小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

『しろばんば』その2 湯ヶ島の教師たち

 

 九月になって二学期が始まると、洪作は榎本(えのもと)という新しく湯ヶ島の小学校に赴任してきた師範出の教員のところへ、毎夜のように勉強にやらされた。榎本は部落に三軒ある温泉旅館の中で一番大きい渓合楼(たにあいろう)の一室に寝泊まりしていたので、洪作は毎晩のように夕食後渓合楼へ通った。おぬい婆さんの言い草だと、湯ヶ島の小学校には校長の石守森之進を初めとして、一人も正式に教員の資格を持っている者はいないが、こんど来た榎本先生だけは県庁所在地である静岡の師範学校を出ているので立派なものだということであった。
「洪ちゃ、あの先生の言うことだけは当てになるがな。何しろ師範出じゃ。門野原の伯父さんが幾ら校長だと言って威張ったって始まらんこっちゃ。あの伯父ちゃはどこも出ておらん。検定じゃ。十のうち五つは嘘(うそ)を教えているずら。中川基にしても同じこっちゃ。東京の大学出たとか何とか言ってるが、大学で何をしておったか判(わか)ったもんじゃない。そこへ行くと洪ちゃ、洪ちゃの先生は師範を出とる。同じ師範といっても、二部じゃない。ほんとの師範を出た。おばあちゃんの気に入った先生が初めて来おった!
 おぬい婆さんは大変ないき込みであった。毎夜、洪作が榎本のところへ教わりに行くことはすぐ部落中にひろまってしまった。おぬい婆さんが会う人ごとに、洪作は将来大学へ行くので、もうそろそろ勉強させなければと、そんなことを言った。

 榎本は生真面目な気難しい教員であった。洪作は毎夜二時間ずつ、榎本の前にきちんと座っていなければならなかった。そして彼の出す問題に答えたり、書き取りをしたり、作文を書いたりした。洪作はそうした勉強が厭ではなかった。師範出の若い教員に教わることで、自分が今までとは違った優秀な子供になって行くような気がした。(前篇四章)

 

■ 湯ヶ島の教師たち

 おぬい婆さんは、湯ヶ島の小学校には校長の石守森之進を初めとして、一人も正式に教員の資格を持っている者はいない」と断言していますが、実際はどうだったのでしょうか。
 安藤裕夫しろばんばの教師たち」(藤沢全編著『井上靖 グローバルな認識』大空社、2005年所収)によりながら、見ていくことにします。
 まず、「正式に教員の資格を持っている」師範学校出身)は榎本だけということですが、上記安藤論文によれば、洪作が湯ヶ島尋常高等小学校に在籍した大正三年度から同八年度の間、同校に勤務した計二十四人の教員のうち、七人は静岡師範学校本科一部の出身でした。
  この当時の小学校教員の学歴実態について、教員史の研究者は次のように述べています。

 小学校教員免許状授与数に占める師範学校卒業者の割合は、今世紀の初め(明治三十三、三十四年)は一割ほどに過ぎなかった。その後師範学校の量的拡大とともに上昇したが、それでも明治の終わりに二十七%であった。(中略)

 その割合は検定合格者の絶対数が減少した大正四~六年頃四割弱に上がったが、ほぼ三割というのが平均的割合であった。(陣内靖彦『日本の教員社会 歴史社会学の視野』)

 

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(静岡師範学校 Wikipedia

 湯ヶ島尋常高等小学校においての、師範出が約三割という比率は全国の平均値でした。伊豆の山村とはいえ、決して教員の学歴レベルは低くなかったのです。
  次に、洪作が二年生の秋から勉強を見てもらった榎本という教師についてですが、安藤論文では、大正六年(一九一七)十一月に赴任し、同八年(一九一九)三月に桑村尋常小学校に訓導兼校長として転任していった真田直枝氏(静岡師範学校本科一部卒業)がモデルであるとしています。
 続いて洪作の叔母さき子の恋人であった大学出の代用教員・中川基ですが、こちらも中狩野村(当時)の医者の息子であった中島基氏がモデルであることは明らかです。

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大正八年(一九一九)湯ヶ島尋常高等小学校教職員
(当時、中島氏は准教員免許をもつ準訓導でした。
『大正八年静岡県学事関係職員録』より)

