小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

田山花袋『田舎教師』④ 講習会と夏休み

 ■ 教員講習会

 次の土曜日には、羽生の小学校に朝から講習会があった。校長と大島と関と清三と四人して出かけることになる。大きな講堂には、近在の小学校の校長やら訓導やらが大勢集まって、浦和の師範から来た肥った赤いネクタイの教授が、児童心理学の初歩の講演をしたり、尋常一年生の実地教授をしてみせたりした。教員たちは数列に並んで鳴りを静めて謹聴している。志多見という所の校長は県の教育界でも有名な老教員だが、銀のような白い髯をなでながら、切口上で、義務とでも思っているような質問をした。肥った教授は顔に微笑をたたえて、一々ていねいにその質問に答える。十一時近く、それがすむと、今度は郁治の父親や水谷というむずかしいので評判な郡視学が、教授法についての意見やら、教員の心得についての演説やらをした。梅雨は二三日前からあがって、暑い日影はキラキラと校庭に照りつけた。扇の音がパタパタとそこにも、ここにも聞こえる。女教員の白地に菫色の袴が眼にたって、額には汗が見えた。成願寺の森の中の蘆荻(ろてき)はもう人の肩を没するほどに高くなって、剖葦(よしきり)が時を得顔(えがお)にかしましく鳴く。
    講習会の終わったのはもう十二時に近かった。詰襟の服を着けた、白縞の袴に透綾の羽織を着たさまざまの教員連が、校庭から門の方へぞろぞろ出て行く。
(中略)
  「湯屋で、一日遊ぶようなところができたって言うじゃありませんか、林さん、行ってみましたか」校門を出る時、校長はこう言った。
  「そうですねえ、広告があっちこっちに張ってありましたねえ、何か浪花節なにわぶしがあるって言うじゃありませんか」
  大島さんも言った。
  上町の鶴の湯にそういう催しがあるのを清三も聞いて知っていた。夏の間、二階を明けっ放して、一日湯にはいったり昼寝でもしたりして遊んで行かれるようにしてある。氷も菓子も麦酒も饂飩(うどん)も売る。ちょっとした昼飯ぐらいは食わせる準備したくもできている。浪花節も昼一度夜一度あるという。この二三日梅雨があがって暑くなったので非常に客があると聞いた。(中略)
  「どうです、林さんに一つ案内してもらおうじゃありませんか。ちょうど昼時分で、腹も空いている……」
  校長はこう言って同僚を誘った。みんな賛成した。
   (中略)
 やがて校長の顔も大島さんの顔もみごとに赤くなる。
   「講習会なんてだめなものですな
  校長の気焔がそろそろ出始めた。
  大島さんがこれに相槌をうった。各小学校の評判や年功加俸の話などが出る。郡視学の融通のきかない失策談が一座を笑わせた。けれど清三にとっては、これらの物語は耳にも心にも遠かった。年齢が違うからとはいえ、こうした境遇にこうして安んじている人々の気が知れなかった。かれは将来の希望にのみ生きている快活な友だちと、これらの人たちとの間に横たわっている大きな溝を考えてみた。
   「まごまごしていれば、自分もこうなってしまうんだ!」
  この考えはすでにいく度となくかれの頭を悩ました。(十五)

 

 

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(初版本口絵、https://shakaigaku.exblog.jp/i7/


 夏休みをひかえた7月のある土曜日に、地域の中心地である羽生で行われた教員講習会の様子を描いた場面です。
 当時は今のような教育委員会制度がありませんから、こうした講習会を開いていたのは郡当局と郡の教育会だったと思われます。
 講演や講義と授業参観、その後の研究協議、質疑応答といったパターンは現代の研修会にもよく見られるものです。
 お酒が入っているとは言え、校長自らが「講習会なんてだめなものですな」と言い始めるあたりに、いわゆる官製講習会の形式主義なところが批判的に描かれてます。
  ちなみに、「浦和の師範から来た肥った赤いネクタイの教授が・・・」というところがありますが、師範学校は昭和18年(1943)に専門学校程度に格上げされるまでは、長らく「中等学校」でしたから、正しくは「教授」ではなくて「教諭」と称すべきでした。
   この場面で面白いのは、窮屈で退屈な(?)講習会の後、教員たちが「上町の鶴の湯」の二階でリラックスしてくつろぐ様子です。皮肉にも、講習の内容よりもこうした場面でのやりとりが長く記憶に残ったりするものです(笑)

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(明治37年発行の「学校管理法教科書」)

