名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。

徳富健次郎  『思出の記』⑤

■民権私塾の時代
  西山塾の閉塾後、慎太郎は私立育英学舎に進学し、自由民権運動の理論的指導者・駒井哲太郎(馬場辰猪・ばばたついがモデルとする説もあります)の薫陶の下で英語を学び始めます。
   この育英学舎というのは、作者・徳富健次郎(蘆花)の兄猪一郎(蘇峰)同志社を中退して間もなく、福沢諭吉慶応義塾に張り合って、故郷の熊本で開いた民権私塾の大江義塾をモデルにしたものです。作者もここで学んでいます。

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(徳富家旧宅、大江義塾跡、http://yumeko2.otemo-yan.net/e700151.html

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(24歳当時の徳富猪一郎、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia

 

   駒井先生の入来とともに、育英学舎の面目はすっかり一変した。
   まず学課があらたまる。論孟(りんもう)が立志編品行論になり、史記日本外史が欧州文明史になり、学課の一隅におぼつかなき生命を保っていた英学が、大部分を占領してきた。駒井先生の英学は正則ではなかったが、とにかく僕らは先生の引導の下に、綴書(スペルリング)、第一読本、それから文典の少し、すぐパアレーの万国史、スウイントン万国史、ギゾオの文明史と英学の道を大またに進んでいった。それから漢文詩会が廃せられて、演説文章会が起こり、老儒先生が四角四面な修身談は、駒井先生のことに愛誦しておられたプルターク英雄伝の講演になるというよう、ずいぶん思い切った改革で、(後略)

 

○漢学から洋学へ
  「論孟(りんもう)が立志編品行論になり」
 テキストがこれまでの『論語』や『孟子』から、『西国立志編(イギリスの著述家 S.スマイルズの『自助論』を中村正直が翻訳したもので、福沢諭吉の『学問のすゝめ』と並んで当時の二大啓蒙書)や『西洋品行論』中村正直訳)に変わりました。
 そのほかに名前が挙がっているものも、当時の定番ともいえるテキスト類でした。
  中でも、『パアレーの万国史(Peter Parley’s Universal History, on the basis of geography, Ivison, Blakeman, Taylor & Co,1870)は、明治初期から中期にかけて使われたさまざまな英書の中でも抜群に人気がありました。福澤諭吉が日本に持ち込み、福澤塾(後の慶応義塾)で使ったことから、その教え子たちを通して全国的に広がったと言われています。


  

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国立国会図書館デジタルコレクション)

 

○大江義塾

 自由民権運動を推進するのための啓蒙・教育機関としては、板垣退助らの開いた土佐の立志学舎が有名ですが、当時は各地に政治結社が私塾を興していました。一般に「民権私塾」と呼ばれますが、作中では「機関の学校」と表現しています。

 兄・猪一郎は学生騒動に巻き込まれて同志社英学校を卒業目前に中退後、明治14年(1881)帰郷して自由民権運動に参加します。

 翌明治15年(1882)大江村の自宅内に父・一敬とともに私塾「大江義塾」を創設し、明治19年(1886)の閉塾まで英学、歴史、政治学、経済学などを教えました。その門下には宮崎滔天や人見一太郎らがいます。

 なお、当時熊本には、相愛社系の大江義塾の他に学校党の済々黌(せいせいこう)、実学党の共立学舎と、三派それぞれに機関の学校を設立していました。

 

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宮崎滔天熊本県出身、1871~1922:明治4~大正11年、日本で孫文達を支援して、辛亥革命を支えた革命家)

 

○義塾とは

 「義塾」という名称をもつ学校は、言うまでもなく「慶應義塾」が有名ですが、この「義塾」にはどういう意味合いがあるのでしょうか。

 天野郁夫『大学の誕生(上)』(中公新書)は次のように説明しています。

 

 慶応4年(1868)芝新銭座への移転を機に決められたとされる校名の「義塾」とは、「共同結社の意味を表したものであって、西洋の私立学校の制度に倣い、一つの「会社」(ソサイテイ)を立て、これに来学入社するものを社中と称し、社中同志者の協力を以てこれを維持するの仕組みとした」(『慶應義塾七十五年史』)のだという。この教員だけでなく学生・卒業者までを構成員とする、ひとつの「会社」・結社としての学校という発想は、これまで見てきた他の私学に見られぬ独自のものであり、現在に至るまで慶應義塾の重要な特徴となっている。

 

 青森県弘前市にある東奥義塾は、設立の経緯こそ慶應義塾とはずいぶん異なりますが、創立者の菊池九郎が慶應義塾に学んだことから、それにならって名付けられたということです。

 

私塾の衰退とその理由

 『西国立志編』で知られる中村敬宇(正直)の同人社、福澤諭吉慶應義塾近藤真琴の攻玉塾(攻玉社)は、明治の「三大義塾」と呼ばれた時期がありました。

 しかし、同人社は明治20年代にその短い歴史を閉じてしまいます。当校が不振に陥り、やがて潰れることになったのは、明治16年(1883)12月28日、大規模な徴兵令改正が行われたからだと言われています。

 この徴兵令改正は、官立(国立)と府県立学校の生徒と卒業生には猶予短期服役といった特典を与え、私立学校にはなんの配慮もしなかったことで知られています。

 徴兵令改正から1ヶ月後には、慶應義塾では100名を超える退学者が出ました。明治15年(1882)年に設されたばかりの東京専門学校(のちの早稲田大学)でも、在籍者300名中60名が退学するという事態が生じました。

 一方、徴集猶予などの特典が認められた官立府県立学校は大盛況となりました。それまで志願者の少なかった中学校や師範学校では急激な増加を見せました。

 官尊民卑という言葉がありますが、当時の文部省を中心とした政府内の「官立優遇・私立冷遇」意識は相当に根強いものがあったということでしょうか。