 おぬい婆さんは中川基のことを、「東京の大学出たとか何とか言ってるが、大学で何をしておったか判ったもんじゃない」と言いますが、同氏は大正四年(一九一五)七月に國學院大学師範部(後に高等師範部)国語漢文学を卒業されていました。
 同校は、明治三十二年(一八九九)に国語と日本歴史の二科目について、中等教員無試験検定の認可を得ています。その卒業生の多くは、師範学校・中学校・高等女学校・実業学校といった中等学校に奉職していたのです。
 当の中島氏も大正十一年(一九二二)八月に湯ヶ島尋常高等小学校を退職し、青森県立青森中学校(現・県立青森高等学校)教諭として赴任していきました。
   たしかに、小学校教員としての正規ルートをたどった方ではありませんが、中等教員の免許を持った上に、湯ヶ島時代には代用教員から准訓導、そして正教員の資格を取得していますから、おぬい婆さんの発言は偏見に満ちたものと言ってよいでしょう。

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体操の指導をする中川基(1962年の日活映画より、山田吾一が演じた)

※後身の湯ヶ島小学校は、月ヶ瀬小学校、狩野小学校と合併して天城小学校となり、平成二十五年(二○一三)廃校となっています。

 

■ 「ほんとの師範」? 一部と二部

   おぬい婆さんは(榎本先生は)同じ師範といっても、二部じゃない。ほんとの師範を出た。」とも言っています。
 これはどういうことなのでしょうか。
  『学制百年史』(文部科学省)は、そのあたりの事情を次のように説明しています。

    明治四十年四月十七日師範学校規程を公布することとなった。
(中略)師範学校には本科と予備科を置き、本科を分けて第一部・第ニ部とし、修業年限は予備科は一年、本科第一部は四年、本科第ニ部は男生徒一年、女生徒ニ年(四年制高等女学校卒業者)または一年(五年制高等女学校卒業)とした。予備科は修業年限ニ年の高等小学校卒業者を入学させ、本科第一部は予備科修了者または修業年限三年の高等小学校卒業者を入学させることとした。この規程によって本科第ニ部が創設されたことは制度上きわめて重要であった。本科第ニ部は中等学校卒業者を入学させることによって師範教育を中等学校と連絡させ、後年専門学校に昇格する基礎をつくった。
    (文部科学省『学制百年史』師範学校制度の整備)
       http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317635.htm

 

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  (明治41年の学校系統図)

 

    中学校を出て師範学校で一年間学ぶと、小学校本科正教員の免許状がもらえたわけです。※昭和六年(一九三一)より2年制になりました。

 中学校までに様々な科目の学習は済んでいるという前提で、この一年間は教育学・心理学や教科教育法、そして実習を主体にカリキュラムが組まれいました。
    ただ、本体はあくまでも一部であるという考え方は一般に根強く、定員も二部は一部の3~4割程度でした。

    おぬい婆さんは「師範学校でたった一年学んだだけの教師は、本当の師範学校出ではない」とでも言いたいのでしょうか。
 たしかに、一年間で学べることは限られていますし、そもそも、一部と二部では生徒の教職に対する意識という点でも差異があったのではと思うのですが、いかがでしょうか。

 
   明治以来、中学校においては、高等学校を頂点とする上級学校への進学が一種の「ステータス」とされており、新設の師範二部への進学はエリートコースから外れた存在と目されていた節もあるようです。

 おぬい婆さんの言葉は厳しいように見えますが、大正初期のそうした世間の見方を反映したものと言えるかもしれません。

 

 ここまで書いてきて思い出したのは、作家・木山捷平さん(明治37~昭和43年・1904~1968、岡山県笠岡市出身)のことです。
 木山さんは、岡山県立矢掛中学校(現・県立矢掛高等学校)在学中に文学に目覚め、「東京の文科」進学を熱望しましたが、農家の長男であり、弟妹が多いことなどから、父に猛反対され、大正十二年(一九二三)、不本意ながら隣県の兵庫県にあった姫路師範学校二部に入りました。


 

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木山捷平高梁川流域連盟ホームページより)

 師範二部入学について、栗谷川虹『木山捷平の生涯』(筑摩書房、1995年)には次のように述べられています。

 教員養成機関とは姫路師範学校である。師範学校は近くの岡山にあったが、そこは小学校の高等科から入った同級生達がおり、上級学校への進学コースである中学を出ながら、師範の二部に入るものは、岡山を避けて姫路か広島の師範に行ったのだという(高木甲一談)

 

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昭和5年(1930)頃の姫路師範学校 (神戸大学ホームページ「神戸大学の歴史③」)

 師範学校卒業生には、二年間の奉職義務があり、彼も兵庫県出石郡出石尋常高等小学校(現在の豊岡市立弘道小学校)に勤務した後に退職し、念願の「東京の文科」(東洋大学)に入学することになります。