 

   ■ 夏休み

 七月はしだいに終わりに近づいた。暑さは日に日に加わった。(中略)
 学校では暑中休暇を誰もみんな待ちわたっている。暑い夏を葡萄棚の下に寝て暮らそうという人もある。浦和にある講習会へ出かけて、検定の資格を得ようとしているものもある。旅に出ようとしているものもある。東京に用足しに行こうと企てているものもある、月の初めから正午(ひるぎり)になっていたが、前期の日課点を調べるので、教員どもは一時間二時間を教室に残った。それに用のないものも、午(ひる)から帰ると途中が暑いので、日陰のできるころまで、オルガンを鳴らしたり、雑談にふけったり、宿直室へ行って昼寝をしたりした。(中略)
  三十日の学課は一時間で終わった。生徒を集めた卓テーブルの前で、「皆さんは暑中休暇を有益に使わなければなりません。あまりに遊び過ごすと、せっかくこれまで教わったことをみんな忘れてしまいますから、毎日一度ずつは、本を出してお復習(さらえ)をなさい。それから父さん母さんに世話をやかしてはいけません。桃や梨や西瓜(すいか)などをたくさん食べてはいけません。暑いところを遊んで来て、そういうものをたくさんに食べますと、お腹(なか)をこわすばかりではありません。恐ろしい病気にかかって、夏休みがすんで、学校に来たくッても来られないようになります。よく遊び、よく学び、よく勉めよ。本にもそう書いてありましょう。九月の初めに、ここで先生といっしょになる時には、誰が一番先生の言うことをよく守ったか、それを先生は今から見ております」こう言って、清三は生徒に別れの礼をさせた。お下げに結った女生徒と鼻を垂たらした男生徒とがぞろぞろと下駄箱のほうに先を争って出て行った、いずれの教室にも同じような言葉がくり返される。女教員は菫色の袴をはっきりと廊下に見せて、一二、一二をやりながら、そこまで来て解散した。校庭には九連草の赤いのが日に照らされて咲いていた。紫陽花の花もあった。(十七)

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(准教員免許状 期限付きとなっています)

 

 7月に入ると午前中の短縮授業が行われていました。中には普段よりも1時間以上早く7時始業という学校もあったようです。
 30日が(描かれていませんが)一学期の終業式です。表現は違いますが、いつの時代も夏休みの生活についての注意内容は同じようなものですね。
 さて、この「夏休み」ですが、昔は「暑中休暇」「暑中休業」「夏季休暇」「夏季休業」「暑休」など様々な呼び方がありました。
   夏期休暇制度が小学校に普及していったのは、学制期後半の明治10年(1877)頃と言われています。
    期間(日数)ですが、当初はお盆の頃の7~10日程度のところが多かったようです。
ただ、地方によって、また学校によって期間、日数は様々でした。
 文部省は明治14年(1881)の「小学校教則綱領」第7条において「小学校二於テハ日曜日,夏季冬季休業日及大祭日,祝日等ヲ除クノ外授業スへキモノトス」と規定しました。これが「夏期休暇」が全国的な法制度上で明示された最初のものでした。(現在は設置者である市町村教育委員会の規則で定められています)
    作品の時代背景である明治30年代半ば頃には、北日本は別にして、8月いっぱいを夏休みとしていたところが多かったようです。
    現在よりも10日程度少ないわけですが、農村地域では「農繁休暇」といって、田植え時期にも一週間ほどの休業期間がありました。(戦後もしばらくは残っていました)

 ここで一つ注目すべきは、「浦和にある講習会へ出かけて、検定の資格を得ようとしているものもある。」という部分です。
 師範学校出の正教員の少なかった当時、准教員や代用教員は検定試験を受けるための講習会に参加していたのでした。
 師範学校の教員が講師となって実施される講習会に参加することは、府県毎に実施されていた小学校教員検定試験に合格するためには必要なことだったのです。
    校長から検定試験受験を勧められながら、    「一生小学校教員で終わるつもりはない」と考えている清三には無縁の講習会でしたが、一般的にはキャリアアップにつながる大切な機会でした。

#  授業時間の確保、エアコンの普及等の理由で、夏休みの日数は年々短縮傾向にあります。

   教員のほうも、補習授業、三者面談、部活指導(試合、合宿)、研修等でやはり年々多忙になっています。

    就職したての40年ほど前には、夏休み全く顔を見せないベテランの先生もいたりしました。それを「古き良き時代」と言っていいのかどうか・・・・?