名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。

徳富健次郎 『思出の記』③

■明治前期の漢学塾 ー西山塾ー 

 明治12年(1879)、12歳の慎太郎は母とともに故郷を離れて城下(熊本と思われます)に出て、中西西山(なかにしせいざん)の家塾に入ることになりました。

 

    西山塾主中西西山先生というのは、もと藩の軽い士(さむらい)の二男で、伯父と同門であったが、維新後は別に役付きもせず、早くから西山塾を開いて子弟の教授をしておられた。(四)

 塾の課程は漢文が十の八九を占め、残り一二分はそのころ新版の翻訳書で填(うず)めてあったが、やはり醇乎たる漢学者であった。(五)

 

 塾は旧い百姓家をひき直したもので、教室(きょうじょう)も寝室も食堂ももとより別にあろうはずなく、畳のやや清潔(きれい)なところが教場、きたないところが食堂、机のない所すなわち寝室(ねま)だ。それ時間だ、会だというと、あるいは障子の陰より、あるいは窓の下より、あるいは薄暗いすみのほうより、塾生は続々寄って来て、ぐるりと輪を作ってーそれが教場。さもない時は、ここでは声張り上げて通鑑(つがん)を読む。かしこでは黙って戦国策に不審紙つける。塾頭が初学生に素読を教うるこっちでは、中学生が三四人で外史の奪読(とりよみ)をしている。(中略)知育といっては漢字を知るのほかほとんど幾何(いくばく)もなかったが、その代わり辛抱力を養う意育と、筋骨を鍛う体育は、まず遺憾なく施された。(五)

 

○漢学塾とは
 『日本近代教育史事典』(平凡社)には次のような説明があります。

 江戸時代から明治初期に、漢学を主としながら、教師の自宅を教場として開かれた教育機関。漢学塾には、家塾と私塾があり、家塾は藩侯または幕府の意を受けて 藩士や旗本の子弟を対象とし、私塾は儒者が任意にいずれかの学派を標榜して一般の子弟を迎えた。漢学塾は寺子屋よりは高度の教育を施すのが普通であり、近世の教育機関として発達した。(中略)二松学舎のように漢学塾の伝統を現在まで守っているものもある。

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 明治36年頃の二松学舎https://www.daiwahouse.co.jp/mansion/premistclub/premist_times/vol16/part1.html#p3

 明治の初めに、漢学塾が全国にどの程度あったかは不明ですが、唐沢富太郎『学生の歴史』には、「弘化、慶応頃に数的に頂点となり、それ以後漸次衰微の徴をなし、明治に入るや、その数も減少し、また塾生もよほど変化した」とあります。

    下は日本教育史資料』から兵庫県にあった私塾の一覧を載せた部分です。

 この『日本教育史資料』は、明治16年(1883)に文部省が各府県と旧藩主家に旧藩時代の教育資料の調査を依頼してまとめたものです。

 その多くが幕末期に開かれた漢学塾であり、ほとんどが明治初年代には閉塾していたことがわかります。(明治16年時点で一つだけ継続中の塾があり、学科が和漢学筆道算術となっています)

  

 

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               (国立国会図書館デジタルコレクション)

 

○漢学塾の実態

   『学生の歴史』には『思出の記』の西山塾のような実態があったとして、以下のように記されています。
  

 時代に取り残されたこの頃になると、一般に学塾は名のみで、尽く学者の住宅をこれに充て、至る所不潔であり、屋根には草が生え、室内には塵芥が山積し、起臥飲食も乱暴で定まらず、二時三時まであるいは徹也で勉強することもあり、また塾中に飲食物を取り寄せ、時をきらわず飽食するという不規律なものとなった。

    夏目漱石(金之助)は明治14年(1881)に府立第一中学を中退して、創立五年目の二松学舎に入り、一年間在籍しています。
 後にその頃の二松学舎の様子を次のように述べています。

  

 学舎の如きは実に不完全なもので、講堂などの汚なさと来たら今の人には迚(とて)も想像出来ない程だった。真黒になった腸(はらわた)の出た畳が敷いてあって机などは更にない。其処(そこ)へ順序もなく坐り込んで講義を聞くのであったが、輪講の時などは恰度(ちょうど)カルタでも取る様な工合にしてやったものである。輪講の順番を定めるには、竹筒の中へ細長い札の入って居るのを振って、生徒は其中から一本宛抜いてそれに書いてある番号で定(き)めたものであるが、(中略)
 講義は朝の六時か七時頃から始めるので、往昔(むかし)の寺子屋を其儘(そのまま)、学校らしい処などはちっともなかったが、其頃は又寄宿料等も極めて廉(やす)く――僕は家から通って居たけれど――慥(たし)か一カ月二円位だったと覚えて居る。 (『落第』)
    

 熊本も東京も漢学塾の実態は似たようなものだったと分かります。

 

○教育内容  ー教科書ー

 

     西山塾では何をどのようにして学んだのでしょうか。
 作中にはテキストとして、次の書物の名があがっています。

「通鑑」資治通鑑:しじつがん)北宋司馬光による編年体史書
 「戦国策」周の安王 から秦の始皇帝にいたるまでの約 250年間の縦横家の権謀術策を 12ヵ国に分けて書いた書。
 日本外史  江戸時代後期の歴史書。 22巻 12冊。頼山陽が 200部余の書を参考にし,20年余の歳月を経て文政 10 (1827) 年に松平定信に献じた。

 

  

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                (国立国会図書館デジタルコレクション)
 

 明治10年(1877)に漢学者・三島中洲が東京・麹町に創立した二松学舎では三学年制をとっていました。(各学年は第三課から第一課までの三段階)
 ここでは下級から順番に「日本外史」「十八史略」「小学」「蒙求」「文章規範」が使われました。

 次の段階では「唐詩選」「孟子」「史記」「論語」「唐宋八家文」「前後漢書」などというテキストが使われていました。
 江戸時代以来の儒教の経典(四書五経以外に日本の歴史書を使うというのが、明治初期の一般的な傾向でした。