小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

田山花袋『田舎教師』① モデル小林秀三のこと

 

 

 作品の名前はよく知られていても、読まれた方はそう多くないでしょうから、作品と作者の解説文、それに冒頭部分を挙げておきたいと思います。

 日露戦争に従軍して帰国した花袋は,故郷に近い羽生で新しい墓標を見つける。それは結核を病んで死んだ一青年のものであった.多感な青年が貧しさ故に進学できず,代用教員となって空しく埋もれてしまったことに限りない哀愁を感じ,残された日記をもとに,関東の風物を背景にして『田舎教師』を書き上げた。 (岩波文庫・解説 前田 晁)

 

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 田山花袋、明治4~昭和5年:1871~1930、
 明治4年12月13日生まれ。江見水蔭の門下。明治32年博文館に入社。「重右衛門の最後」,評論「露骨なる描写」をかき,平面描写を主張。39年「文章世界」の主筆となり,自然主義運動をすすめる。40年発表の「蒲団」はのちの私小説の出発点となった。昭和5年5月13日死去。60歳。群馬県出身。本名は録弥。代表作はほかに田舎教師「百夜」など。

(デジタル版 日本人名大辞典+Plus、https://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E5%B1%B1%E8%8A%B1%E8%A2%8B-18832

 

(冒頭部分)

 

  一
  四里の道は長かった。その間に青縞(あおじま)の市のたつ羽生(はにゅう)の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出(けだし)を出した田舎の姐さんがおりおり通った。
  羽生からは車に乗った。母親が徹夜して縫ってくれた木綿の三紋の羽織に新調のメリンスの兵児帯(へこおび)、車夫は色のあせた毛布(けっと)を袴の上にかけて、梶棒を上げた。なんとなく胸がおどった。
  清三の前には、新しい生活がひろげられていた。どんな生活でも新しい生活には意味があり希望があるように思われる。五年間の中学校生活、行田から熊谷まで三里の路を朝早く小倉服着て通ったことももう過去になった。卒業式、卒業の祝宴、初めて席に侍る芸妓なるものの嬌態にも接すれば、平生むずかしい顔をしている教員が銅鑼声(どらごえ)を張り上げて調子はずれの唄をうたったのをも聞いた。一月二月とたつうちに、学校の窓からのぞいた人生と実際の人生とはどことなく違っているような気がだんだんしてきた。

 

⬛️ モデルとなった小林秀三

 

 「貧しさ故に進学できず,代用教員となって」、「結核を病んで死んだ一青年」とありますが、この主人公・林清三のモデルとなったのは小林秀三(こばやし ひでぞう)でした。

 「熊谷デジタルミュージアム」(http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/ijin/kobayasihidezou.htm)には次のような説明があります。

 

 小林秀三
   栃木県足利市生まれ。9歳の時熊谷に移り住む。熊谷中学(現熊谷高校)第2回卒業生で、夏目漱石『坊ちゃん』のモデル弘中又一が熊谷中学に赴任して最初に卒業した教え子の一人。卒業後は北埼玉郡弥勒小学校の代用教員となり、羽生町(現羽生市)の建福寺に移り住み、「四里の道は長かった」で始まる『田舎教師』の通勤が始まった。明治37年9月22日21歳で没す。

 

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(「田舎教師」-羽生市田山花袋を文学散歩#1 http://www5e.biglobe.ne.jp/~elnino/Folder_DiscoverJPN/Folder_East/JPN_SaitamaHanyu.htm

 

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田舎教師の像、 http://kiku-saita-2525.my.coocan.jp/tiisanatabi-inkakyousi-kenpukuji.htm

 

⬛️ 中学卒業生の進路

 

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https://www.sankei.com/life/news/180325/lif1803250025-n1.html

 ある日曜日の午後に、かれは小畑と桜井と連れだって、中学校に行ってみた。(中略)当直室で一時間ほど話した。同級生のことを聞かれるままその知れるかぎりを三人は話した。東京に出たものが十人、国に残っているものが十五人、小学校教師になったものが八人、ほかの五人は不明であった。(十三)

  上の写真は埼玉県立熊谷中学校第2回卒業生の卒業記念写真です。

 入学時は112名であった同期生ですが、卒業時には47名となっていました。しかし、当時の中学校では珍しいことではありません。

 同期の進路については、「明治38年埼玉県立熊谷中学校一覧」に「卒業生名簿」と「卒業生就業別一覧表」が掲載されています。

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 秀三を含めて既に4名が亡くなっていました。

 

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 秀三たち熊谷中学校第2回生が卒業して5年後の卒業生の現況が一覧にありました。6名が小学校教員となっています。
  これらの人たちは、この時点ではまだ代用教員だったのではないでしょうか。

 進路状況をみると、同校は相当にレベルの高い中学校であったと思われます。

 

⬛️   弥勒の小学校

 弥勒(みろく)まではそこからまだ十町ほどある。
  三田ヶ谷村といっても、一ところに人家がかたまっているわけではなかった。そこに一軒、かしこに一軒、杉の森の陰に三四軒、野の畠はたの向こうに一軒というふうで、町から来てみると、なんだかこれでも村という共同の生活をしているのかと疑われた。けれど少し行くと、人家が両側に並び出して、汚ない理髪店、だるまでもいそうな料理店、子供の集まった駄菓子屋などが眼にとまった。ふと見ると平家造りの小学校がその右にあって、門に三田ヶ谷村弥勒高等尋常小学校と書いた古びた札がかかっている。授業中で、学童の誦読の声に交まじって、おりおり教師の甲走(かんばし)った高い声が聞こえる。埃(ほこり)に汚れた硝子窓には日が当たって、ところどころ生徒の並んでいるさまや、黒板やテーブルや洋服姿などがかすかにすかして見える。出はいりの時に生徒でいっぱいになる下駄箱のあたりも今はしんとして、広場には白斑(しろぶち)の犬がのそのそと餌をあさっていた。(二)

 

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 明治42年7月現在の「埼玉県学事関係職員録」中の北埼玉郡の一部です。

 秀三の勤めた弥勒尋常高等小学校は、その年の春(前年度末)に廃校になっていました。

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弥勒高等小学校跡の説明板、http://www5e.biglobe.ne.jp/~elnino/Folder_DiscoverJPN/Folder_East/JPN_SaitamaHanyu.htm
 この職員録を見ると、どの学校も教員数が少ないように思われます。どうも、代用教員は掲載されていなかったようです。

 なお、氏名の上の「五下」とか「六上」は給料表の等級を表しています。訓導(現在の教諭)兼校長でも24円から30円程度の月給であったことがわかります。

 ちなみに、代用教員である主人公・林清三の月俸は十一円となっています。

 

 

 

#   普通、「尋常高等小学校」というのかと思っていましたが、作中には「高等尋常小学校」とあります。

    どちらが正しいのでしょうか⁉️