小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

正宗白鳥 『入江のほとり』③ 英語の独学

   

 広い机の上には、小学校の教師用の教科書が二三冊あって、その他には「英語世界」や英文の世界歴史や、英文典など、英語研究の書籍が乱雑に置かれている。洋紙のノートブックも手許に備えられている。彼れは夕方学校から帰ると、夜の更けるまで、めったに机のそばを離れないで、英語の独学に耽るか、考えごとに沈んで、四年五年の月日を送ってきた。(中略)
    「風が吹けば浪が騒ぎ、潮が満ちれば潟が隠れる。漁船は年々殖えて魚類は年々減りつつあり。川から泥が流れでて海はしだいに浅くなる。幾百年の後にはこの小さな海は干乾からびて、魚の棲家には草が生えるであろう。……」こんな自作の文章を、辞書を繰っては、いちいち英字で埋めて行った。以前二三度英語雑誌へ宿題を投書したことがあったが、一度も掲載されなかったので、今はまったくそんな望みを絶って、ただ自作の英文は絹糸で綴じた洋紙の帳簿に綺麗に書留めておくに止めている。自分ながら初めの方のに比べると、文章はしだいに巧みになっているような気がする。熟語などもおりおり使われるようになった。
   「独学で何年やったって検定試験なんか受けらりゃしないぜ。ほかの学問とは違って語学は多少教師について稽古しなければ、役に立たないね」
 「………」辰男は黙って目を伏せた。
 

 

 ■ 変則英語の独学 
    東京から帰った長男の栄一(モデルの作者・白鳥は東京専門学校ー後の早稲田大学ーで英文学を修めていました)が辰男に言った言葉は、ここ数年にわたる英語独学が全く成果のないものであることを、兄として少し厳しめに言った内容になっています。
 

  「今お前の書いた英文をちょっと見たが、まるでむちゃくちゃでちっとも意味が通っていないよ。あれじゃいろんな字を並べてるのにすぎないね。三年も五年も一生懸命で頭を使って、あんなことをやってるのは愚の極だよ。発音の方はなおさら間違いだらけだろう。独案内の仮名なんか当てにしていちゃだめだぜ」

 

 きっかけや目的は不明ですが、辰男は辞書や参考書を買い揃え、雑誌「英語世界」(博文館、明治四〇年四月~大正七年一二月)を購読しながら、以前は英作文の「宿題」にも応募していたことなどが描かれています。
 「発音の方はなおさら間違いだらけだろう。独案内の仮名なんか当てにしていちゃだめだぜ」とあります。

  この部分からは、辰男の英語学習が全くの「変則」であることがわかります。
 この「変則」「正則」と対立する概念です。明治時代の英語教育を知る上でのキーワードと言ってよいでしょう。

 百科事典の説明を挙げてみます。
   

 当時の英語学習は,英語を介して西欧事情に通じ,西欧の学問,知識を吸収するのが目的であったから(しかもそれも書物によらざるを得なかった),したがってその教授・学習法は訳解が中心で,ちょうど漢文の〈返り点・送りがな〉方式に似ていた(このやり方はのちに変則英語教育と呼ばれた)。
 明治中期には,神田乃武(ないぶ),斎藤秀三郎,外山正一らによって,発音・会話と直読直解を重視する正則英語教育が唱えられ,正則英語学校の開設(明治29年・1896)や,外山の《正則文部省英語読本》とその解説書の発刊を見た。(「変則英語教育」平凡社『世界大百科事典』 第2版)*傍線は筆者

  このように、「変則英語」は、発音を重視しない学習法であったために、学習者の英語読みの中には惨憺たるものがあったといいます。
 たとえば(「時には」の意の)sometimes、(「隣人」の意の)neighborはそれぞれ「ソメチメス」「ネジボー」と読まれたということです。

 

■ 雑誌「英語世界」と南日恒太郎

 辰男が購読していた「英語世界」という雑誌は、地方にいながら独学で英語を修めようとする若者や、あるいは上京して上級学校へ入ろうとする受験生のニーズに応えようとしたものでした。

 この雑誌は旧制高等学校を始めとする高等教育機関の合格者や現職の教員たちを寄稿者として擁し、「独学」に関する記事をしばしば掲載していました。 
 

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 中でも実際に「独学」で成功を収めた存在として有名だったのは学習院教授・南日恒太郎(なんにち つねたろう)でした。(出木良輔「『変人』あるいは〈田舎教師〉の『幸福』― 正宗白鳥「『入江のほとり』と『独学』の時代 ―」)
    明治4年(1871)生まれの南日は富山中学校を中退後、明治29年(1896)に文部省の教員検定試験(文検)の英語科に「独学」で合格(明治26年に国語科にも合格しています)、東京正則英語学校や第三高等学校を経て学習院で教員を務めた人物です。

 晩年は大正12年(1923)、故郷に設立された富山高等学校(現在の富山大学)の校長も務めました。

   

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 (南日恒太郎・明治4~昭和3年:1871~1928)

 

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    南日の『英文解釈法』や『和文英訳法』は「明治のベストセラー参考書」と言われるぐらいに有名でした。
    南日は「英語世界」の中で、「独学」時代に読んだ書籍や雑誌、さらにはそれらを利用した「独学」の方法も紹介していました。
    地方在住の「独学青年」たちにとっては、南日はカリスマ的な存在だったと言えるでしょう。

    出版社は南日を「広告塔」に利用していたという見方もできますね。

 

# ほんとうに久しぶりに白鳥全集を本棚から取り出しました。
色々と読み返すうちに、赤穂線に乗って備前のあたりを散策してみたいなと思うようにもなりました。

 

 

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(穂浪漁港遠望、https://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2013-03-09