名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

渡辺淳一 『花埋み』② 医術開業試験に向けて

 

    明治十二年の二月、吟子は第一期生の首席を守り通して東京女子師範を卒業した。入学したとき、七十四名いた生徒は、この時わずか十五名になっていた。女子師範の教育がいかに厳しかったかということが、このことからも想像できる。
 十五名の生徒は卒業式の日、幹事の永井久一郎教授から、それぞれ卒業後の志望を尋ねられた。
 「女医者になりたいのです」
 頼圀(よりくに)の門にいた時は恥ずかしくて口に出せなかったことが、今は平気で言えた。吟子がそれだけ逞(たくま)しくなったこともあるが、時代はそんな言葉を吐いても気狂い扱いされぬだけには変わっていた。(中略)
 すでに官立の昌平黌(大学本校)は着々と整備されていたが、他に個人が開いた私立医学校がいくつかあった。だがこれらはいずれも女人禁制である
 「これまで勉強を続けてきたのもすべて女医者になるためです」
 「しかし女が医者のような殺伐な仕事をしたいなどと言えば、親兄弟から見放されるであろう」
 「すでに見放されました」「そうか・・・・」「何とかいい方法はないものでしょうか」(九)

 

 吟子は、永井から当時の医界の有力者で、陸軍の軍医監の石黒忠悳(いしぐろただのり)を紹介され、下谷の好寿院という私立の医学校に入ることになります。女人禁制の医学校ばかりの中で、唯一女子を引き受けてくれたのがこの学校でした。
   ここで3年間の勉学を続けますが、この間は家庭教師をしながらの、苦闘の3年間でした。
 好寿院では女性ということで種々の困難がありました。3年間の通学は、男子用の袴(はかま)に高下駄(たかげた)の男装したというエピソードが残っています。

 

■  医術開業試験
 さて、ここでその当時、ごく一部の官公立の医学校を除き、医師を目指すほとんどの人たちが受けていた「医術開業試験」について見ておきたいと思います。
 
 

    医術開業試験は、1875年(明治8年)より1916年(大正5年)まで行われていた、医師の開業試験である。1885年(明治17年)以降、「医術開業試験」の名称となる。 
    医術開業試験では西洋医学の知識を問う問題が出題された。それまでは医師といえば、医師は漢方医が主流であったが、医術開業試験の導入により新規に開業する医師は西洋医学の知識が必須になった。これは、近代日本での医師の西洋化において画期的な出来事であった。
 医師免許は、医術開業試験合格者の他、医学教育機関の卒業者に対しては無試験で与えられた。
 受験資格として1年半の「修学」しか求められていなかったため、事実上独学でも受験可能な「立身出世の捷径」であった。合計で2万人を超える合格者を輩出し、大学や医学専門学校の卒業生が少数に限られていた明治期日本の開業医の主要な供給源となっていた。大正初年の医師総計約4万人中、従来開業の医師(漢方医)約1万人を除く西洋医約3万人のうち、試験合格者は約1万5000人、医学専門学校等の卒業者約1万2000人、帝国大学卒業者約3000人であった。
 野口英世がこの試験により医師免許を取得したことで有名である。
   (出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

 

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(野口 英世、明治9~ 昭和3年:1876~1928年)

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(医師開業免状、東京大学で医学を修めた人のもの)

 

■ 私立医学校の実態

 医学校というと、系統的なカリキュラム、各分野の専門家のそろった教授陣、付属の病院などと想像してしまいます。ところが、当時の私立の医学校というのは、この「医術開業試験」を受けるための「予備校」なのでした。
    中でも、明治九年(1876)に創設された済生学舎は、野口英世がここで学んだことでもよく知られていますが、当時最大の私立医学予備校でした。
 天野郁夫『試験の社会史』(東京大学出版会、1983年)には、そこでの実態が次のように記されています。
 

 この学校は明治三十六年に廃校となるが、それまでに教育した生徒の数は二万一千人、医術開業試験の合格者は一万二千人近くに上り、明治三十六年当時の「新医」の過半数は、この済生学舎一校の卒業者で占められていたとされる。(中略)
 済生学舎の設立者、長谷川泰は「ドクトル・ベランメー」として知られた奇行の多い人物で、東京医学校の教師や長崎医学校の校長をつとめ、代議士になったこともある。
 その長谷川の済生学舎は「医学校とはいふけれども大道店」同然の、純然たる予備校であり、教師は全員非常勤でほとんどが東京大学医学部の助手であった。官公立の医学校と違って入学資格の制限がないだけでなく、カリキュラムもなければ学年制も進級制も、したがって試験もない。授業は朝五時から夜九時まで、ぶっ通しで行われ、一円の月謝さえ払いさえすれば、どれだけ聴講してもよい。問題は、あくまでも「開業試験にパスすることであり、能力と意欲さえあれば、官公立学校に学ぶよりもはるかに短い時間と少ない資金で、医師資格を取得することが可能であった。

 

# 江戸時代以前の医者というと、正式に医術(医学ではない)を師について学んだ人はまだしも、儒学者が独学で中国の医書を読んだり、中には無学文盲に近い人もいたと言われています。

 医者になるのに資格試験はありませんでした。極端に言うと、医者になろうと思ったら誰でもなれたのです。

 藩政時代の「○○村明細帳」などを見ると、小さな村にも「医師一名」などとあって意外な感じがしますが、まあ普通のことだったのでしょうね。

 落語では、そうした「頼りない医者」の登場する噺がいくつかあります。

 「夏の医者」「ちしゃ医者」「薮医者」「金玉医者」などがそうです。

 中でも「薮医者」は今に残る言葉ですが、その解釈には色々とあるようで・・・・。