名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

中勘助『銀の匙』④ 日清戦争下の小学校②  「ちゃんちゃん坊主」と「大和魂」

 

 それはそうと戦争が始まつて以来仲間の話は朝から晩まで大和魂とちやんちやん坊主でもちきつてゐる。それに先生までがいつしよになつてまるで犬でもけしかけるやうになんぞといへば大和魂とちやんちやん坊主をくりかへす。私はそれを心から苦苦(にがにが)しく不愉快なことに思つた。先生は予譲(よじやう)や比干(ひかん)の話はおくびにも出さないでのべつ幕なしに元寇と朝鮮征伐の話ばかりする。さうして唱歌といへば殺風景な戦争ものばかり歌はせて面白くもない体操みたいな踊りをやらせる。それをまたみんなはむきになつて眼のまへに不倶戴天のちやんちやん坊主が押寄せてきたかのやうに肩をいからし肘を張つて雪駄の皮の破れるほどやけに足踏みをしながらむんむと舞ひあがる埃のなかで節も調子もおかまひなしに怒鳴りたてる。私はこんな手合ひと歯(よはひ)するのを恥とするやうな気もちでわざと彼らよりは一段高く調子をはづして歌つた。また唯さへ狭い運動場は加藤清正北条時宗で鼻をつく始末で、弱虫はみんなちやんちやん坊主にされて首を斬られてゐる。町をあるけば絵草紙屋の店といふ店には千代紙やあね様づくしなどは影をかくして到るところ鉄砲玉のはじけた汚らしい絵ばかりかかつてゐる。耳目にふれるところのものなにもかも私を腹立たしくする。ある時また大勢がひとつところにかたまつてききかじりの噂を種に凄(すさま)じい戦争談に花を咲かせたときに私は彼らと反対の意見を述べて 結局日本は支那に負けるだらう といつた。この思ひがけない大胆な予言に彼らは暫くは目を見合はすばかりであつたが、やがてその笑止ながら殊勝な敵愾心(てきがいしん)はもはや組長の権威をも無視するまでにたかぶつてひとりの奴は仰山に
「あらあら、わりいな、わりいな」
といつた。他のひとりは拳固でちよいと鼻のさきをこすつてみせた。もうひとりは先生のまねをして
「おあいにくさま、日本人には大和魂があります」
といふ。私はより以上の反感と確信をもつて彼らの攻撃をひとりでひきうけながら
「きつと負ける、きつと負ける」
といひきつた。そしてわいわい騒ぎたてるまんなかに坐りあらゆる智慧をしぼつて相手の根拠のない議論を打ち破つた。仲間の多くは新聞の拾ひ読みもしてゐない。万国地図ものぞいてはゐない。史記十八史略の話もきいてはゐない。それがためにたうとう私ひとりにいひまくられて不承不承に口をつぐんだ。が、鬱憤はなかなかそれなりにはをさまらず、彼らは次の時間に早速先生にいつけて
「先生、□□さんは日本が負けるつていひます」
といつた。先生はれいのしたり顔で
「日本人には大和魂がある」
といつていつものとほり支那人のことをなんのかのと口ぎたなく罵つた。それを私は自分がいはれたやうに腹にすゑかねて
「先生、日本人に大和魂があれば支那人には支那魂があるでせう。日本に加藤清正北条時宗がゐれば支那にだつて関羽張飛がゐるぢやありませんか。それに先生はいつかも謙信が信玄に塩を贈つた話をして敵を憐むのが武士道だなんて教へておきながらなんだつてそんなに支那人の悪口ばかしいふんです」
  そんなことをいつて平生のむしやくしやをひと思ひにぶちまけてやつたら先生はむづかしい顔をしてたがややあつて
「□□さんは大和魂がない」
といつた。私はこめかみにぴりぴりと癇癪筋のたつのをおぼえたがその大和魂をとりだしてみせることもできないのでそのまま顔を赤くして黙つてしまつた。
  忠勇無双の日本兵支那兵と私の小慧(ざか)しい予言をさんざんに打ち破つたけれど先生に対する私の不信用と同輩に対する軽蔑をどうすることもできなかつた。
                            (後篇 二 傍線は筆者)

