名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

井上靖『あすなろ物語』① 「学芸会と鉄拳制裁」その1

 

 

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あすなろ物語』 
 天城山麓の小さな村で、血のつながりのない祖母と二人、土蔵で暮らした少年・鮎太。北国の高校で青春時代を過ごした彼が、長い大学生活を経て新聞記者となり、やがて終戦を迎えるまでの道程を、六人の女性との交流を軸に描く。明日は檜になろうと願いながら、永遠になりえない「あすなろ」の木の説話に託し、何者かになろうと夢を見、もがく人間の運命を活写した作者の自伝的小説。(新潮社)

 『あすなろ物語』は『しろばんば』の続編のような性格をもっていますが、作者自身は「創作」と述べています。

 鮎太が転校して十日程した時、受持ちの教師に呼び出され、近く学芸会があるから何かやらないかと言われた。
「リーダーを暗誦します」
と鮎太は答えた。鮎太が選んだのは五年生が課外読本に使用しているリーダーだった。
 鮎太はそれから、学芸会までの十日間を、リーダーの暗誦に費やした。夜、渓林寺の境内を何時間ものべつ幕無しにリーダーの文章を口に出して、暗記しながら歩いた。
 鮎太は暗記力にも自信があったし、語学の力も、五年生の学力は十分に持っていた。
 学芸会の当日、鮎太は一時間にわたって、本も持たずに、英国の有名な新聞記者だという人の文章を、機関銃のように口から発射した。面白いほど、文章はいささかの澱(よど)みもなく彼の口から流れた。場内は呆気(あっけ)にとられて、水を打ったようにしんとしていた。一年坊主が退屈して躰を動かすほか、他の生徒は鮎太の口ばかり見詰めていた。
 一時間きっかりで、鮎太の暗誦は中止の命令を受けた。余り一人で時間をつかいすぎるからであった。鮎太はまだ五分の一程残っていたので、それを中止されたのが惜しい気持ちだった。彼は壇上から降りて、自分の席に就くと、口には出さないで、その残りの五分の一を誦し終わった。
 学芸会が終わって講堂を出ると、無数の讃嘆と好奇の眼が自分に注がれているのを、鮎太は感じた。
 教室へ戻って、鞄を肩にして、それからそこを出て、家へ帰るために運動場をつっ切ろうとした時、鮎太は、背後から五年生の一人に呼び止められた。
「ちょっと、こっちに来い」
 言葉使いが荒かったので、微かな不安が感じられたが、鮎太は五年生の後について行った。連れて行かれたところは武道場の裏手であった。数人の五年生が煙草を喫(の)みながら立っていた。
「おめえの頭は少しどうかしている。普通の頭にしてやろう」
 一人がそんなことを言ったと思うと、同時に鮎太は目の前が真っ暗になるのを感じた。右によろめけば、右から殴りつけられ、左へよろめけば左から殴られた。
「かんにんかんにん」
「何言っていやあがる!まだ口がきけるじゃあないか」
 鮎太は頭を抱えたまま、地面につくばっていた。五分間程鉄拳(てっけん)の雨が降り注いだ。
「これから、一週間に一回ずつ、頭の洗濯をしてやる。毎土曜日の二時にここへ来い」
 鮎太はそんな言葉を遥か遠くに聞いた。やっとのことで立ち上がった時は誰もいなかった。目も鼻もいっしょになった程、顔は腫れあがっていた。
 (寒月がかかれば)

 

 ■ 学芸会という学校行事

 学芸会というと、昔の小学校の定番行事で、内容は歌唱、器楽合奏、児童による演劇などが思い出されます。

  

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大正14年、小学校の学芸会での「桃太郎」、http://touyoko-ensen.com/mini%E2%80%90info/cook/ht-txt/065kodomo-1.html

 明治から大正にかけての小学校の学芸会について、研究者は次のように述べています。

 明治 40 年以降になると,学芸会 は,小学芸会として日常的に行われるようになるとともに,儀式などの行事と 結合して,保護者や学校関係者に学習の成果を披露する行事として,確固とし た地位を占めるようになる。しかし,初期の学芸会は,あくまでも教科の学習 発表会だったのであり,唱歌や楽器演奏があるものの,全体的には静的な出し 物が多く,面白みに欠けるものだった。学芸会が,児童中心の動的で華やかな 舞台芸術として,運動会と並ぶ学校行事の花形となるには,大正時代の児童中 心主義教育と芸術教育運動の勃興を,待たなければならなかったのである。
    佐々木正昭 「学校の祝祭についての考察 : 学芸会の成立」

  

 旧制の中学校における学芸会は、以前にブログ「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)を書くために、色々と調べましたが、その途中には見当たりませんでした。
 そこで、「青空文庫」所収の作品に「旧制中学の学芸会」に言及したものがないか探してみたところ、次の文章がありました。

 府立三中は本所江東橋にあって、いわゆる下町の子弟が多く、そのため庶民精神が横溢していて、名校長八田三喜先生の存在と相まって進歩的な空気が強かった。この学校の先輩には北沢新次郎、河合栄治郎の両教授のような進歩的学者、作家では芥川龍之介久保田万太郎の両氏、あるいは現京都府知事の蜷川虎三氏などがいる。
  三中に入学した年の秋、学芸会があり、雄弁大会が催された。私はおだてられて出たが、三宅島から上京したばかりの田舎者であるから、すっかり上がってしまった。会場は化学実験の階段教室であるから聴衆が高い所に居ならんでいる。原稿を持って出たが、これを読むだけの気持の余裕がなく、無我夢中、やたらにカン高い声でしゃべってしまったが、わが生涯最初の演説はさんざんの失敗であった。これで演説はむずかしいものとキモに銘じた。
      『浅沼稲次郎 私の履歴書ほか』日本図書センター

 

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浅沼稲次郎(あさぬま いねじろう、明治31年(1898)~ 昭和35年(1960)日本の政治家。東京府三宅村(現在の東京都三宅村)出身。日本社会党書記長、委員長を歴任

 上記の府立三中は、校長・八田三喜の方針で、早くから教科「唱歌」を教育課程に取り入れるなど、文化活動に対して先進的なところがあった学校でした。
  ただ、残念ながら、旧制中学校の沿革史や学校一覧などで学芸会に言及したものは未見です。(高等女学校では記載が結構ありますが)

     そこで、一つ考えられるのは、校友会の中にある弁論部の行事です。

  大正年間の東京府立一中(現在の都立日比谷高等学校)の校友会・弁論部では、毎年の例会や大会において「邦語演説」と並んで「英語暗誦」が行われていました。(「東京府立第一中学校創立五十年史」)

 

 #高等女学校では学芸会は定番の学校行事でした。

    

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大正13年磐城高等女学校学芸会 英語対話「英国の少女」四学年)