいよ肺結核と云う診断を受けたのは、ちょうどその年の夏であった。M市へ引き移ってから生活が楽になったと思ったのは、最初の一二年の間で、末の赤児は始終煩(わずら)ってばかり居るし、細君の乳は出なくなるし、老母は持病の喘息が募って来て年を取る毎に気短かになるし、それでなくても暮らし向きが少しずつ苦しくなって居た所へ、妻の肺病で一家は更に悲惨な状態に陥って行った。貝島は毎月三十日が近くなると、一週間も前から気を使って塞ぎ込むようになった。貧乏な中にも皆達者で機嫌よく暮らして居た東京時代の事を想うと、あの時の方がまだ今よりはいくらか増しであったようにも考えられる。今では子供の数も殖えて居る上に、いろいろの物価が高くなったので、病人の薬代を除いても、月々の支拂いは東京時代とちっとも変わらなくなって居る。それに若い頃なら此れから追々月給が上ると云う望みもあったけれど、今日となっては前途に少しの光明もあるのではない

十返肇 編『谷崎潤一郎名作集』 (「少年少女日本文学選集 13」あかね書房, 1956年)より

■ 小学校教員の経済的困窮

 M市に転任してきた頃の貝島は、月俸45円という恵まれた部類の俸給を貰っていましたが、その後は引用文にあるような状況が出来して、「一家は更に悲惨な状態に陥って」いきました。

 小学校教員の”安月給”は、明治以来長らく言われ続けてきたことではありますが、大正期半ば以降は一層その度合いを増していきました。

 背景には、大正2年(1913)から大正9年(1920)までの7年の間に、大正2年を100とした東京卸売物価が大正7年には192、さらに大正9年3月には321にまで上昇するという厳しい経済状況がありました。(大正10年9月調べ『各国財政経済要覧』大蔵省理財局、1922年)

 貝島のみならず、小学校教員の多くが、インフレによる生活費の高騰に苦しんだ時代でした。

 そうした状況下で、「教育時論」「日本之小学教師」などの教育雑誌は、アンケートによる生活実態調査などをもとに、小学校教員の待遇改善を強く訴え続けました。
 大正7年(1918)に「義務教育費国庫負担法」が成立。小学校教員の標準月俸は同年と大正9年(1920)の二度にわたり改正、増額されて、一時は下のグラフのように急上昇を示しますが、上に述べたように物価上昇の勢いはそれ以上の激しさでした。

■ 副業や内職を勧める文部大臣!?

 文部当局は上述のように、増俸の措置を取りましたが、「物価騰貴の激しさはこのていどの増俸措置をほとんど帳消しにした。それゆえ文部省は、この前後、勅令に関連するいくつかの訓令を発し責任の一端を果たす、というより責任逃れ」をするに至りました。(海原徹『大正教員史の研究』)

 1「教員家族副業訓令」(大正8年8月6日、文部省訓令第7号、下の官報記事)

 2「食糧訓令」(大正8年7月29日)・・・代用食の推奨も

 3「消費節約訓令」(大正8年8月19日)・・・質素倹約の実践は教員から

戦後経営の方策として国民生活の充実と国富の増殖を図ることは今日最も緊要とするところである。固よりこれは容易な業でないから、国民は此の際非情な決心を以て之に当たらなければならぬ。
即ち徒に勤労を賤しみ漫りに徒食を誇るが如き旧来の陋習は断じて之を打破し、更に進んで大に業務を励み家産を治める一大覚悟を要するのである。教育の任に当たる者は単に学校に於いて此の趣意を生徒児童に教ふるに止まらず、延て弘く之を社会に勧め、尚事情の許す限り其の家族をして適当な副業に従事させることは実に勤労を尚ぶの美風を作興するものであって、又前述の方策に適応する所以である。 (漢字かな交じり、新字体に改めています。下線は筆者)

 

 この訓令を知った(読んだ)教員たちは、いったいどんな気持ちだったでしょうか。

 当局の本音は言うまでもなく、「これ以上は増俸の余裕がないから、各家庭で副業や内職をして、家計の助けとしてくれ」ということです。

 それを、言うに事欠いて「徒に勤労を賤しみ漫りに徒食を誇るが如き旧来の陋習」とは・・・。

 もちろん、この文言は教員だけを指して述べたものではありませんが、文脈からそう受け取られても仕方はありません。

 大正7年(1920)から原敬内閣の文部大臣をつとめた中橋徳五郎は、高等教育機関大増設(高等学校10校、専門学校29校、医学専門学校5校の設置、東京高等商業学校の大学昇格など)の功績で知られている人物ですが、こんなお粗末な訓令を発していたとは・・・・・。

中橋徳五郎(「近代日本人の肖像」より)

