名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

夏目漱石『三四郎』③ 「選科生」

 

 昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、きのうポンチ絵をかいた男が来て、おいおいと言いながら、本郷の通りの淀見軒(よどみけん)という所に引っ張って行って、ライスカレーを食わした。淀見軒という所は店で果物(くだもの)を売っている。新しい普請であった。ポンチ絵をかいた男はこの建築の表を指さして、これがヌーボー式だと教えた。三四郎は建築にもヌーボー式があるものとはじめて悟った。帰り道に青木堂(あおきどう)も教わった。やはり大学生のよく行く所だそうである。赤門をはいって、二人ふたりで池の周囲を散歩した。その時ポンチ絵の男は、死んだ小泉八雲(こいずみやくも)先生は教員控室へはいるのがきらいで講義がすむといつでもこの周囲をぐるぐる回って歩いたんだと、あたかも小泉先生に教わったようなことを言った。なぜ控室へはいらなかったのだろうかと三四郎が尋ねたら、
 「そりゃあたりまえださ。第一彼らの講義を聞いてもわかるじゃないか。話せるものは一人もいやしない」と手ひどいことを平気で言ったには三四郎も驚いた。この男は佐々木与次郎(ささきよじろう)といって、専門学校を卒業して、今年また選科へはいったのだそうだ。東片町(ひがしかたまち)の五番地の広田ひろたという家うちにいるから、遊びに来いと言う。下宿かと聞くと、なに高等学校の先生の家だと答えた。
   それから当分のあいだ三四郎は毎日学校へ通って、律義(りちぎ)に講義を聞いた。必修課目以外のものへも時々出席してみた。それでも、まだもの足りない。そこでついには専攻課目にまるで縁故のないものまでへもおりおりは顔を出した。しかしたいていは二度か三度でやめてしまった。一か月と続いたのは少しもなかった。それでも平均一週に約四十時間ほどになる。いかな勤勉な三四郎にも四十時間はちと多すぎる。三四郎はたえず一種の圧迫を感じていた。しかるにもの足りない。三四郎は楽しまなくなった。(三)

 

 

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 (本科生も選科生も同じ帝大の角帽をかぶっています)

 

■ 選科生とは

 田舎出の三四郎に「つまらない講義に耳を傾けるより、世間の風というものを入れ給え」と忠告をしてくれる、この佐々木与次郎のモデルは鈴木三重吉だという説があるようです。 

 ただ、鈴木三重吉明治15年昭和11年:1882~1936、小説家・児童文学者)は明治34年(1901)、第三高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文学科に入学。夏目漱石の講義を受け、休学を経て明治41年(1908)に卒業しています。選科修了ではなく、れっきとした「文学士」です。

 

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    選科(せんか)とは、規定の学課の一部のみを選んで学ぶ課程。撰科とも表記された。本科に準ずる課程であり、日本の帝国大学においては、本科の欠員を埋め合わせる形で募集がおこなわれた
   修業年限は本科と同じように3年だったが、学校図書館の利用などに関して制限を受け、修了しても学士号は与えられなかった。旧制高等学校の卒業を入学資格とする本科と異なり、選科には旧制中学校卒業の資格でも入学が許された。なおかつ、入学後に専検や高検に合格すれば本科に転じることが認められ、それまでの在学期間も通算して3年で卒業できる利点があった。  ※ 太字・下線は筆者

フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

 今でも大学などでは、聴講生とか科目等履修生といった名称で、正式な学生でなくても、一定の条件の下で授業を聴くことができます。

 そうしたシステムと選科との大きな違いの一つは、一応「学力の試験」があったことです。

 明治40年の「東京帝国大学一覧」には次のような規定があります。

 第九章 第七 選科規程

 第三条 選科生ハ年齢十九年以上ニシテ選科主管ノ教授其学力ヲ試問シ所選ノ課目ヲ学修スルニ堪フルト認ムル者ニ限リ其入学ヲ許可スルモノトス 

 

 ■ みじめな選科生 

 

 『三四郎』の与次郎は専門学校を出たというだけで、なぜ選科で学んでいるのかというあたりは不明です。

 明治・大正の時代にあっては、ストレートに高等学校を終えたのではなく、中途退学、病気、貧困などの挫折を経験した若者が、向学の念やみがたく、帝大の選科に入っていた(入らざるを得なかった)ケースが(数は多くないものの)あったようです。

 その最も有名な例は『善の研究』で知られる哲学者・西田幾多郎(明治3~昭和20年・1870~1945)でしょう。

 西田の学修歴は以下のようでした。

     一八八二年(明治15年)四月に小学校を卒業後、一八八三年(明治16年)七月石川師範学校に入学するものの、チフスのため一年休学し、さらに一八八四年(明治17年)十月にはそこを中退する。そして一八八六年(明治19年)十月には石川県専門学校付属中学校第二級に入学する。これは、いわゆる高等中学を受験するためとされる。その後、一八八七年(明治20年)九月に第四高等中学校予科に入学し、一八八 八(明治21)年七月に卒業、さらには本科に九月に入学するが、一八九O年(明治23年)五月には中退を余儀なくされる。その後独学を目指すものの眼を患ったこともあって挫折し、東京の帝国大学文科大学哲学科選科に入学する。一八九四年(明治27年)七月に選科を修了する。 

鈴木康文「西田幾多郎と明治期の教育制度」

※太字・下線は筆者

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(第四高等中学校、後の四高ー現在の金沢大学の前身の一つー時代の西田。後列右から二人め)

 

 『三四郎』の時代からは、十数年以上前のことにはなりますが、選科生の頃を振り返って、西田は次のような文章を残しています。

 当時の選科生というものは、誠にみじめなものであった。無論、学校の立場からして当然のことでもあったろうが、選科生というものは非常な差別待遇を受けていたものであった。今いった如く、二階が図書室になっていて、その中央の大きな室が閲覧室になっていた。しかし選科生はその閲覧室で読書することがならないで、廊下に並べてあった机で読書することになっていた。三年になると、本科生は書庫の中に入って書物を検索することができたが、選科生には無論そんなことは許されなかった。 

「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」(青空文庫

図書カード:明治二十四、五年頃の東京文科大学選科

 

  

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明治40年の「東京帝国大学一覧」より。各学科に若干名の選科生の名前が掲載されています。)

 明治の時代に、東京帝大の選科に学んだ著名人としては、鈴木大拙(仏教学者)、岩波茂雄岩波書店創業者)、丘 浅次郎(動物学者)、小倉金之助(数学者)、山本有三(小説家)などの名前を挙げることが出来ます。

 いずれも様々な挫折、苦難を乗り越えて、それぞれの分野に大きな足跡を残された方ばかりです。