夏目漱石『三四郎』① 「9月入学」
学年は九月十一日に始まった。三四郎は正直に午前十時半ごろ学校へ行ってみたが、玄関前の掲示場に講義の時間割りがあるばかりで学生は一人ひとりもいない。自分の聞くべき分だけを手帳に書きとめて、それから事務室へ寄ったら、さすがに事務員だけは出ていた。講義はいつから始まりますかと聞くと、九月十一日から始まると言っている。すましたものである。でも、どの部屋を見ても講義がないようですがと尋ねると、それは先生がいないからだと答えた。三四郎はなるほどと思って事務室を出た。(中略)
翌日は正八時に学校へ行った。正門をはいると、とっつきの大通りの左右に植えてある銀杏(いちょう)の並木が目についた。銀杏が向こうの方で尽きるあたりから、だらだら坂に下がって、正門のきわに立った三四郎から見ると、坂の向こうにある理科大学は二階の一部しか出ていない。その屋根のうしろに朝日を受けた上野の森が遠く輝いている。日は正面にある。三四郎はこの奥行のある景色を愉快に感じた。
(中略)
けれども教室へはいってみたら、鐘は鳴っても先生は来なかった。その代り学生も出て来ない。次の時間もそのとおりであった。三四郎は癇癪(かんしゃく)を起こして教場を出た。そうして念のために池の周囲(まわり)を二へんばかり回って下宿へ帰った。
それから約十日ばかりたってから、ようやく講義が始まった。(三)
底本:「三四郎」角川文庫クラシックス、角川書店
1951(昭和26)年10月20日初版発行
1997(平成9)年6月10日127刷
初出:「朝日新聞」
1908(明治41)年9月1日~12月29日
「青空文庫」(https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html)
『三四郎』(さんしろう)は、夏目漱石の長編小説である。1908年(明治41年)、「朝日新聞」に9月1日から12月29日にかけて連載[1]。翌年5月に春陽堂から刊行された。『それから』『門』へと続く前期三部作の一つ。全13章。
九州の田舎(福岡県の旧豊前側)から出てきた小川三四郎が、都会の様々な人との交流から得るさまざまな経験、恋愛模様が描かれている。三四郎や周囲の人々を通じて、当時の日本が批評される側面もある。三人称小説であるが、視点は三四郎に寄り添い、時に三四郎の内面に入っている。「stray sheep」という随所に出てくる言葉が印象的な作品である。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
■ 高等学校から帝国大学へ
主人公の小川三四郎(23歳)は熊本の第五高等学校(現在の熊本大学)を終えて、東京帝国大学文科大学(後の文学部)に入学すべく上京します。
モデルとなったのは、漱石の弟子のひとり小宮豊隆(明治17年~昭和41年:1884~1966、旧制の福岡県立豊津中学校:現在の福岡県立育徳館高等学校から第一高等学校 (旧制)を経て東京帝国大学文学部)と言われています。
(明治41年学校系統図)
この『三四郎』という作品は「朝日新聞」 に連載された明治41年(1908)頃を時代背景としていると仮定してみます。(作中の会話から明治38年の日露戦争後であることは間違いないのですが・・・)
その頃全国に八校あった高等学校(第一高等学校から第八高等学校まで。ただし八高・名古屋は創設直後)の卒業生の総数は1269人でした。その年の20歳の男子の数で割ると、0.29%。約350人に一人という超エリートでした。
それらの卒業生はほぼ全員が帝国大学に進学できました。明治40年のデータでは、東京帝大に986名(78.5%)、京都帝大に259名(21.0%)という数字が残っています。(竹内洋『日本の近代12ー学歴貴族の栄光と挫折』)
高等学校を卒業すれば、ほとんど「無試験の状態」で帝国大学へ進学できたわけです。
中でも、三四郎のような文科進学者の場合は、医科、法科などと違って、後々までもそういう状況が見られました。
(旧制第五高等学校、https://www.eng.kumamoto-u.ac.jp/faculty/history/history1/)
■ 九月学年始期から4月始期へ
何年ほど前でしょうか。東大では九月入学を検討しているというニュースを見たことがありました。(2012年1月20日、5年後をめどに全学部生を秋入学へ移行する方針を打ち出した東京大学、https://www.hrpro.co.jp/glossary_detail.php?id=5)
2019年現在、東大の9月入学はまだ実現はしていませんが、海外との交流が盛んな大学の中には、定員の一部に秋入学を取り入れているところが増えてきています。
そもそも、アメリカ、イギリスをはじめ、世界の約7割の大学が9月・10月に入学する制度になっているということで、秋に学年が始まるというのが「グローバルスタンダード」なのだそうです。
小川三四郎の頃の東大(東京帝国大学)は、9月に学年が始まっていますが、現在のように4月始まりになったのは、なぜなのでしょうか。
そのあたりの経緯について、佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』は次のように述べています。
日本でも近代化のスタートを切った明治前半期では、大学を初め小学校まで九月学年始期が多かったのであり、帝国大学や旧制高校ではなんと一九二○(大正九)年まで九月学年始期だったのである。
学年始期を四月にした最初は、一八八六(明治十九)年高等師範学校(後の東京教育大学の前身)であった。一八八八年には府県立尋常師範学校が、文部省の指示によりこれに従った。その理由には、次の三点が挙げられる。(以下は要約)
第一 陸軍との人材獲得競争
一八八六(明治十九)年十二月「徴兵令」の改正により、壮丁の届出期日が9月一日から四月一日に改められ、壮健で学力ある人材が陸軍にとられてしまうために、始期を繰り下げた。
第二 国や県の会計年度に合わせた。
会計の年度が一八八六(明治十九)年、従来の七月~翌六月から、四月~翌三月に変更され、徴兵事務もそれに合わせた。
第三 学年末試験が蒸し暑い六月中下旬に行われ、学生の健康上良くないということ。
# でも、やっぱり入学式は「桜」の頃がいいですよね❗️