名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

石川啄木『雲は天才である』② 「教授細目」

 

    二三日以前、自分は不圖した轉機(はずみ)から思附いて、このS――村小學校の生徒をして日常朗唱せしむべき、云はゞ校歌といつた樣な性質の一歌詞を作り、そして作曲した。
   (中略)
 一日二日と見る/\うちに傳唱されて、今日は早や、多少調子の違つた處のないでもないが、高等科生徒の殆んど三分の二、イヤ五分の四迄は確かに知つて居る。晝休みの際などは、誰先立つとなく運動場に一蛇(だ)のポロテージ行進が始つて居た。彼是(かれこれ)百人近くはあつたらう、尤も野次馬の一群も立交つて居たが、口々に歌つて居るのが乃ち斯く申す新田耕助先生新作の校友歌であつたのである
  (中略)
 古山が先づ口を切つた。『然し、物には總て順序がある。其順序を踏まぬ以上は、……一足飛びに陸軍大將にも成れぬ譯ですて。』成程古今無類の卓説である。
  校長が續いた。『其正當の順序を踏まぬ以上は、たとへ校歌に採用して可いものであつても未だ校歌とは申されない。よし立派な免状を持つて居らぬにしても、身を教育の職に置いて月給迄貰つて居る者が、物の順序を考へぬとは、餘りといへば餘りな事だ。』
  (中略)
  『ハヽア、それで何ですな、私の作つたのは、其正當の順序とかいふ手數にかけなかつたので、詰り、早解りの所が、落第なんですな。結構です。作者の身に取つては、校歌に採用されると、されないとは、完く屁の樣な問題で、唯自分の作つた歌が生徒皆に歌はれるといふ丈けで、もう名譽は十分なんです。ハヽヽヽヽ。これなら別に論はないでせう。』
 『然し、』と古山が繰り出す。此男然しが十八番おはこだ。『その學校の生徒に歌はせるには矢張り校長さんなり、また私なりへ、一應其歌の意味でも話すとか、或は出來上つてから見せるとかしたら隱便で可いと、マア思はれるのですが。』
 『のみならず、學校の教案などは形式的で記(しる)す必要がないなどと云つて居て、宅(うち)へ歸ればすぐ小説なぞを書くんださうだ。それで教育者の一人とは呆れる外はない。實に、どうも……。然し、これはマア別の話だが。新田さん、學校には、畏くも文部大臣からのお達しで定められた教授細目といふのがありますぞ。算術、國語、地理、歴史は勿論の事、唱歌、裁縫の如きでさへ、チヤンと細目が出來て居ます。私共長年教育の事業に從事した者が見ますと、現今の細目は實に立派なもので、精に入り微を穿つとでも云ひませうか。彼是十何年も前の事ですが、私共がまだ師範學校で勉強して居た時分、其の頃で早や四十五圓も取つて居た小原銀太郎と云ふ有名な助教諭先生の監督で、小學校教授細目を編んだ事がありますが、其時のと今のと比較して見るに、イヤ實にお話にならぬ、冷汗(ひやあせ)です。で、その、正眞(ほんたう)の教育者といふものは、其完全無缺な規定の細目を守つて、一毫亂れざる底(てい)に授業を進めて行かなければならない、(中略)尤も、細目に無いものは一切教へてはならぬといふのではない。そこはその、先刻から古山さんも頻りに主張して居られる通り、物には順序がある。順序を踏んで認可を得た上なれば、無論教へても差支へがない。若しさうでなくば、只今諄々(じゆん/\)と申した樣な仕儀になり、且つ私も校長を拜命して居る以上は、私に迄責任が及んで來るかも知れないのです。それでは、何うもお互に迷惑だ。のみならず吾校の面目をも傷つける樣になる。』  (一)

 

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 中川信夫監督「若き日の啄木 雲は天才である」( 新東宝、昭和29年:1954年5月25日公開)のポスター

 

■ 教授細目とは
   

     主人公は、思いつきで校歌(校友歌)を作ろうとしました。そのことで校長と主席訓導から叱責されているのが、上の部分になります。
    二人は、教授細目を例にとって、物事には順序があり、今回の行動がいかにも軽率であるかをわからせようとしますが・・・・。

 

    さて、繰り返し出てくる「教授細目」とはどういうものだったのでしょうか。
 『精選版 日本国語大辞典』には、「学習指導計画、学習指導案に相当する、旧学制下の用語。教科ごとの教材を各学期、各週に配列し、教材の指導目標、内容、方法などを書き、授業の予定を示したもの」という説明があります。

   これは今風に言うならば、シラバス」(syllabus)のことになります。
  もともとはギリシャ語 sillybos(文書の内容、目次)に由来しており、『ジーニアス英和辞典』(大修館)では、「講義などの摘要、概要、要旨、教授細目、時間割、学生要覧」などと訳されています。

 

  【今どきのシラバス】 ※母校で教授をしている同期の深沢氏と校長上がりで非常勤講師をしている佐々木氏が担当している「教育課程論」。

  

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 この教授細目という言葉が初めて登場したのは、明治24年(1891)の「小学校教則大綱」においてでした。
   その第二十条に「小学校長若(もし)クハ首席教員ハ小学校教則二従ヒ其(その)小学校二於テ教授スヘキ各教科目ノ教授細目ヲ定ムヘシ」という規定があります。
 これによって各学校は、地域の実情に即応して「教授細目」を定めなければならないことになったわけです。
 こうして、 国:「小学校教則大綱」→府県:「小学校教則」→各学校:「教授細目」→各教員「教授週録」という「整然とした学科課程の管理組織の確立」(文部科学省『学制百年史』)が見られたのでした。

 

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 各府県の師範学校付属小学校は、管内の小学校の模範たるべき性格を持たされていたために、毎年各教科の教授細目を作成、印刷して頒布していました。

上:「明治41年石川県師範学校教授細目・上」の表紙

下:「歴史」尋常科五年、高等科一年の最初の部分

 

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(旧渋民尋常高等小学校の教室、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=01556006234
 

 # 教室での啄木(蒼丘書林『回想教壇上の文学者』より)

佐藤 教科書は使っていましたか。
遠藤 ちゃんと教科書を使ってました。
秋浜 教え方は厳しかったけれど、今考えると話し上手な人で、私らの心をどんどん引っ張っていった先生でした。(後略)
米田(清) 鞭はこわれるほどよく叩いたな。それで使い物にならなくなると、学校のそばの藪から、枯れたいい竹を切ってきて使うです。
遊座 そうすると、奔放なやり方というのではなくて、むしろ、マジメ型教師という感じ・・・・。
立花 笑わない先生だった。
一同 そう。笑った顔は覚えていない。
     (中略)
立花・玉山(松) 唱歌の時間には、自分で作った歌をうたわせた。たとえば
  長く流るる北上の/濁らぬ水に洗いつつ/吾等の心とこの体/きれいにやさしく磨き上げ/あまたの人にほめられて/えらい人になりましょう
玉山(松) それから、こんなのもあった。
  東は姫神山/西には岩手山/その真ん中流れる北上川

そのほとりに立つ/わが渋民尋常高等小学校
(出席者は明治39年当時の尋常科二年生で啄木の受け持った人たち。座談会は70余年後のことでした)