■ 師範学校入学志望者の減少

 明治中期以降は4~5倍の志願倍率を維持していた師範学校の入学希望者ですが、次第に減少し始め、大正期に入ると急激な落ち込みを見せるようになりました。

 この間の事情について、『兵庫県教育史』は次のように述べています。

 明治初期における師範学校は県下の最高学府であり、その生徒は一種のプライドを持っていた。ところが明治三十年代以降、県立中学校があいついで設立されると、前途有為の青年は多くこれらの中学校に入学し、師範学校は兵役のがれや、学資に不自由な人たちの入学する傾向が強くなった。
 また資本主義の発達は、金銭的にめぐまれぬ教師の地位を低いものとし、しだいにその職業を魅力のないものとしていった。(中略)
 特に第一次世界大戦後の好況期には、世人の教師観もきわめて軽視的となり、師範学校では生徒募集難におちいるありさまであった。(中略)
 そこで憂慮した県当局では、まず生徒給費を増額して入学志願者の誘引につとめ、さらに大正九年以降、従来まったくその例をみない入学準備金をさえ与えることにしたのである。
 しかし当局の苦心にもかかわらず、戦後のインフレ好況時代とあって、入学志願者は依然として増加せず、ついに大正八年には、県下の三師範学校とも、生徒の再募集をしなければならなくなった。

 

 さて、「金銭的にめぐまれぬ教師の地位」とありますが、他の職業と比べるとどうだったのでしょうか。
 下の表は、大正8年(1919)の埼玉県の例ですが、学歴としては師範学校よりも低い中学校や商業学校卒の銀行員や鉄道現業員のほうが、高い初任給をもらっています。

 また、大工職や左官職の日給をみると、どちらも1円50銭となっており、月25日の計算では月額は37~8円となります。小学校教員は師範出の正教員であっても、それらの労働者以下の待遇であったことが分かります。

 

■ 転退職者の増加

 安月給の小学校教員という職に魅力を感じない青年たちが、師範学校を志望しなくなっただけでなく、現職の教員たちの中にも薄給による生活苦や将来の展望が見出せないことなどから、転職や退職をする者が増えていきました。
 時あたかも大戦後の好景気で、商工業方面に人的な需要が高まったことも大きな要因でした。
 教育活動の中心となるべき正教員の流出を、当局は准教員や代用教員で補充しましたが、それでも教員不足はなかなか解消せず、当然のことながら教育活動の質的低下も避けられない様相を呈してきました。

 

 「今日となっては前途に少しの光明」も見いだせなくなったベテラン教師の貝島は、作品の最終部分において、「自分の子に飲ませるミルク」を求めて沼倉に取り入ろうとします。
  そこには、自ら「教室における主権」を失っただけではなく、経済的に追い詰められ、教師としてのプライドまでかなぐり捨てようとする、一人のベテラン教師の凋落した姿がシニカルに描き出されています。

 

 【参考・引用文献】  ※国立国会図書館デジタルライブラリー
 ※大正10年9月調べ『各国財政経済要覧』大蔵省理財局、1922年
陣内靖彦『日本の教員社会 歴史社会学の視点』東洋館出版社、1988年
海原徹『大正教員史の研究』ミネルヴァ書房、1977年
兵庫県教育委員会兵庫県教育史』1963年

谷崎潤一郎「小さな王国」その5 「怖い先生」から「面白いお友達」へ

 修身の時間に私語をする沼倉を叱り、立たせようとした貝島に、全級の生徒が「先生、僕も一緒に立たせて下さい」と言い出しました。
 貝島は予想外の事態に「癇癪と狼狽の余り、もう少しで前後の分別もなく」怒号するところを、ベテランらしく自制して、沼倉を懲罰するのをやめました。
 この一件があってから、貝島は「沼倉という一少年が持って居る不思議な威力について、内心に深い驚愕の情を禁じ得なく」なります。

十返肇 編『谷崎潤一郎名作集』
「少年少女日本文学選集13」(あかね書房, 1956年)より

 貝島は「全級の生徒を慴伏(しょうふく)させて手足の如く使う」沼倉の秘密を、同じクラスに在籍する長男の啓太郎から聞き出しました。 
 啓太郎によると、「要するに、彼は勇気と、寛大と、義侠心とに富んだ少年であって、それが次第に彼をして級中の覇者たる位置につかしめたものである。(中略)実際沼倉は、『己は太閤秀吉になるんだ』と云って居るだけに、何となく度量の広い、人なつかしいところがあって、最初に彼を敵視した者でも、しまいにはと怡々(いい)として命令に応ずるようになる」というのです。

