名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

久米正雄『父の死』① 「御真影」

 

『父の死』
 作者数え8歳の時、校長をしていた父の学校が失火。校舎とともにご真影(天皇の写真)も焼失した。その責任を感じ父は割腹自殺をする。その事件を素材とした作品。

 その明くる朝、私が起きた時父はまだ帰つてゐなかつた。私は心痛で蒼ざめてゐる母の顔を眺めて、無言の中にすべてを読んだ。そして台所で手水(てうづ)を使つてゐる中に、そこにゐた人々の話から、火事の原因が小使の過失らしい噂と、六角塔が瞬く間に焼け落ちて、階上に収めた御真影と大切な書類がすつかり焼けて了つた事を知つた。自分には最初その御真影と云ふ言葉が解らなかつた。それで再び其男の説明によつて解つたけれども、依然として其焼失がそれ程重大なものであるとは考へもつかなかつたのである。(幼なき無智よ!)
  (中略)
 火事場に近づくと妙な匂ひが先づ鼻を搏つた。そしてそれと覚しいほとりには、白い処々黄まだらな煙りが濛々と騰(あ)がつた、その煙りの中を黒い人影が隠見してゐた。
    私は立並んでゐる幾人かの人に交つて、焼け残つた校門の傍に立つた。裾から立昇る煙りの上には、落ち残つた黒い壁と柱の数本が浅ましく立つてゐた。
 「どうだい。よく燃えたもんぢやないか。」見物の一人が顧みて他の一人に云つた。
 「うむ、何しろ乾いてると来た上、新校舎がペンキ塗りだらう。堪まりやしないよ。」と一人が答へた。
 「またゝく間に本校舎の方へ移つたのだね。」
 「うむ、あの六角塔だけは残して置きたかつた。」
 「でも残り惜しさうに骸骨が残つてるぢやないか。」
 かう云つて二人は再び残骸を見た。併しその顔には明かに興味だけしか動いてゐなかつた。私にはその無関心な態度が心から憎らしかつた。
 他の一群では又こんな事を話し合つてゐた。そしてそこでは私は明かに父の噂を聞き知つた。
 「何一つ出さなかつたつてね。」
 「さうだとさ。御真影まで出だせなかつたんだとよ。」
 「宿直の人はどうしたんだらう。」
 「それと気が附いて行かうとした時には、もう火が階段の処まで廻つてゐたんださうだ。」
 「何しろ頓間(とんま)だね。」
 「それでも校長先生が駆けつけて、火が廻つてる中へ飛び込んで出さうとしたけれども、皆んなでそれをとめたんだとさ。」
 「ふうむ。」
 「校長先生はまるで気狂ひのやうになつて、どうしても出すつて聞かなかつたが、たうとう押へられて了つたんだ。何しろ入れば死ぬに定まつてゐるからね。」
 「併し御真影を燃やしちや校長の責任になるだらう。」
 「さうかも知れないね。」
 「一体命に代へても出さなくちやならないんぢや無いのか。」
 「それはさうだ。」
 私は聞耳を立てゝ一言も洩らすまいとした。併し会話はそれ以上進まなかつた。要するに彼等も亦また無関係の人であつたのである。が、彼等の間にも、御真影の焼失といふことが何かしらの問題になつてゐて、それが父にとつて重大なのだと云ふ事だけは感知された。
 その中(うち)に群集の中に「校長先生が来た。校長先生だ。」と云ふ声が起つた。
 其時、私は向うの煙りの中から、崩れた壁土を踏み乍ら、一人の役人と連れ立つて此方へやつてくる父の姿を見た。門のほとりにゐた群集は、自づと道を開いて二人の通路を作つた。平素(いつも)の威望(ゐぼう)と、蒼白な其時の父の顔の厳粛さが自(ひと)りでに群集の同情に訴へたのである。二人は歩き進んだ。そして、私ははつきり父の顔を見る事が出来た。広い薄あばたのある顔が或る陰鬱な白味を帯びて、充血した眼が寧ろ黒ずんだ光りを有(も)つてゐた。そして口の右方に心持皺を寄せて、連れを顧みて何か云はうとしたが、止めた。
 私は進んで小さな声で「お父さん。」と呼んでみた。何か一言父に向つて云はなくちやならぬやうな悲痛なものを、父はうしろに脊負つてゐたのである。

