小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

井上靖『しろばんば』その1 「通知簿と袴」

 一学期の終わる最後の日は、いつもこの日に通知簿(成績表)を貰うので洪作はよそ行きの着物を着せられ、袴(はかま)を穿(は)かされ、先生から貰った通知簿を包む大型のハンケチを持たされた。
 洪作にとっては学期末の通知簿を貰う日は辛い日であった。袴を穿くのは全校で二人しかなかった。穿く者は決っていた。洪作と上の家のみつだけであった。それからお役所という呼び方で村人から呼ばれている帝室林野管理局天城出張所の所長に子供のある人が赴任して来ると、大抵そこの子供たちが袴を穿いたが、しかし、洪作が二年になった時は、子のない所長が在任していたので、袴を着けるのはみつと洪作の二人だけだった。
 洪作もみつも袴を着けるのは厭(いや)だったが、何となく自分たちは袴を着けなければならぬもののように思い込まされていた。
(中略)
    朝礼が終わって第一時間目に、生徒たちは教師の手から一人ひとり通知簿を渡された。通知簿を渡してから老いた教師は、一学期の成績は一番が浅井光一、二番が洪作であると発表した。みつは八番であり、酒屋の芳衛は終(しま)いから三番であった。生徒たちは自分の席次が何番であろうとも少しも気にかけなかった。みんな一様に無表情な顔で、自分の席次を親に伝えるために、教師から告げられた順位を忘れないように口の中で何回も唱えていた。一番びりだと言われた新田部落の木樵(きこり)の子供は、自分だけが何番という数字を知らされないで、”びり”だと言われたことに納得がいかないらしく、
   「うらあ、何番だ、うらあ、何番だ」
と前や背後(うしろ)の机を覗き込んで喚(わめ)きたてた。そしてその挙句の果てに、短気な老教師に耳を掴(つか)まれて引っ張り上げられ、いきなり頬を二つ殴られた。(前篇 二章)*うら(方言)・・・私、おれ

※本文は『井上靖全集 第十三巻』(新潮社、1996)による

                                                    

  

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【作品】

 洪作は父母のもとを離れて、おぬい婆さんの土蔵で暮らしている。おぬい婆さんは祖父の妾だった人で村中からいやな目で見られているが、洪作は自分を溺愛してくれるこの老婆を誰よりも好きだった。伊豆の寒村湯が島を舞台に、透明な少年の目に映じた田舎の村の生活を、ユーモラスに綴る自伝的長編。(旺文社文庫解説)
 題名のしろばんばとは雪虫のことで、作者自身が幼少時代を過ご伊豆半島中央部の山村・湯ヶ島では、秋の夕暮れ時、この虫が飛び回る光景が見られたという。

 

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井上靖
『新潮日本文学アルバム48 井上靖』(新潮社、1993年)より

  井上靖明治40年~平成3年・1907~1991)旭川市生れ。京都大学文学部哲学科卒業後、毎日新聞社に入社。戦後になって多くの小説を手掛け、1949(昭和24)年「闘牛」で芥川賞を受賞。1951年に退社して以降は、次々と名作を産み出す。「天平の甍」での芸術選奨(1957年)、「おろしや国酔夢譚」での日本文学大賞(1969年)、「孔子」での野間文芸賞(1989年)など受賞作多数。1976年文化勲章を受章した。(新潮社 著者プロフィール)

 

■ 通知簿と順位
  

 主人公の洪作尋常小学校二年生)は父が軍医で、母と妹を伴って豊橋に赴任しており、この湯ヶ島ではおぬい婆さんと暮らしています。

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中央・井上かの(おぬい婆さんのモデル) 前列左・井上靖
公益財団法人 しずおか健康長寿財団ホームページ
    http://www.kenkouikigai.jp/archive/02/02CENSfBRNRPK7.asp

 

 小さい校舎は八つの教室を持っていた。一年から六年まで、各学年がそれぞれ一つの教室を持ち、その他に高等科の教室が一つと裁縫室が一つあった。
 一学年は大体三十人ぐらいである。みんな同じように棒縞の着物を着、藁草履を履き、たくあんのはいった弁当箱か梅干しのはいったむすびを持ち、同じように汚い顔とでこぼこの頭を持っていた。(第一章)

