名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

正宗白鳥『入江のほとり』① 代用教員

  『入江のほとり』太陽』大正4年4月)の舞台は作者正宗白鳥明治12年~昭和37年:1879~ 1962年)の故郷・岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)です。

    白鳥は十人兄弟の長男でしたが、作品には主要な登場人物として、弟三名、妹一名、そして白鳥自身を元にしたと思われる人物(栄一)が出てきます。

    この作品は一種の家族小説であり、四男で小学校の代用教員をしている辰男という人物を中心にして話が展開します。

 

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 隣村まで来ている電灯が、いよいよ月末にはこの村へも引かれることに極ったという噂が誰かの口から出て、一村の使用数や石油との経費の相違などが話の種になっていた。(中略)
    が、辰男はこんな話にすこしも心を唆(そそ)られないで、例のとおり黙々としていたが、ただひそかにイルミネーションという洋語の綴りや訳語を考えこんだ。そして、食事が終ると、すぐに二階へ上って、自分のテーブルに寄って、しきりに英和辞書の頁をめくった。かの字を索(さぐ)り当てるまでにはよほどの時間を費した。
   「ああこれか」と独言を言って、捜し当てた英字の綴りを記憶に深く刻んだ。ついでにスヰッチとかタングステンとかいう文字を捜したが、それはついに見つからなかった。
    広い机の上には、小学校の教師用の教科書が二三冊あって、その他には「英語世界」や英文の世界歴史や、英文典など、英語研究の書籍が乱雑に置かれている。洋紙のノートブックも手許に備えられている。彼れは夕方学校から帰ると、夜の更けるまで、めったに机のそばを離れないで、英語の独学に耽けるか、考えごとに沈んで、四年五年の月日を送ってきた。手足が冷えると二階か階下かの炬燵(こたつ)の空いた座を見つけて、そっと温まりに行くが、かつて家族に向って話をしかけたことがなかった。(一)

 

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   「辰は英語を勉強してどうするつもりなのだ。目的があるのかい」冬枯の山々を見わたしていた栄一はふと弟を顧みて訊いた。

    ブラックバードの後を目送しながら、「飛ぶ」に相当する動詞を案じていた辰男は、どんよりした目を瞬きさせた。すぐには返事ができなかった。
   「中学教師の検定試験でも受けるつもりなのか。……英語はおもしろいのかい」と、兄は畳みかけて訊いた。
   「おもしろうないこともない……」辰男はやがて曖昧な返事をしたが、自分自身でもおもしろいともおもしろくないとも感じたことはないのだった。
   「独学で何年やったって検定試験なんか受けらりゃしないぜ。ほかの学問とは違って語学は多少教師について稽古しなければ、役に立たないね」
   「………」辰男は黙って目を伏せた。
   「それよりゃそれだけの熱心で小学教員の試験課目を勉強して、早く正教員の資格を取った方がいいじゃないか。三十近い年齢でそれっぱかりの月給じゃしかたがないね」
   「………」足許で椚(くぬぎ)の朽葉の風に翻えっているのが辰男の目についていた。いやに侘しい気持になった。
   「今お前の書いた英文をちょっと見たが、まるでむちゃくちゃでちっとも意味が通っていないよ。あれじゃいろんな字を並べてるのにすぎないね。三年も五年も一生懸命で頭を使って、あんなことをやってるのは愚の極だよ。発音の方はなおさら間違いだらけだろう。独案内の仮名なんか当てにしていちゃだめだぜ」
   「………」
   「娯楽(なぐさみ)にやるのなら何でもいいわけだが、それにしても、和歌とか発句ほっくとか田舎にいてもやれて、下手へたなら下手なりに人に見せられるようなものをやった方がおもしろかろうじゃないか。他人にはまるで分らない英文を作ったって何にもならんと思うが、お前はあれが他人に通用するとでも思ってるのかい」
    そう言った栄一の語勢は鋭かった。弟の愚を憐あわれむよりも罵り嘲るような調子であった。
 (六) 

    教育史的にはこの作品から、「代用教員」と「独学」という二つのテーマが見えてきます。順に見ていきたいと思います。

 

■ 正教員ー准教員ー代用教員
 

 代用教員。現在では死語に近いこの言葉ですので、辞書的に意味を確認しておきますと、「戦前の小学校等に存在していた、教員資格を持たない教員」(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)とあります。
    次に、明治末から大正時代にかけての小学校教員の実態について、陣内靖彦『日本の教員社会』(東洋館出版社)によって資格、給料の順に見ていきます。
 

尋常小学校教員の資格別割合:大正2年(1913)
 正教員(70.0%)  准教員(13.2%)  代用教員(16.7%)

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    明治末年には20%を超えていた代用教員の比率は、大正期に入りやや減ったものの、大正期を通じて15%前後を維持していました。
 
 こうした実態の背景を、同書は次のように説明しています。

 小学校教育の膨張は、必然的に教員数の膨張をもたらした。当局は「師範教育令」(1897年)によって師範学校の生徒定員を増やしたり、「師範学校規程」(1907)によって、新たに中学校、高等女学校卒を対象とする本科第二部を設けて、尋常小学校の正格教員の確保に努力してきた。その結果、正教員の絶対数は1895年(明治28)の3万人から、1908年(明治41)には二倍の六万人、1913年(大正2)には三倍の9万人にまで増えた。

 しかし、この間小学校の学級数自体の増加があるため、正教員は慢性的に不足が続いていた。この不足分は准教員と代用教員によって賄われた。その数は最も多いとき(明治末期)で、准教員2万人、代用教員3万人(全教員中に占める割合は合わせて約40%)にものぼった。こうした、正教員ー准教員ー代用教員、それに加えて、この時期特に増加する女教員という教員構成は教員数の増大に伴って教員界の内部に階層化をもたらすことになったのである。

 

 明治・大正から昭和戦前までの小学校教員養成は師範学校で行われていたのではというのが普通の認識でしょう。

 ところが、小学校教員免許状を取得した教員の実態は、そのような認識とは大幅に違っていました。

 小学校教員免許状取得者のうち、師範学校を卒業した人は3割程度で、残り7割はそれ以外の学歴を持つ者だったのです。
 中でも代用教員学歴は現在の高校にあたる旧制中学校の卒業者が多く、地方では中学卒業程度にあたる高等小学校の卒業者も珍しくはなかったということです。

 本作品の辰男については、学歴をうかがわせるような表現はありませんが、当家が相当な資産のある家として描かれていますから、中学校卒業とみていいのではないでしょうか。

 

 

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備前市穂浪の生家跡にある碑には『入江のほとり』の一文が刻まれています。https://blogs.yahoo.co.jp/rolly7440/34085472.html

 

# 20代後半の頃だったと思いますが、新潮社の『正宗白鳥全集』を買ったり、白鳥生家跡を訪れたことがありました。

 不思議と岡山県広島県、この二つの県出身の作家にご縁がありました。

 正宗白鳥木山捷平岡山県)。井伏鱒二阿川弘之広島県)。この方たちについては、一応全集(自選全集も含め)を買って読みました。(白鳥のは未読の方が多いかも)