名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

久米正雄『父の死』② 「御真影に殉死」

 

    その明くる日父は突然自殺して了つた。
   こんな事も危惧されてゐたのだが、まさかと打消してゐた事が事実となつて家人の目前に現はれて了つた。家人は様子が変だと云ふので、出来るだけの注意もし、家の中の刀剣なぞは知らないやうに片づけて置いた。併し父が詩書類を積み重ねた書架の奥に吉光(よしみつ)の短刀を秘して置いたのを誰一人知る者がなかつたのである。
  (中略)
   その時書斎の方では急を聞いた人々が集まつて来た。そして父を母の膝から下ろして普通に臥させた。急いで駆けて来た父の碁友達の旧藩士の初老が、入つてくるといきなり父の肌をひろげて左腹部を見た。そこには割合に浅いが二寸ほどの切傷が血を含んで開いて居た。その人は泣かん許りの悦びの声でそれを指し乍ら叫んだ。
 「さすがは武士の出だ。ちやんと作法を心得てる!」
   父は申訳ほど左腹部に刀を立て、そしてその返す刀を咽喉(のど)にあてゝ突つぷし、頸動脈を見事に断ち切つて了つたのであつた。人々は今その申訳ほどのものに嘆賞の声をあげてゐる。母すら涙の中に雄々しい思ひを凝めて幾度か初老の言葉にうなづいた。併し私にはどうしてそれが偉いのか解らなかつた。がえらいのには違ひないのだと自らを信じさせた。
   その夜の宿直の先生も来た。この人は母や私の前へ手をついて涙を流して詫びた。学校の小使は玄関で膝をついて了つて、「申訳がございません。申訳ございません。」と云つて、顔をあげ得なかつた。
   感動が到る処にあつた。
   やがて此報知(しらせ)が上田の町家(ちやうか)の戸(こ)から戸へ伝へられると、その夜の静かに燃える洋燈(らんぷ)の下では、すべての人々がすべての理由を忘れて父の立派な行為を語り合つた。(六)

 

■ 御真影に殉じた教師たち
   

 当時は一部の高等教育機関を別にして、ほとんどの学校が木造建築であったために、火災による御真影焼失が大きな問題でした。
 中でも、明治三十一年(一八九八)3月27日に長野県の町立上田尋常高等小学校(現在の上田市清明小学校)で、明治天皇の行在所(あんざいしょ)となった本館校舎が全焼し、御真影が焼失した際は、上の引用のように校長・久米由太郎(くめよしたろう)がその責任を取って割腹自殺するという痛ましい事件が起こりました。

 

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(上田街学校  
明治11年(1878)に明治天皇の北陸巡幸が行われ、上田は9月17日の宿泊地となった。その行在所(あんざいしょ)にあてられたのが、この日のために町の総力をあげて新築された上田街(まち)学校の3階建ての洋風建築だった。上田市立博物館  https://museum.umic.jp/hakubutsukan/syuzouhin/small/small_0100.html

 

 また、明治四十年(一九○七)一月、宮城県立仙台第一中学校(現在の宮城県立仙台第一高等学校)で校舎が全焼した際には、御真影を「奉遷」しようとした宿直者の書記が殉職するという悲劇も生じました。

 『教育塔誌』(帝国教育会、昭和十二年、学制発布以降、学校教育時間内において不慮の災厄で死亡した教職員137名、児童・生徒・学生計1435名の氏名を掲載)には、明治二十九年(一八九六)から昭和十二年(一九三七)までの四十年余の間に、この種の「殉職者」が十七名もあったことが記されています。 
    ただ、久米正雄の父については、火災による殉死ではないためでしょうか、掲載はありません。(下は殉職者と殉職の事由についての記載例)

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「学校火災に罹(かか)りたるを以て直ちに馳(は)せて学校に至り挺身(ていしん)火中に入りて御真影を奉遷せんとし遂に殉職す」とあります。

 

■  奉安殿

 こうした一連の痛ましい事件は、新聞の大きく報道するところとなり、文部省は御真影「奉護」について本格的に取り組むことになりました。
   その結果、昭和に入ると、神殿型鉄筋コンクリート造りの「奉安殿」による御真影奉護という形態が全国的に広まっていくことになります。
 なお、この時代、児童生徒は毎日の登下校時に、御真影教育勅語謄本の収められた奉安殿の前では拝礼(最敬礼)を行うこととされていました。

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(愛知県碧南市・霞浦神社境内の元奉安殿。http://kinjiro.a.la9.jp/hoanden.htm