名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

渡辺淳一『花埋み』① 東京女子師範

 この『花埋み』(はなうずみ)は、日本最初の女医である荻野吟子の生涯を題材とした作品です。

 

 明治八年十一月、東京女子師範は東京本郷お茶の水に開校した。この学校はのち東京女子高等師範と改められ、現在のお茶の水女子大学に至っている。
 第一期生はぎんを含めた七十四名であった。
 開校式当日、昭憲皇太后はみずから女子師範へ行かれ、
 みがかずば、玉もかがみもなにかせん、
   学びの道も、かくこそ、有けれ
 との歌を寄せられた。 

 (中略)
 女子師範学校の修業課程は足かけ五カ年であり、その課程は十級に分かれていたが、学科目は、読物地理、読物地理学、読物歴史、歴史、物理学、化学大意、修身学、雑書、習字、書取、作文、数学(算術、代数、幾何)、読物経済学、博物学、教育論、記簿法、養生書、手芸、唱歌、体操、受業法、実地受業と実に多岐に亙(わた)っている。生来の利発さに加え、人一倍の頑張り屋であった吟子は、ここでも群を抜き、たちまち首席となった。
 こんなふうに科目が多かった故(せい)もあるが、とにかく当時の教育は暗記することが多かった。おまけに教師たちはどれも勉強家で、教え込もうというファイトに燃えている。これでは教師はまだしも、教えを受ける生徒の負担は並大抵ではなかった。
 代数の宿題だけでも多いときは二百題も与えられる。生徒たちはそれに負けず、忍耐強くねばる。まさにスパルタ式の詰め込み主義だが、ここから後年の「天下の女高師」の名声が生まれたとも言える。(九)

 

 

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(荻野吟子の略年譜)
■1851(嘉永4)3月3日 現埼玉県熊谷市俵瀬で名主荻野綾三郎の五女として誕生
■1868(慶応4) 埼玉県熊谷市名主稲村貫一郎に嫁ぐ 18歳
■1870(明治3) 病気、離婚 順天堂病院に入院
■1871(明治4) 退院実家で静養。女医志望決意
■1873(明治6) 上京 井上塾に入門 23歳
■1874(明治7) 甲府 内藤塾に助教として招かれる
■1875(明治8) 東京女子師範学校に入学
■1879(明治12) 同校卒業 私立医学校「好寿院」に入学
■1882(明治15) 好寿院を卒業
 東京府へ開業医受験願2回提出 却下。
 埼玉県へ受験願提出1回 いずれも却下
■1884(明治17) 衛生局長に面会。医術開業前期試験に合格
この年、京橋新富座キリスト教大演説会を聞き強い感銘を受ける
■1885(明治18) 医術開業後期試験に合格。女医第一号となる
産婦人科・荻野医院開業 35歳
■1886(明治19) キリスト教に入信。本郷教会で海老名弾正から洗礼を受ける
 キリスト教婦人矯風会に参加、風俗部長となる
■1887~1888
 (明治20~21) 大日本婦人衛生会幹事
■1889(明治22) 明治女学校講師・校医となる
■1890(明治23) 志方之善と結婚 吟子40歳 之善26歳
 婦人矯風会自由党大成会に婦人の議会傍聴禁止撤回を陳情
■1891(明治24) 之善 理想郷を目指し渡道
■1892(明治25) 明治女学校舎監
■1894(明治27) 吟子 之善の渡道要請に即応できるよう明治女学校他諸職を辞任 
6月渡道 インマヌエルに居住
■1896(明治29) 国縫に転居 本籍を移し半年間居住(夫鉱山開設のため)
■1897(明治30) 吟子 瀬棚に転居 「荻野医院」を開業
 淑徳婦人会を結成し会長となる。日曜学校を創設する
■1898(明治31) 之善 瀬棚に転居
■1903(明治36) 之善 同志社に再入学。吟子 札幌に医院を開業
4月17日、吟子病気となり、熊谷の姉の実家で転地療養
■1904(明治37) 之善 同志社を卒業。 北海道浦河教会の牧師となる
■1905(明治38) 4月 浦河教会の牧師を辞し、瀬棚に帰る
7月 吟子 瀬棚に帰る
9月23日 之善 病死
■1908(明治41) 12月 吟子帰京 (58歳) 本所区新小梅町に開業
■1913(大正2) 3月23日 吟子 肋膜炎発病、病床に臥す    6月23日 永眠