 貝島は「彼の勢力を善い方へ利用して、級全体の為めになるように導いてやろう」と考えて、ある日の放課後、沼倉を呼んでその統率力を褒めてやります。

 自分は二十年も学校の教師を勤めて居ながら、一級の生徒を自由に治めて行くだけの徳望と技倆とに於て、此の幼い一少年に及ばないのである。  
    自分ばかりか、総べての小学校の教員のうちで、よく餓鬼大将の沼倉以上に、生徒を感化し心服させ得る者があるだろうか。
 われわれ「学校の先生」たちは大きななりをして居ながら、沼倉のことを考えると忸怩(じくじ)たらざるを得ないではないか。われわれの生徒に対する威信と慈愛とが、沼倉に及ばない所以(ゆえん)のものは、つまりわれわれが子供のような無邪気な心になれないからなのだ。全く子供と同化して一緒になつて遊んでやろうと云う誠意がないからなのだ。だから我れ我れは、今後大いに沼倉を学ばなければならない。生徒から「恐い先生」として畏敬されるよりも、「面白いお友達」として気に入られるように努めなければならない

 こうして貝島は、これまでのように生徒を威圧して矯正しようとする「恐い先生」ではなく、「面白いお友達」として気に入られる方が、彼らの信頼を集めることができると思うようになります。

 貝島の「沼倉操縦策」は成功して、「彼が受け持ちの教室の風規は、気味の悪いほど改まって」しまいました。

 後に分かったところでは、なんと沼倉は「折々、懐から小さな閻魔帳を出して、ずっと室内を見廻しながら、ちょいとでも姿勢を崩して居る生徒があれば、忽ち見附け出して罰点を加えて居」たのでした。

 

■ 生徒自身による取り締まり!?

 この部分を読んだときに思い当たったのは、いわゆる「生徒自身による生徒管理」という方法が明治時代の中学校で行われていたことでした。

以下の記事をご参照下さい。
https://sf63fs.hatenablog.com/entry/2019/03/28/131914
坊っちゃん」に見る明治の中学校あれこれ コラム21 明治のトンデモ校則③

  作者の谷崎が東京府立第一中学校(府立一中、現在の都立日比谷高等学校)に在籍していた明治34~38年(1901~1905)の間、同校の校長であった勝浦鞆雄が、この「生徒間での取り締まり」の重要性を唱えて同校で実施していたほか、他の多くの中学校でも同様のことが行われていました。(斉藤俊彦『競争と管理の学校史ー明治後期中学校教育の展開』)

日比谷時代の府立一中(「東京府立第一中学校五十年史」)

 これは、級長(組長)に学級内生徒の監督、指揮、観察などの権限を与え、学級内の秩序維持を図ろうとしたものでした。
 作中で、沼倉が「小さな閻魔帳を出して、ずっと室内を見廻しながら、~忽ち見附け出して罰点を加えて」いるという描写は、多分に推測の域を出ませんが、谷崎自身が府立一中時代に実際に経験したことが作品に反映されてるのではないかとも思われるのですが、いかがでしょうか。

 

■ 「怖い先生」から「面白いお友達」へ

 この小さな王国が発表された大正7年(1918)頃、我が国の教育界は、明治以来の「知識注入型」、「画一的」、「管理主義」などの言葉で批判されてきたヘルバルト式の「旧教育」から「大正新教育」(大正自由教育とも)への転換期にありました。

 いわゆる大正自由主義(デモクラシー)運動を背景に、教育界には「新教育」と呼ばれる理論や実践が活発に導入されていました。
 「児童の個性の理解」が唱えられ、その「尊重」を唱える、いわゆる「個性尊重主義」が、教育界に広がっていった時期なのでした。

大正6年(1917)、 澤柳政太郎が新教育を施行する実験学校として創設した成城小学校と初期の児童・教員『成城学園五十年』(1967年)より

 我が国の教育界に、「教師本位主義」から「児童本位主義」への移行を促すような大きな流れが起こっていた時期であったと言うこともできます。 

  「怖い先生」から「面白いお友達」、すなわち明治期に支配的だったヘルバルト式の教育姿勢から大正期の「新教育」が掲げた「児童本意主義」へ、そして教育そのものを目的とする「教育者」から「生計の資」を目的とする「学校教師」へ。教師貝島から見出されるこの二重の変化と、当時実際に見られた学校教育の変化との間における符合を踏まえるならば、貝島の変化とはつまり当時の学校教育のパラダイムシフトを反映したものとして捉えることが出来る。(出木良輔「谷崎潤一郎小さな王国」論ー「新教育をめぐって」)

 一見すると児童生徒に迎合するかのように見える「『怖い先生』から『面白いお友達』へ」という貝島の発想の転換ではありますが、上述のような時代背景と教育思潮の変化があったことを知ると、違和感なく理解できるのではないでしょうか。
 

 

 

 

【参考・引用文献】  ※ 国立国会図書館デジタルライブラリー

 

十返肇 編『谷崎潤一郎名作集』 「少年少女日本文学選集 13」あかね書房, 1956年

成城学園五十周年史編集員会『成城学園五十年』1967年

斉藤俊彦『競争と管理の学校史ー明治後期中学校教育の展開』東京大学出版会、1995年

小針誠『教育と子どもの社会史』梓出版社、2007年
出木良輔「谷崎潤一郎小さな王国』論 ー新教育をめぐってー」『国文学攷219号』広島大学国語国文学会、2013年