名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

徳富健次郎 『思出の記』①

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 徳冨蘆花(健次郎)  明治元年~昭和2年(1868~1927) 小説家。熊本の生まれ。蘇峰の弟。同志社中退後、民友社の記者となり、小説「不如帰」、随筆小品集「自然と人生」を発表して作家的地位を確立。のちトルストイに心酔、晩年はキリスト者として求道的生涯を送った。他に「思出の記」「みみずのたはこと」「黒潮」「富士」など。 

 「思出の記」は自伝的要素の強い、教養小説といわれています。

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■ 初期の小学校
    明治元年生まれの健次郎が小学校に入学したのは学制発布(明治5年・1872)直後の小学校です。

     僕の家から六七町田の中にちょこりんと一つ立った茅葺きのがそれで、田舎のことだからまあ寺子屋にちと毛のはえたくらいのもの。文庫硯に、それでもさすが石盤だけはあって、夏の盛りには朝手習いといって暗いうちに蝋燭をつけて手習いをする。(中略)
最初は学校も上下各十級に別れていたのが、後には六級になり、最後には上中下級に分かれ、同じ試験を何度もして、同じような卒業証書を何枚ももらったことを覚えている。  (中略)
    今から思うと教員先生(実に好人物で、近眼で、煙草好きで、僕を非常にかわいがって、そうして誤謬ばかり教うる先生だった。
(中略)
    その結果、今まで覚えのない罰も受ける。いよいよやけになる。果てはその年の冬の試験には生まれて初めて落第というものをした。才童の末路実にかくの如しである。(上の五)

 

 ○石盤(石板) 

   

 ハンディタイプの黒板のようなもの。スレートという板状の粘板岩で、壊れないように木枠がついており、ろう石をペンシル状に加工した石筆で文字や数字を書いては布切れなどで消し、何度でも繰り返し使えました。18世紀末に欧米の学校で使われ始めたものを、明治5年に師範学校教師M. M. スコットがアメリカから取り寄せ、初等教育用に用いる方法を伝授したのが、日本の教育現場に導入された最初です。

(「モノが語る明治教育維新」・第21回―明治期の花形筆記具・石盤 、https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/mono21

 

      佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』には「ザラ紙が安い値段で大量に出回り、鉛筆が大衆化する昭和初期まで、この石盤は全国の学校現場に普及していた」とあります。

 

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○上等・下等小学校 

    明治5年(1872)の「学制」によれば、尋常小学校は上下二等にわかれ、下等小学は6歳から9歳まで4年間、上等小学は10歳から13歳まで4年間学ぶと定められていました。
 各年は二級に分かれているので、1年前期が第八級、後期が第七級と順に数が減り、第一級卒業が下等小学卒業となるわけです
 ですから、「上下各十級」というのは「八級」の誤りではないかと思われます。

 「六級」というのは、 学制から小学校令までの小学校の変遷をまとめた文部科学省の表と比較しても、どうも納得がいきません。
   「最後には上中下級」というのは、下の表にはありませんが、明治14年(1881)の「小学教則綱領」にある「三年の初等科、三年の中等科、二年の高等科」のことでしょうか。
 いずれにせよ、明治19年(1886)の小学校令公布までの制度はめまぐるしいほどの変遷を見せていたことがうかがえる記述となっています。
  

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(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo6/gijiroku/attach/1382316.htm)

○同じような卒業証書を何枚も

 卒業証書は各学校段階で一枚というのが現代の常識です。ところが、その頃は小学校でも半年ごとに進級試験を設け、各段階ごとに卒業証書を出していたのでした。

 小学校から中学校、そして大学に至るまで全ての段階で、進級や卒業を試験の成績で決定していく方式がとられていた。たとえば、各級それぞれ半年で修了する下等小学および上等小学では、「進級試験」が半年ごとに実施され、さらに全級を修了した時点で、卒業試験にあたる「大試験」が課されることになっていた。これを試験の回数で見れば、生徒は下等小学で第八級から第一級までの八回、上等小学でも同様に八回、計十六回の関門を通過し、さらに上等・下等小学の卒業時にも計二回の「大試験」(卒業試験)に合格しなければならなかった。(斉藤利彦『試験と競争の学校史』講談社学術文庫

 

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(「鵠沼を巡る千一話」、https://kurobe56.net/ks/ks0110.htm

 とにかく、国は理想を高く掲げた訳でしょうが、学校へ行く必要を余り理解していない庶民が、こんなに厳しい試験制度では、就学率が低迷するのも当然のことでした。
 

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 (進級・卒業を規定した「学制」第48~50章、国立国会図書館デジタルコレクションより)

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 ちなみに、夏目漱石は下等小学の八級と七級を半年で終えて、続く六級、五級も半年で終えたことはよく知られています。成績優秀な生徒には「特別進級」の制度も設けられていました。

 自伝的要素の強い作品『道草』には次のような記述があります。優秀な生徒には、証書の他に賞状や褒美の品が与えられていたことが分かります。

 また、主人公とその細君との会話から、(金之助と鏡子の齢差は10歳)、小学校制度の変化が急であったこともうかがえます。

小学校の卒業証書まで入れてある」
 その小学校の名は時によって変っていた。一番古いものには第一大学区第五中学区第八番小学などという朱印が押してあった。
「何ですかそれは」
「何だか己も忘れてしまった」
「よっぽど古いものね」
 証書のうちには賞状も二、三枚まじっていた。のぼり竜とくだり竜で丸い輪廓りんかくを取った真中に、甲科と書いたり乙科と書いたりしてある下に、いつも筆墨紙と横に断ってあった。
書物ももらった事があるんだがな」
 彼は『勧善訓蒙かんぜんくんもう』だの『輿地誌略よちしりゃく』だのを抱いて喜びの余り飛んでうちへ帰った昔を思い出した。御褒美ごほうびをもらう前の晩夢に見たあおい竜と白い虎の事も思い出した。。(三十一)

 

    細君にはこの古臭い免状がなおの事珍らしかった。夫の一旦いったん下へ置いたのをまた取り上げて、一枚々々鄭寧ていねい剥繰はぐって見た
変ですわね。下等小学第五級だの六級だのって。そんなものがあったんでしょうか」
「あったんだね」(三十二)

 

# 「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」に続く二つ目のブログです。

 今回は、作品や校種を限定せず、明治・大正の教育の有様を描いた作品を見つけては、気ままに書いていこうというつもりでスタートしました。

 前回と違い、書きためた原稿がありませんので、ぼちぼち書いていきます。

 

#  この項 つづく