小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

山本有三『路傍の石』④ 「私立大学の専門部」

 

 日給が取れるようになると、彼は前の学校の近くにある、私立大学の商科の夜学専門部にはいった
(中略)
 ところが、前の学校の近くまで行くと。門の前は学生で黒くなっていた。ビール箱の上に乗って、演説している学生もあった。吾一は思わず足をとどめた。
「・・・・諸君、諸君はこれでも黙っているのか。これでも学校の言うなりになっているのが、生徒の本分だと思っているのか。」
「ノー、ノー。」
「学校当局は、今度もまた学校改善のためだという。しかしながら、諸君、改善の名や美しといえど、改善、改善と叫びながら、学校は今までに、いったい何を改善してくれたのだ。」
(中略)
「あれはな、生徒が演説をやっているんじゃない。教師がやっているんだ。ビール箱の上に乗っかっているのは、生徒だが、あれはただの人形だよ。学校騒動っていうと、世間では生徒が騒いでいるように思っているけれども、本当は生徒が騒いでいるのではない。生徒を騒がせているのだ。」
「先生のうちにそんな人がいるんですか。」
「怖い世の中だよ。同じ学校に働いていながら、内実は敵味方だ。どこの学校でもとは言えないが、大抵の学校には、中に党派があってな、お互いに、相手の落ち度を見つけ出しては、たたき落そうとしているのだ。」(「学校」一)

 

(結局、次野先生はこの騒動の結果、教員免許を持っていないことを理由に整理・解職された20名近くの一人に含まれてしまいました。)

 

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■ 「私立大学の夜学専門部」へ

 

 吾一が卒業した「夜間の商業学校」というのは、作中に「生徒の間から甲種昇格運動が起こってきましたからね。」(「あらしのあと」一)という教員の言葉があって、明治32年(1899)の「実業学校令」に規定された「乙種商業学校」(修業年限を3年以内、入学資格を12歳以上で高等小学校2年修了程度とする)であることがわかりました。
 そうした学歴しか持たない吾一が、「私立大学の商科の夜学専門部にはいった」となると、ちょっと違和感を覚えてもおかしくはないでしょう。
 どうも、受験勉強をしているような形跡もありませんし、また、それが可能な状況でもありません。
 そこで、明治30年代後半あたりの私立大学専門部や専門学校のことを調べてみると、いろんなことがわかってきました。

  専門部(せんもんぶ)とは、第二次世界大戦前の日本に旧制大学の付属機関として設置されていた教育組織である。専門部は、大学令に基づく組織ではなく、専門学校令に基づく別教育機関であり、実学を中心とした教育組織であった。多くは○○大学付属専門部○科ないしは○○大学付属××専門部という名称となっている。
    出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

 

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 「専門部」は多くの私学において、財政的な基盤を担っていました。つまり、学生数においても「大学部」の数倍の学生を収容して、その授業料を収入源としていたわけです。
    多くの 私学では、予科を経なければ進めない「大学部」よりも、 中学卒業程度の学力があれば入学することができる「専門部」(本科)のほうが人気を博していました。

    さらに、「別科」にあっては学力や学歴を問わないことから、吾一のように中学校に進めなかったような苦学生を多く収容していたということです。
     こうして、「大学」を名乗りながら、「専門部」へ入学者が集中したのは、比較的短期間での「速成」が可能であったことと、何よりも「夜間開講」であっ たことが大きな要因でした。

 作中では「夜学専門部」という表現がされていますが、専門部はほとんどすべてが「夜学」であったのです。
   この当時、東京にあった商学の専門部をもつ大学しては、次の学校が挙げられます。

 早稲田大学  中央大学   日本大学  法政大学  明治大学

 

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専修大学の正門、大正6年:1917、https://www.senshu-u.ac.jp/event/20180227-00000350.html

※正門の左には「高等予備校」の看板が見られます。私立大学の中には経営のために、官立の高等学校受験のための予備校を併設しているところがありました。

    学生の服装がいかにも勤労青年といった風ですが、中には壮年といってよいような人も写っています。昼間の学校と違って、学生の年齢層が広かったのでしょう。

 

■ 授業も教師もパートタイム

 

 明治時代前半の私立学校の授業は大部分が午後または夜間に行われていました。

 その後、経営が安定するにつれて昼間の授業が増えてきましたが、法政・日本・専修などの私立大学では、大正の初めでも夜間部が中心の授業形態をとっていました。

(天野郁夫『旧制専門学校』)

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 明治期の授業風景、「だから、専修!2013」より、https://yab.yomiuri.co.jp/adv/senshu/dakara-senshu/ds01.html

 こうした授業形態は、吾一のように昼間働きながら「苦学」を続け、「立身出世」を夢見る青年には好都合でした。

 一方で、この形態は、財政面から専任教員を雇えず、非常勤講師に全面依存していたこれらの学校にとっては、教員の確保ができるという点でもメリットのあるものでした。

 明治大学の専門部には、明治37年(1904)の時点で65名の講師がいましたが、それらの講師の本職は司法官28、弁護士、東京帝大教授6、行政官・会社員4、その他11となっていました。(天野・前掲書)

 卒業生を海外へ留学させるなどの努力をしていた早稲田、慶応の両校を除くその他の学校にとっては、教員を「自給」するなど至難のことというのが実態であったようです。