名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

大庭みな子 『津田梅子』① ~私塾創設へ~

モリス婦人宛の手紙
               一八九九年十二月二十八日
 昨年お話ししたように、華族女学校を今年度が終わったら辞めるつもりです。どんなにこの時を待ち望んでいたか、わかって下さると思います。幼い貴族の子女を教えるという名誉はあるにしても、・・・・・私の計画はより高等な教育、とくに英語で政府の英語教育者の資格試験に備えようというものです。
 今のところ、私立校でこの試験に備えた教育をするところは皆無で、女性で試験を受ける人はほとんどいません。
 国立の女子師範学校は大変良い教科を教え、教員養成をしていますが(英語はない)、実際に職場を得られる人の数は限られていますし、卒業後の義務や制約があるので、問題があるのです。私は女子の高等教育に全力を尽くしたいので、どうしても自分の学校を持ちたいのです。(中略)
 とにかく、仕事始めるための建物と敷地を手に入れるには三千ドルから四千ドルかかります。来年の夏までにどうしようかと頭を悩ませています。
 この計画にすっかり頭のいっぱいな私は、どうしたらこの資金を集められるかあなたにご相談すれば、助けていただけるのではないかとお願いの手紙を書いている次第です。
(後略) (『津田梅子文書』より)

 梅子はついに私塾創設の機は熟したと判断したのだ。思えば長い歳月であった。華族女学校で教え始めて以来、十数年の歳月が流れていたが、梅子の内部世界では恐らく物心ついて以来、いや七歳のとき日本女性の未来のため、自分は外国に学ばねばならぬとその幼い魂に刻みつけられて以来の、培われ、成熟し、ついに発酵し始めた想念だったに違いない。

 

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   ここまでの津田梅子の足跡を簡単にまとめてみました。
 

 

    元治元年(1864)旧幕臣津田仙の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれる。
    明治4年(1871)5人の女子留学生のうち最年少(7歳)でアメリカに留学、岩倉使節団とともに横浜を出発する。

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    ジョージタウンで日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン 夫妻の家に預けられる。英語、ピアノなどを学びはじめ、市内のコレジエト・インスティチュートへ通う。
    明治11年1878年)コレジエト校を卒業し、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学。ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ。
    明治15年(1882年)7月に卒業。同年11月には日本へ帰国する。 
    明治18年(1885年)華族女学校で英語教師として教え始める。
    明治22年(1889年)7月に再び渡米。フィラデルフィア郊外のブリンマー・カレッジ  で生物学を専攻する。
  

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(ブリンマー・カレッジ在籍時)

    明治25年(1892年)8月帰国。再び華族女学校に勤める。
    明治27年(1894年)明治女学院でも講師を務める。
    明治31年(1898年)5月、女子高等師範学校教授を兼任する。
    明治33年(1900年)に官職を辞して、父の仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、同年7月に「女子英学塾」の設立願を東京府知事に提出。(ウィキペディア参照)

 

 

#     「明治の初めに、わずか七歳でアメリカへ!」

    このことは前から何となく知っていましたが、幼い娘に留学させようと決意した父・津田仙の経歴を知って、少しは理解できる部分もありました。

    旧幕臣の仙は早くから蘭学、英学を学び、外国奉行の通訳も経験しています。

   慶応三年(1867)には福沢諭吉らと幕府の軍艦引き取り団の通訳として、渡米しました。

    我が国の近代化には英語力を基礎とする洋学が必要ということを、痛切に感じ取ったのだと思われます。

    まあ、しかし、いくら開明的・進歩的な思想の持ち主とはいえ、この時代に幼い娘を渡航させるとなると、並大抵の決断力ではありませんね‼️