名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

夏目漱石『三四郎』② 「おじいさんの西洋人教師」

   それから約十日ばかりたってから、ようやく講義が始まった。三四郎がはじめて教室へはいって、ほかの学生といっしょに先生の来るのを待っていた時の心持ちはじつに殊勝(しゅしょう)なものであった。神主(かんぬし)が装束(しょうぞく)を着けて、これから祭典でも行なおうとするまぎわには、こういう気分がするだろうと、三四郎は自分で自分の了見を推定した。じっさい学問の威厳に打たれたに違いない。それのみならず、先生がベルが鳴って十五分立っても出て来ないのでますます予期から生ずる敬畏(けいい)の念を増した。そのうち人品のいいおじいさんの西洋人が戸をあけてはいってきて、流暢(りゅうちょう)な英語で講義を始めた。三四郎はその時 answer(アンサー)という字はアングロ・サクソン語の and-swaru(アンド・スワル)から出たんだということを覚えた。それからスコットの通った小学校の村の名を覚えた。いずれも大切に筆記帳にしるしておいた。その次には文学論の講義に出た。この先生は教室にはいって、ちょっと黒板(ボールド)をながめていたが、黒板の上に書いてある Geschehen(ゲシェーヘン) という字と Nachbild(ナハビルド)という字を見て、はあドイツ語かと言って、笑いながらさっさと消してしまった。三四郎はこれがためにドイツ語に対する敬意を少し失ったように感じた。先生は、それから古来文学者が文学に対して下した定義をおよそ二十ばかり並べた。三四郎はこれも大事に手帳に筆記しておいた。 (中略)
    講義が終ってから、三四郎はなんとなく疲労したような気味で、二階の窓から頬杖(ほおづえ)を突いて、正門内の庭を見おろしていた。
(中略)

   さっきポンチ絵をかいた男が来て、
 「大学の講義はつまらんなあ」と言った。三四郎はいいかげんな返事をした。じつはつまるかつまらないか、三四郎にはちっとも判断ができないのである。しかしこの時からこの男と口をきくようになった。 (三)

  # 『三四郎』の作中時間は明治40年(1907)九月に始まるということと、彼が入学したの英文学科だというのが作品研究の定説となっているそうです。(不勉強でした!)

 

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(「三四郎本郷キャンパスツアー」より、 https://juken.y-sapix.com/articles/2977.html)

 

■ 英文学科の老外国人教師

  さすがに母校英文学科の講師を務めていた漱石だけあって、講義の描写も大変詳しいものになっています。
    さて、その「人品のいいおじいさんの西洋人」ですが、明治40年(1907)の『東京帝国大学一覧』から、ジョン・ロレンスJohn Lawrence (1850~1916年、明治39~大正5年:1906-1916東大在任)がモデルであることは間違いないようです。

 

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 ロレンスはイギリスのデポンシャ一生れ。小学校教師をしながらカレッジに通い、ロンドン大学に進んで1878年修士号まで取得した。パリ・ベルリンなどに留学後、1891年から94年までチェコプラハ大学で英語学を教えた。この間、1892年にロンドン大学から文学博士号を取得。そののちオックスフォード大学:ユニヴァーシティ・カレッジに入り、1898年に48歳で卒業した。オックスフォードとロンドン大学ベッドフォードカレッジで教えた。 1906年(明治39)9月、日本の文部省からの要請に応じて来日、東京帝国大学文科大学の外国人教師となる。(橋川俊樹 「小川三四郎が〈英文学者〉となる未来 : ジョン・ロレンスの学統と「助教授B」千葉勉の航跡に照らして」より)

  経歴を見ると、このロレンスという先生は、ずいぶんと晩学でいろいろと回り道をされた、いわば刻苦勉励の人という印象がありますね。

  ロレンスのような立場の人は、一般に「お雇い外国人」とか「外国人教師」と呼ばれていましたが、正式には「(外国人)講師」でした。

 当時は日本人でないと教授にはなれなかったのです。

 

 この英文学科では、数年前から夏目金之助漱石が、ラフカデイオ・ハーン(小泉八雲)のあとを受けて、アーサー・ロイド、上田敏とともに講師を務めていました。(教授は不在でした)

 ところが、三四郎が入学した 明治40年(1907)9月時点では、 3月に漱石が大学を去ってしまっており、間もなく上田敏も留学のため大学を離れることになっていました。
   大学側は、夏目金之助漱石)を、学科初の日本人教授にと考えていたようですが、当のご本人にその気はなく、よく知られているように、月給200円で朝日新聞に入社してしまいました。
 すでに『猫』、『坊っちゃん』などで文名が上がり、創作に専念したいという気持ちが強かったこともありますが、それ以外にも、大学側に対する様々な思いがあってのことと言われています。

