名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

中勘助『銀の匙』① 席次

 

 銀の匙は作者・中勘助の自伝的小説と言われています。
 「主人公は、本棚の引き出しにしまった小箱の中にある銀の匙をきっかけに、その匙を見つけた幼年期の伯母の愛情に包まれた生活を回想する」(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)という内容になっています。
 以下は、明治20年代の中頃で、主人公が尋常小学校(4年制)に在学の頃を回想した部分です。

 

 

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 私はそれからは恐しい夢に魘(おそ)はれることもなく体もめきめきと発育するやうになつたが、生得のぼんやりと学校をなまけることとは相変らずであつた。それは虚弱のためばかりでなく、うぶな子供にとつてあまり複雑で苦痛の多い学校生活が私をいやがらせたからである。ただ嬉しいことにはそのときの受持ちの中沢先生は大好きないい人で、おまけに私の席は先生の机のすぐ前にあつた。中沢先生は私がいくら欠席してもなんともいはず、どんなに出来なくてもくすくす笑つてばかりゐた。が、いつか並んでる安藤繁太といふ奴と喧嘩したときにたつたいつぺん叱られたことがあつた。(後略)   (四十)

 

 不勉強の報いは覿面(てきめん)にきていよいよ試験となつたときにはほとんどなんにも知らなかつた。ほかの者がさつさとできて帰つてゆくのに自分ひとりうで章魚みたいになつて困つてるのはゆめさら楽なことではない。なかでもつらかつたのは読本だつた。私は最後に先生の机へ呼びだされた。問題は蔚山(うるさん)の籠城といふ章だつた。蔚山なんて字はつひぞ見たこともない。黙つて立つてるもので先生はしかたなしに一字二字づつ教へて手をひくやうにして読ませたけれど私は加藤清正が明軍に取囲まれてる挿画に見とれるばかりで本のはうは皆目わからない。先生は根気がつきて
 「どこでも読めるところを読んでごらん」
といつて読本を私のまへへ投げだした。私はわるびれもせず
 「どつこも読めません」
といつた。試験がすんでからもやつぱり居坐りだつた。私はいちばん前にゐるから一番だと思つてゐた。名札のびりつこにかかつてることも、点呼のときしまひに呼ばれることも、自分が事実できないことさへもすこしの疑ひすら起させなかつた。好きな先生のそばにおかれてちつとも叱られずにゐる、これが一番でなくてどうしようか。それに私はつひぞ免状とりに出たことがなかつたし、学校から帰つて一番だといつて自慢するとみんなは えらい えらい といつて笑つてるので自分だけは至極天下泰平であつた。(四十一)

 

 

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中 勘助、明治18年(1885)~昭和40年(1960)
   東京市神田区(現千代田区神田)東松下町(旧今尾藩主竹腰家邸内の家)で藩士の子として生まれた。

 母親の産後のひだちが悪く、同居していた叔母に育てられる。生まれつき体が弱く神経過敏で頭痛に悩まされる子供だったため、外で遊ぶことはなく幼少期のほとんどを叔母以外の人と接することなく育つ。5歳で小石川の小日向水道町(現・水道 (文京区))に転居。叔母の影響で物語や絵などに親しむ一方、封建的で厳格な父親や14歳年上の兄に反発心を抱き、学校でも協調できず、厭世的になる。
    東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)を経て、第一高等学校から東京帝国大学文学部英文科まで続けて夏目漱石の講義を受ける。一高時代の学友には、江木定男(江木鰐水の孫)、山田又吉、藤村操、安倍能成小宮豊隆、野上豊一郎、尾崎放哉、岩波茂雄荻原井泉水らがおり、彼らも帝大に進学し交流は続いた。国文科に転じて大学を卒業した後も、早稲田南町漱石山房をしばしば訪問している。しかし控えめな人柄から、漱石山脈の中では目立たない存在として通した。文壇政治から常に距離を置き、特定の派閥にとらわれない孤高の文人だった。また、野上弥生子の初恋の人としても知られている。

(以上、大学卒業まで、出典:フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

 

 さて、ここでは主人公が教室(当時は教場と言いました)の最前列、教卓の前に座らされたことが述べられています。
 実は、これは成績順による「教室内席次」の指定ということを意味しているのです。
 主人公は学校を休みがちで、試験の時もまともに答えられず、どうやらクラス最下位の成績で、担任から教卓前の席を指定されているという訳です。

 山田正雄『教育史夜話〈兵庫県〉』(のじぎく文庫、1964年)では、当時の時代背景を「きびしかった初期試験制度」という題して次のように述べています。

 このように毎月試験を行う目的は、生徒の競争心を刺激して、大いに勉強心をおこさせることにあった。そこで試験の結果によって席順を上下するという方法が考え出された。現在、教室における生徒の座席はだいたい身長順によって定められるが、当時の学校では、すべて月次試験の成績にしたがって座席が決められたのである。そして、試験当日、欠席した場合の成績は零点となり、最末席に座らねばならなかった。そのほか成績一覧表が大きくはり出され、また教室内の生徒名札が成績順にかけられるなど、生徒を刺激するためのおぜんだてはそろっていた。   (傍線 筆者)

  学事奨励という大義名分から始まった、小学校での厳しい試験制度でしたが、なかなかその目的を達成することができず、逆にその弊害が目立っていました。
 明治24年(1891)の「小学校教則大綱」以後、試験制度は緩和の方向に向かい、明治27年(1894)9月1日に文部省は訓令を発して、「試験による席次上下」の廃止を通達しています。時あたかも日清戦争の勃発直後のことでした。
 『兵庫県教育史』(1963年)は、このタイミングで訓令が発せられたことについて、「この訓令を発した文部省の意図は、このような非常時に際して、小学校の教育が知育に偏重することをさけ、より体育や徳育に重点を置くべきことを強調するにあったと思われる」と述べています。

 

# 主人公は最前列の席を気にしてはいないようですが、中にはこうしたことが原因で不登校になる子どももいたのではないでしょうか。

 

## 小学校では廃止された成績による席次上下ですが、中学校ではその後も長らく続きました。

 厳しい学校になると、下駄箱の位置、通学時の並び順まで規定していたといいます。

 こうした席次の決定方法は、江戸時代の昌平黌や各地の藩校でも見られたということを何かで読んだことがあります。