小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

正宗白鳥『入江のほとり』② 代用教員その2

 「辰は英語を勉強してどうするつもりなのだ。目的があるのかい」冬枯の山々を見わたしていた栄一はふと弟を顧みて訊いた。

    ブラックバードの後を目送しながら、「飛ぶ」に相当する動詞を案じていた辰男は、どんよりした目を瞬きさせた。すぐには返事ができなかった。
 「中学教師の検定試験でも受けるつもりなのか。……英語はおもしろいのかい」と、兄は畳みかけて訊いた。
 「おもしろうないこともない……」辰男はやがて曖昧な返事をしたが、自分自身でもおもしろいともおもしろくないとも感じたことはないのだった。
 「独学で何年やったって検定試験なんか受けらりゃしないぜ。ほかの学問とは違って語学は多少教師について稽古しなければ、役に立たないね」
 「………」辰男は黙って目を伏せた。
 「それよりゃそれだけの熱心で小学教員の試験課目を勉強して、早く正教員の資格を取った方がいいじゃないか。三十近い年齢でそれっぱかりの月給じゃしかたがないね」
 「………」足許で椚(くぬぎ)の朽葉の風に翻えっているのが辰男の目についていた。いやに侘しい気持になった。
 「今お前の書いた英文をちょっと見たが、まるでむちゃくちゃでちっとも意味が通っていないよ。あれじゃいろんな字を並べてるのにすぎないね。三年も五年も一生懸命で頭を使って、あんなことをやってるのは愚の極だよ。発音の方はなおさら間違いだらけだろう。独案内の仮名なんか当てにしていちゃだめだぜ」(中略)
    そう言った栄一の語勢は鋭かった。弟の愚を憐れむよりも罵り嘲るような調子であった。

(六)*再掲

 

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(大正期の卒業写真・北海道松前町松城尋常高等小学校、前列の先生のうち若い人は詰襟の学生服ですね!https://syakaikasyasin.sakura.ne.jp/syakai/mukasi_shool_syakai.html)

 

 ■ 給与の実態

 長男の栄一が辰男に向かって「それよりゃそれだけの熱心で小学教員の試験課目を勉強して、早く正教員の資格を取った方がいいじゃないか。三十近い年齢でそれっぱかりの月給じゃしかたがないね」と言っています。
 作品の時代背景は大正の初め頃と思われますが、その当時の小学校の先生の給与、待遇はどうなっていたのでしょうか。
 給与支給の主体は昭和15年(1940)までは都道府県ではなく、当該学校の設置者(市町村)でした。
 国や府県の一応の基準はあっても、市町村の財政状態いかんでは、教員の給与が低く抑えられてしまうことがよくありました。
 

 明治末から大正初期の資格別の初任給(平均)です。
  

 師範学校出身者の本科正教員 17~20円
                         准教員   約11円
           代用教員    9円 
    

 なんと、本科正教員でも、中学校出の判任官(下級官吏)の初任給よりも下でした。
 これが代用教員ともなると、銀行や会社の給仕・臨時雇あるいは日給50銭の労働者並みの待遇でした。(陣内靖彦『日本の教員社会』)
   

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(「大阪府学事関係職員録」(大正2年:1913)より。代用教員の月俸にご注目ください)

 

■   『田舎教師』(田山花袋)の主人公も

 郁治の父親は郡視学であった。(中略)
 家が貧しく、とうてい東京に遊学などのできぬことが清三にもだんだん意識されてきたので、遊んでいてもしかたがないから、当分小学校にでも出たほうがいいという話になった。今度月給十一円でいよいよ羽生在の弥勒(みろく)の小学校に出ることになったのは、まったく郁治の父親の尽力の結果である。

 時代は日露戦争の少し前あたり。中学校を卒業したものの家が貧しいために進学がかなわず、友人の父の紹介で小学校の代用教員となる青年・林清三の悲劇を描いた小説です。

  

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(明治34年‐1901‐埼玉県立熊谷中学校第2回卒業記念写真

この小林秀三氏が「田舎教師」のモデルです。

坊っちゃん』のモデルとも言われる弘中又一氏も数学教員として在籍していました。https://www.sankei.com/life/news/180325/lif1803250025-n1.html

 

■ 検定試験

 引用文中に栄一が「中学教師の検定試験でも受けるつもりなのか。……英語はおもしろいのかい」というところがあります。
 これは「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」のことで、通称「文検」(ぶんけん)と言いました。たいへんな難関で、明治三十五年(一九○二)前後では全教科を通じての合格率が10%前後であったということです。
 辰男にとっては現実的ではないと思ったのか、続けて「小学教員の試験課目を勉強して、早く正教員の資格を取った方がいいじゃないか。」とも言っています。
 これが明治33年(1900)の「小学校令施行規則」で定められ、各府県ごとに実施されていた「小学校教員検定試験」でした。
 師範学校卒業以外で小学校教員免許状を得る主な方法はこの試験に合格することでした。
    天野郁夫『学歴の社会史』は次のように説明しています。

 

 師範学校卒業の学歴をもっていれば、最高の資格である「小学校本科正教員」、師範学校講習科だと「尋常小学校本科正教員」が自動的に与えられる。(中略)また中学校や高等女学校卒業の学歴をもつものも、検定を受ければ、正教員の資格を手に入れることができた。(中略)
 その試験で試されるのは、基本的には国語、数学、歴史、博物といった「普通」教科の学力である。つまり、正規の学校に行かなくても、たとえば小学校で無資格の教員として、子どもたちを教えながら、参考書などで勉強していれば、比較的たやすく身に着けることができる学力である。(中略)
    正規の中等学校に行くことのできない若者たちにとって、教員の資格制度は、ささやかではあるが立身出世、社会的な上昇移動の希望を与え、夢を見させてくれるものだったのである。

(14教員社会・教師の試験病)

 

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(明治42年兵庫県の検定試験問題集、過去数年間の問題が掲載されています)

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(修身から体操まで試験がありました。問題は男女に分かれていました)

 教員検定には、無試験と試験(試験あり)の2種類がありました。
 無試験検定は、中学校・高等女学校卒業者(小学校本科准教員・尋常小学校准教員以上の免許状は教職経験が必要)、または県知事がとくに適任と認める者(教職経験年数と官公私設講習会の一定以上の受講時間をクリアーした者)が対象でした。
 一方、試験検定には、学科試験と実地検定(実地授業・身体検診)がありました。
 時期や地方によって差はありますが、低いところでは合格率20%程度という難関でした。(笠間賢二「小学校教員検定に関する基礎的研究―宮城県を事例として」)