 底本:「ふるさと文学館 第二四巻 【長野】」ぎょうせい
   1993(平成5)10月15日初版発行
 初出:「新思潮」
    1916(大正5)年2月号

  久米正雄
[明治24年~昭和27年:1891~1952]小説家・劇作家。長野の生まれ。俳号、三汀。菊池寛芥川龍之介らとともに第三次・第四次「新思潮」同人として活躍。のち、通俗小説に転じた。戯曲「牛乳屋の兄弟」、小説「受験生の手記」「破船」など。 (デジタル大辞泉

  

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■ 御真影とは

   御真影(ごしんえい)は、天皇(皇后)の肖像写真や肖像画のことです。
 エドアルド・キヨッソーネが描いた明治天皇肖像画をもとに作られた御真影がもっとも有名です。

 

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明治22年に公布された明治天皇・皇后両御真影

 

■ 御真影の下付

 初めて学校に御真影が下付されたのは、明治7年(1874)の開成学校(東京大学の前身の一つ)においてでした。以後も東京師範学校、東京女子師範学校など官立の学校に対して行われました。
  これは、官立学校の生徒に対して国家元首である天皇の存在を周知させようとしたものと言われています。

 初めは官立学校に限られていた御真影の下付を府県立以下の学校に拡大したのは、初代文部大臣の森有礼でした。

 

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 彼は、近代国家建設のため、国家に対し忠誠を尽す国民を作り出すことを目的に した教育政策を推進した。その際、彼がその目的達成のための「手段」として利用した のが天皇への「忠誠心」であった。森有礼は、この天皇に対する「忠誠心」を喚起させるための施策として、官立学校のみに限られていた「御真影 」下付を府県立学校へも拡大し、かつ国家の祝日にそれに対して拝礼を行う学校儀式の導入を行った。
(小野雅章 「学校下付「御真影」の 普及過 程 とその初期「奉護」の形態」

    明治年間では次のように下付(下賜)の範囲が広がっていきました
     1887 (明治20)  府県立尋常師範学校、尋常中学校
     1889 (明治22)  公立高等小学校
     1908 (明治41)  公立尋常小学校
     1910(明治43)   私立尋常中学校 高等女学校 
     1911 (明治44)   私立専門学校 中学校程度の実業学校

 

■ 御真影の奉護 -宿直者の任務ー

   御真影教育勅語謄本は、宮内省から「貸与」されていましたので、極めて慎重な取り扱いが要求されていました。
 各学校では、その管理について厳密な規定を設けていました。
  次は、明治三十五年の『静岡県立浜松中学校一覧』のそれです。
 

  第四  御真影並ニ勅語謄本奉衛手続
第一条 御真影並ニ勅語謄本奉置ノ場所ハ講堂上段ノ間トシ宿直員ニ於テ之ヲ保管スルモノトス
第二条 御真影並ニ勅語謄本奉置ノ場所ハ宿直員ニ於テ学校内外巡視ノ際特ニ注意ヲ加フヘキモノトス
第三条 天災地異等ニ際シ御真影並ニ勅語謄本ニ危険ノ虞(おそれ)アリト認ムルトキハ宿直員ハ勿論(もちろん)其他学校職員ニ於テ直(ただ)チニ奉遷場ニ奉遷スベキモノトス
        第一奉遷場 浜名郡役所
   第二奉遷場  元城町報徳館
第四条 前条の奉遷場ニ奉遷シタルトキハ必ズ警衛者ヲ置クベキモノトス
第五条 御真影並ニ勅語謄本奉置セル室ニハ猥(みだ)リニ出入ヲ禁ジ洒掃(さいそう)ノトキハ校長若クハ教諭(奏任待遇)其ノ任ニ当タルモノトス

    ※「奉衛(お守りすること)」、「奉遷(移動すること)」

 

 昔の学校では、休日・夜間に「宿日直」という業務がありました。

 その本来的な意味について、佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』は次のように述べています。

 

 この教員宿日直制が、御真影勅語謄本との保管警備に発端していたことは、あまり知られていない。(中略)

 その本命はなんといっても、御真影勅語謄本の警備であり、非常の際に搬出するための「からびつ」や「しょいこ」が用意され、第一「奉遷場」(「行在所」と呼ぶ例もあった)はどこ、そこが危なくなったら第二「奉遷場」へと、こと細かく規定されていた。

 

 漱石の『坊っちゃん』には、着任したばかりの主人公が、宿直の夜に勝手に温泉に出かける場面がありますが、とんでもないことだったのですね。

 場合によっては、命がけの業務であったと言えます。