名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

徳富健次郎  『思出の記』②

 ■初期の小学校(つづき)

○落第
 先の『試験と競争の学校史』によれば、落第の基準は総点数の三分の二程度という厳しい規則を設けていた府県が多かったということです。
 また、落第者の比率も府県、地方によって大きく差があるものの、低くて10%程度、高いところでは34%という明治14年青森県の実態が紹介されています。
   小学校の低学年で「落第」経験というのは、辛いですね。
    もちろん、こうした初期の厳しい方式は批判が強く、現在の「学年主義」(みんな一斉に進級・卒業)という方式に変わっていきました。

 明治33年(1900)の改正小学校令において、厳格な試験・進級制度が「児童の心身に悪影響を及ぼす」と文部省は認めています。

 

寺子屋にちと毛のはえたくらいの

 「学制」が公布されたからと言っても、当時は「ヒト・モノ・カネ」のすべてが不足していました。

 当然、既にあるものを利用せざるを得ませんでした。 

 まずは建物から。文部科学省「学制百年史」には次のように述べられています。
   
小学校の設置状況
 学制の実施によって全国に多数の小学校が設立されたが、その多くは寺子屋・私塾・郷学校などの庶民教育機関を母体として成立した。しかしまた藩校や藩校と同類の武家教育機関を母体として成立したものもあり、ことに小規模の藩校は小学校の母体となった場合が多かった。(中略)
 学制発布直後における小学校は、従来の寺子屋・私塾その他の教育施設を改造したものであって、それらと大差のない構成のものであったが、その後しだいに小学校校舎の新築が進み、(後略、http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317590.htm

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 (「江戸時代を学ぶ」ー寺子屋の実態ー、https://kijidasu.com/?p=45760

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大阪府茨田郡三井村本厳寺-現在の寝屋川市-にあった三井小学校、明治10~20年代ではないでしょうか。ghttp://www2.city.neyagawa.osaka.jp/school/e/kita/gakkou-gaiyou-enkaku2016.html)

 

○誤謬(うそ)ばかり教うる先生

 次に先生のことですが、これもやはり新しい制度に対応できる人材が確保できるわけがありません。
  「学制」では「小学教員ハ男女ヲ論セス年齢二十歳以上ニシテ師範学校卒業免状或ハ中学免状ヲ得シモノニ非サレハ其任ニ当ルヿヲ許サス」(第四十章)と規定してありましたが、初の師範学校が同年に設置されたわけですから、この規定は将来に向けての「努力目標」といったところでしょうか。
   現実には、寺子屋の師匠、僧侶、神官、そして禄を失った士族といった人たちが、初期の先生でした。中には、愛知県のように士族が約半分というところもありました。

 それらの人たちの学修歴のほとんどは漢学でした。士族の場合はもちろん藩校において、それ以外の人たちは各地の漢学塾での学修歴を持っていました。

 「思出の記」の増見先生の素姓は分かりませんが、新しい教科目の内容に対応できるような人ではなかったことだけは確かです。

 

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(初期の授業風景、掛け図を使って授業する様子、
   「小学入門教授図解」、国立教育政策研究所教育図書館
    https://www.nier.go.jp/library/shiryoannai/shiryo1.html

 また、教師の給料も安く、地方では月額三円前後というところもありました。(明治8年頃『兵庫県教育史』)

    生活が苦しいことから、教師の交代が多かったといいます。

 

○貧乏人は到底本が買えぬ

 引用文で省略した中に次のような箇所があります。

 単語編地理初歩から読み初めて、読本も年に二三度は変わるのである貧乏人は到底本が買えぬというので退学したことがある。

 教科書が買えないというわけですね。教科書は無償ではありませんでした。

 

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(「小学書籍一覧表」の一部、明治8年文部省第三年報より。結構な値段が付いています)

 教科書代だけではなく、小学校でも授業料を徴収していたのです。

 「学制百年史」は背景をこう説明しています。

    小学校の設立・維持には多額の経費を必要とし、学制の実施に当たってこれが重大な問題であった。ところがそのための国庫補助金がきわめて少額であり、大部分を「民費」により、地方住民の負担であった(中略)
    すなわち、受益者負担の原則がとられている。そのため大部分の経費は授業料でまかなうこととし、高額の授業料を徴収することとした。(中略)しかし学制が定めた月額五〇銭は、当時にあってはきわめて高額であり、この規定を実施することはほとんど不可能であった。実情としては、少額の授業料を徴収し、貧民に対しては無料とする場合も多かった。

 摂津国多井畑村(現在の神戸市)にあった多井畑小学校では、明治10年頃授業料を一人月に十銭としていました。それでも生徒数は年々減少していきました。その原因の一つはこの授業料であったと山田正雄著『教育史夜話〈兵庫県〉』は述べています。

 

# 次回以降は漢学塾について