 

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(戦争ごっこ、「くもん 子ども浮世絵ミュージアム」より

https://www.kumon-ukiyoe.jp

 

■  「ちゃんちゃん坊主」
  

 「ちゃんちゃん坊主」という中国人に対する侮蔑的な呼称の語源については諸説あるようですが、「江戸時代に江戸の町を中国人の格好をして鉦をチャンチャンと鳴らしながら売り歩いていた商人がいた」ところからというのが、どうも有力なようです。
    研究者によれば、日本人が中国人を蔑視の対象とし、侮蔑的な言葉を使うようになったのはアヘン戦争で中国が列強に敗退した頃からですが、日清戦争の頃までは民衆の中にまでは浸透していなかったということです。(小松裕「近代日本のレイシズムー民衆の中国(人)観を例にー」)
  

 日清戦争開戦時に数え年13歳(高等小学校2年生)だったジャーナリストの生方敏郎(明治15~昭和44年:1882~1969、群馬県沼田市生まれ)は名著『明治大正見聞史』(中公文庫、1978)において、同様のことを述べています。

 

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 私たち子供は学校の先生から色々聞かされてもからでも、まだこの戦の始まりはよく分からなかった。
 何故かと言えば、私たちはこの戦の始まるその日まで支那人を悪い国民とは思っていなかったし、まして支那に対する憎悪というものを少しも我々の心の中に抱いていなかったのだから。(中略)私等子供の頭に、日清戦争以前に映じた支那は、実はこの位立派な、ロマンチックな、そしてヒロイックなものであった。(中略)
 戦争の初めに持った不安の念が人々から脱れると共に、勝ちに乗じてますます勇む心と敵を軽蔑する心とが、誰の胸にも湧いてきた。
 戦争が始まると間もなく、絵にも唄にも支那人に対する憎悪が反映してきた。私が学校で教えられた最初の日清戦争の唄は、
 

 討てや膺(こら)せや清国を、清は皇国(みくに)の仇なるぞ、討ちて正しき國とせよ。
 

 (中略)
 また、俗謡に踊りの振りまで付けて流行したのは、
 

 日清談判破壊せば、品川乗り出すあづま艦、つづいて八重山浪速かん、・・・・西郷死するも彼がため、大久保殺すも彼奴がため、怨み重なるチャンチャン坊主
 

 というのだ。

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(松本米兵衛「新版ちゃんちゃん坊主かぞえ歌」明治27年、

”一つトセ ひかりかがやくにっぽんを 小国とあなどり なまいきな コノチャンチャンくそぼうず”から始まり二十番まで)

 当初は、「眠れる獅子」と見られていた清国に対する不安や警戒心がありましたが、平壌の一戦に勝利の後は連戦連勝であっために、こうした侮蔑の念が人々の間に定着するようになってしまいました。
 わが国が大陸に進出した昭和初期には、「ちゃんちゃん坊主」はあまり聞かれなくなり、代わって「ちゃんころ」などという蔑称が兵隊の間から生まれ、一般にまで広まっていったということです。

 

■ 「大和魂」とは

 さて、一方の大和魂のほうですが、これは『源氏物語』以来の長い歴史をもつ言葉です。
 元来は、「外国と比して日本流であると考えられる精神・才覚などを指す用語・概念。儒教や仏教など入ってくる以前からの、日本人の本来的なものの考え方や見方を支えている精神である」(フリー百科事典・Wikipedia)ということです。
  それが、明治以降の国家主義的な体制の下では、「日本精神の独自性・優位性」という意味合いを持たされていきました。
 さらに、後には日本民族固有の勇敢で潔い精神」という風に、軍国主義体制に都合のよいように解釈され、広められたというのが実情ではないでしょうか。
 

 小学校に入った頃はビリだった主人公も、この頃には勉強に目覚めたのでしょうか、組長(級長)を指名される(当時は選挙でなく、成績優秀者を教師が指名していた)ほどに成長していました。
 他の級友とは違い、精神年齢も高かった主人公には、彼らや教師の言動が理不尽で馬鹿らしく、受け入れがたいものであったのですね。