北海道久遠郡せたな町ホームページより、http://www.town.setana.lg.jp/ogino/article48.htm

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(創設時の東京女子師範学校、「ジャパンアーカイブズ」、 https://jaa2100.org/entry/detail/034029.html

 

■東京女子師範創設
 当校の創設の経緯を『日本近代教育史事典』(平凡社、1971)は次のように記しています。
 

 女子教育前進の背景としてあげられるものは、明治六年招かれて来日し、文部省督務官(翌年学監と改称)に就任したデイヴィド・マレー(David Murray、1830~1905、アメリカ合衆国の教育者、教育行政官)が在任中、数回にわたり「申報 」を文部当局に提出したことである。

 

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 マレーは我が国の教育事情を視察した上で、女子教育の必要なことを具体的に述べ、欧米諸国における実情にもふれ、女子教育振興の具体策として女子教員養成問題にもふれ、将来教員を志望する若い女子を東京女学校(明治四年、初の官立高等女学校として開校、明治十年廃校)に入学させることを提案している。その結果、明治七年の太政大臣三条実美にあてた田中文部少輔の建白書となり、女子師範学校設立の布達が発せられるに至った。明治八年開校の女子師範学校は、その後幾多の変遷はみたが、我が国の女子教員養成の中心として発展した。

 

■ 東京女子師範に学んだ鳩山春子
    鳩山春子(旧姓多賀、文久元年~昭和13年:1861~1938、鳩山和夫の妻、長野県生まれ。明治19年共立女子職業学校〈共立女子大〉創立、大正11年同校六代目校長となる)は、16歳のときに当時学んでいた官立の東京女学校(竹橋女学校)西南戦争による経費節減のため廃校となったために、この東京女子師範学校の別科英学科に入学しました。11年7月に首席で卒業し、同年9月に師範学校師範科本科に入学しました。

 

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(http://alpico.jp/yomi/kyakko/kyakko9.html)

 後に、『我が自叙伝』(日本図書センター、1997年)の中で、東京女子師範時代を振り返って、次のように述べています。

   これ(竹橋女学校の生徒は上流階級の令嬢が多く、服装も華美)に反して師範学校の方では全然入学者の気分が異(ちが)い、服装からして第一質素であります。(中略)大部分は志を立てて学問に従事した人々でありましたから、どうしたって緊張した気分を持っています、兎に角余程確乎した人の揃ったものでありました。(中略)

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 (「開校当時の風俗画に於ける本校生徒ー縞の袴と徽章の簪、『東京女子高等師範学校六十年史』より)

   そして生徒たる以上は必ず入舎せねばならぬことになって居たものでした。官費でしたがその自分一ヶ月四円五十銭で万事賄うのでありました。ただしその当時は物価が非常に廉く、賄費は三円以下、書物は悉皆(すっかり)学校で貸したから、殆ど小遣は入らぬ位で髪は互に結い合うという風でありました。(中略)
 竹橋女学校の暗記は英語を覚ゆる為と思えば面白かったが、日本語の暗記はつまらぬ様に思われました。それは少しも実力養成という方面には力を尽くさないで、器械的に覚え込む様な気がしたからであります.竹橋女学校の自分は英語の力が付くと思って一生懸命でしたが、日本語でしかも地理にしても何国の産物だとか、場所の位置名称だとか又は金石などはその比重だとか、動植物学はその分類だとか、化学の如きも何々の製造とい風に矢張り無意識の暗誦のものが多く、且つ先生方がみな勉強家で専門的に沢山教えて下さるので暗記するのが随分困難でありました。(中略)
    こういうわけですから、生徒の中には随分勉強家が多くて、何誰でも一生懸命に唯日も足らぬと言う具合に励まされたものです。

    荻野吟子の場合は同郷の先輩に勧められての入学でした。自分の目指す医学校はもちろん、それ以外の分野でも女子の学べる高等教育機関がまだ設立されていない時代でした。
 春子も、上で見たように他に適当な学校がなく、やむを得ずこの東京女子師範に学んだのでした。
 とにかく、学問に目覚めた女子にとって勉強の機会を与えてくれる唯一の官立学校が、この東京女子師範だったのです。
 全国各地から男勝り(?)の才媛が集った当校の「暗記主義」「注入主義」がよくうかがえる回想となっています。

 

# 春子が松本城下の我が家を出立したのは明治7(1873)年の4月、13歳の時でした。父と娘は「駕籠」で東京へ向けての長い旅を開始したと自叙伝にあります。

## 鳩山家系図鳩山会館ホームページ

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