    そういうわけで、小川三四郎はイギリス帰りの「夏目教授」の講義を聴くことができませんでした。

     実質的に英文学科の「外国人教授」(公式には違いましたが)を務めることになった、このロレンス先生の講義については、愛弟子の市河三喜氏(東京帝大で日本人初の英語学講座担当教授)以外には、いい評判が残っていないようです。

 大正2年(1913)に東京帝国大学文科大学英吉利文学科に入学した芥川龍之介「あの頃の自分の事」では、一般の英文科学生の立場で、ロレンス先生の授業の思い出が詳しく語られています。

 

 朝の時間はもう故人になつたロオレンス先生のマクベスの講義である。松岡(譲)と分れて、成瀬(正一)と二階の教室へ行くと、もう大ぜい学生が集つて、ノオトを読み合せたり、むだ話をしたりしてゐた。我々も隅の方の机に就いて、新思潮へ書かうとしてゐる我々の小説の話をした。我々の頭の上の壁には、禁煙と云ふ札が貼つてあつた。が、我々は話しながら、ポケツトから敷島を出して吸ひ始めた。勿論我々の外の学生も、平気で煙草をふかしてゐた。すると急にロオレンス先生が、鞄をかかへて、はいつて来た。自分は敷島を一本完全に吸つてしまつて、殻も窓からすてた後だつたから、更に恐れる所なく、ノオトを開いた。しかし成瀬はまだ煙草をくはへてゐたから、すぐにそれを下へ捨てると、慌(あわ)てて靴で踏み消した。幸(さいはひ)、ロオレンス先生は我々の机の間から立昇る、縷々(るる)とした一条の煙に気がつかなかつた。だから出席簿をつけてしまふと、早速毎時(いつも)の通り講義にとりかかつた。
  講義のつまらない事は、当時定評があつた。が、その朝は殊につまらなかつた。始からのべつ幕なしに、梗概(かうがい)ばかり聴かされる。それも一々 Act 1, Scene 2 と云ふ調子で、一くさりづつやるのだから、その退屈さは人間以上だつた。自分は以前はかう云ふ時に、よく何の因果で大学へなんぞはいつたんだらうと思ひ思ひした。が、今ではそんな事も考へない程、この非凡な講義を聴く可く余儀なくされた運命に、すつかり黙従し切つてゐた。だからその時間も、機械的にペンを動かして、帝劇の筋書の英訳のやうなものを根気よく筆記した。が、その中に教室に通つてゐるステイイムの加減で、だんだん眠くなつて来た。そこで勿論、眠る事にした。
   うとうとして、ノオトに一頁ばかりブランクが出来た時分、ロオレンス先生が、何だか異様な声を出したので、眼がさめた。始めはちよいと居睡りが見つかつて、叱られたかと思つたが、見ると先生は、マクベスの本をふり廻しながら、得意になつて、門番の声色(こわいろ)を使つてゐる。自分もあの門番の類だなと思つたら、急に可笑(をか)しくなつて、すつかり眠気がさめてしまつた。隣では成瀬がノオトをとりながら、時々自分の方を見て、くすくす独りで笑つてゐた。それから又、二三頁ノオトをよごしたらやつと時間の鐘が鳴つた。さうして自分たちは、ロオレンス先生の後から、ぞろぞろ教室の外の廊下へ溢れ出した。   (下線は筆者)

 

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(左から久米正雄、松岡譲、芥川龍之介、成瀬正一)

  読み物としては面白いのですが、たしかにこんな講義が続けば、勉学の意欲がそがれること間違いありません。
    いつの時代にも、大学に入って講義を聴いて「こんなはずじゃなかった!」という思いを経験する学生はいるものですね。

 「これは大切だから、とにかく教えておきたい」という先生と「いえ、別に興味はありません」という学生の間のギャップは、そう簡単には埋まりません。
  (ただ、今頃は授業評価のアンケートがあるみたいですから、少しは違っているかもしれません。)

  

 最後に、ロレンス先生の名誉のために、上記橋川論文より。 

 ロレンスには論文がほとんど無く、著作も無かった。しかし、彼が東大で残した無形の業績には目を見張るものがある。まず、市河三喜・斎藤勇(1887-1982 、1911 卒)を始め、 土居光知 (1886-1979 、1910 卒)、沢村寅二郎 (1885 ・1945 、1910 卒)、佐藤清(1885 ・1960 、1910 卒)、豊田実(188 5- 1972 、1916 卒)などの代表的な英語英文学者を門下から輩出した。また、「ゼミナール制」を採用し、古代英語や中世英語、さらには古典語を教授した。

 

# それにしても、天下の帝大生も、教室で喫煙などと、ずいぶんとお行儀が悪いですね。そういう時代だったのでしょうか?