 

 作中でこう描写された湯ケ島尋常高等小学校(現・伊豆市立湯ケ島小学校)に、井上氏は大正三年(一九一四)四月に入学。大正九年(一九二○)二月、父の新任地である浜松の浜松尋常高等小学校(現・浜松市立中部小学校)に転校するまで、当校に在籍していました。

   

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「大正初期の湯ヶ島」 

静岡県立中央図書館 ふじのくにアーカイブ
https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/contents/library/index.html

 

 一学期の終業式(この作品では普通の「朝礼」はあったようですが、「式」は描かれていません)というのは、「明日からいよいよ夏休みだ!」という解放感や期待感がある一方で、その学年で初めての通知表(通知簿)をもらうということから、緊張感があって、子供にとっては結構気の重い日でもあります。

 この部分で気になったのは、担任教師が各生徒のクラス内順位を全員の前で発表しているところです。
 明治二十四年(一八九一)「小学校教則大綱」(文部省令第11号)以降、 昭和十二年(一九三七)まで、各教科の評定には「甲乙丙丁」という評語が使われていました。但し、「丁」はほとんど使われなかったようです。
 昭和十三年(一九三八)からの三年間は、「操行」については「優良可」、「操行」以外の教科目では十点法が行われましたが、昭和十六年(一九四一、国民学校発足)以降は、すべて「優良可」の評語が用いられました。http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000189877) 

 クラス内の順位を付けるとなると、「甲乙丙丁」のそれぞれを数値化して、合計を出したのでしょうか。

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湯ヶ島尋常高等小学校在籍中の成績
四年生時の手工を除き「全甲」(『新潮日本文学アルバム48 井上靖』より)


■ 袴を着ける日
 一学期の終業式当日、おぬい婆さんがしきりと洪作に「袴を着けて登校するよう」に言いますが、洪作はそれを嫌がっています。
  全校で「袴を着けるのはみつと洪作の二人だけ」と目立つだけではなく、上級生からいじめられる不安があったからですが、実際に他部落の五年生に「その変なものを脱いで、頭からかぶってみろ」と言いがかりをつけられました。(写真は1962年、日活映画「しろばんば」より)

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 では、それほど小学生の袴姿は珍しいものであったのでしょうか。
 大正時代といっても、時期や地域になどによる違いが大きいために、一概に述べるのは難しいのですが、大正初期の伊豆地方という地域の背景からいうと、まだまだ中流以下の家庭の子どもには縁のない衣裳であったようです。
 古くから改まった場面における男性の正装であった羽織・袴というスタイルは、明治の終わり頃には、高等科の生徒を中心に通学服としても広まり、その後大正時代前半にかけては尋常科にも及んでいったようです。 
 中でも、「三大節」(元日、紀元節天長節)を初めとする式日には、袴はなくてはならないものでした。(松田歌子ほか「明治・大正・昭和前期の学童の衣生活とその背景」第1報~第8報、『文教大学教育学部紀要17~30』、1983~1996)
 ただし、地域的、経済的な格差の大きかった当時のことですから、ある程度余裕のある家庭のことで、比較的貧しい農山漁村においては、昭和に入るまで「袴無し」が普通であったという報告も多く見られます。  
 家柄や格式が重んじられた時代、軍医の長男を預かる「保護者」であるおぬい婆さんには、終業式にはそれなりの服装で登校させるものだという強い思いがあったものと見られます。

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大正5年(1916)愛知県・富岡尋常高等小学校 尋常科卒業記念写真
(愛知県新城市とみおかふるさと会館ホームページより)

※女子大学生の卒業式での定番スタイルとしての袴はよく知られていましたが、近年では、小学生の間でもブームとなっています。近年、都会の小学校では、卒業式に女子児童に袴を着用させる(レンタルでしょうが)保護者が目立つようになり、それを規制する学校や教育委員会の対応がちょっとしたニュースになっているようです。