名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

島崎藤村『夜明け前』① 「上等・下等小学校」

 

 

 一方にはまた、学事掛りとしても、村の万福寺の横手に仮校舎の普請の落成するまで、さしあたり寺内を仮教場にあて、従来寺小屋を開いていた松雲和尚(しょううんおしょう)を相手にして、できるだけ村の子供の世話もしなければならないからであった。子弟の教育は年来の彼のこころざしであったが、まだ設備万端整わなかった。(第二部第八章)

  
    

    新時代の教育はこの半蔵の前にひらけつつあった。松本までやって来て見て、彼は一層その事を確かめた。それは全く在来の寺小屋式を改め、欧米の学風を取りいれようとしたもので、師範の講習もその趣意のもとに行なわれていた。その教育法によると、小学は上下二等にわかたれる。高等を上とし、尋常を下とする。上下共に在学四か年である。下等小学生徒の学齢は六歳に始まり九歳に終わる。その課程を八級にわかち、毎級六か月の修業と定め、初めて学に入るものは第八級生とするの順序である。教師の心得(う)べきことは何よりもまず世界の知識を児童に与えることで、啓蒙(けいもう)ということに重きを置き、その教則まで従来の寺小屋にはないものであった。単語図を教えよ。石盤を用いてまず片仮名の字形を教え、それより習字本を授けよ。地図を示せ。地球儀を示せ。日本史略および万国地誌略を問答せよの類(たぐい)だ。試みに半蔵は新刊の小学読本を開いて見ると、世界人種のことから始めてある。そこに書かれてあることの多くはまだ不消化な新知識であった。なお、和算と洋算とを学校に併(あわ)せ用いたいとの彼の意見にひきかえ、筑摩県の当局者は洋算一点張りの鼻息の荒さだ。いろいろ彼はおもしろくなく思い、長居は無用と知って、そこそこに松本を去ることにした。ただ小倉啓助のような人を自分の村に得ただけにも満足しようとした。彼も心身の過労には苦しんでいた。しばらく休暇を与えられたいとの言葉をそこに残し、東京の新しい都を見うる日のことを想像して、やがて彼は塩尻、下諏訪から追分、軽井沢へと取り、遠く郷里の方まで続いて行っている同じ街道を踏んで碓氷峠(うすいとうげ)を下った。   (第二部 第十章)

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島崎藤村(しまざきとうそん)

1872~1943、明治-昭和時代前期の詩人,小説家。
明治5年2月17日生まれ。島崎正樹の4男。東北学院,小諸義塾などの教師をつとめる。明治26年北村透谷らの「文学界」創刊に参加。30年「若菜集」で新体詩人として出発し,ついで「一葉舟(ひとはぶね)」「落梅集」を刊行。39年「破戒」で自然主義文学の代表的作家となり,「新生」「夜明け前」などを発表した。昭和18年8月22日死去。72歳。長野県出身。明治学院卒。本名は春樹。デジタル版 日本人名大辞典+Plus

   

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 『夜明け前』(よあけまえ)は、島崎藤村によって書かれた長編小説。2部構成。「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで知られる。
   日本の近代文学を代表する小説の一つとして評価されている。
米国ペリー来航の1853年前後から1886年までの幕末・明治維新の激動期を、中山道の宿場町であった信州木曾谷の馬籠(まごめ)宿(現在の岐阜県中津川市馬篭)を舞台に、主人公・青山半蔵をめぐる人間群像を描き出した藤村晩年の大作である。青山半蔵のモデルは、旧家に生まれて国学を学び、役人となるが発狂して座敷牢内で没した藤村の父親・島崎正樹である。     出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

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中山道・馬籠宿)

 

 ■ 上等・下等小学校

 

 明治5年(1872)発布の「学制」において小学校の制度は、次のように定められました。

 

 尋常小学は小学校制度の本体をなすものであって、上下二等にわかれ、男女ともに必ず卒業すべきものとし、下等小学は六歳から九歳まで、上等小学は十歳から十三歳までとしている

 その教科は下等小学では綴字・習字・単語・会話・読本・修身・書牘(とく)・文法・算術・養生法・地学大意・窮理学大意・体術・唱歌の一四教科であり、上等小学はこのほかさらに史学大意・幾何学大意・罫(けい)画大意・博物学大意・化学大意・生理学大意を加え、土地の状況によっては、外国語の一、二・記簿法・図画・政体大意を加えうることとした。   文部科学省「学制百年史」「 一 学制における小学校の制度」http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317586.htm

 

 

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明治6年学校系統図)

 

 現在の高知県高岡郡佐川町に生まれた植物学者牧野富太郎(まきの とみたろう、1862年5月22日(文久2年~昭和32年・1862~1957)は、できたばかりの小学校に入学した頃のことを次のように回想しています。

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 そうしておるうちに明治七年はじめて小学校ができ、私も入学した。私は既に小学校に這入(はい)る前に色々と高等な学科を習っていたのであるが、小学校では五十音から更(あらた)めて習い、単語・連語・その他色々のものを掛図について習った。本は師範学校編纂の小学読本であった。博物図もあった。

 その頃の学校にはボールドはあったが、はじめチョークというものが来なかったので「砥の粉(とのこ)」で字や画をかいたが、間もなくチョークが来た。
小学校は上等・下等の二つに分たれ、上等が八級、下等が八級あって、つまり十六級あった。試験によって上に進級し、臨時試験を受けて早く進むこともできた。私は明治九年頃、せっかく下等の一級まで進んだが、嫌になって退校してしまった。嫌になった理由は今判らないが、家が酒屋であったから小学校に行って学問をし、それで身を立てることなどは一向に考えていなかった。      『牧野富太郎自叙伝』より「幼年期」下線は筆者

 ※ボールド・・・・黒板

 この頃の小学校は、能力に応じて課程を修める「等級制」を採用していました。

 一年たてば、皆がそろって進級できる「学年制」ではなく、半年ごとに行われる進級試験に合格した者だけが上の級に進むことができたのです。

 ですから、下の写真のように卒業証書も半年ごとに出されました。 

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(「モノが語る明治教育維新」第16回―日本最初(!?)の卒業証書 (1)筆者: 唐澤 るり子、https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/mono16

 

 「進級試験」(定期試験、昇級試験等とも)は厳格さが重視され、落第する者も多くいました。

 学校に適応できず、退学する者も多く、明治8年の等級別在籍者の比率をみると、第八級が65.2%と全体の3分の2を占めるのに対し、第七級は16.7%と激減します。

 級が上がるほどに在籍者は少なくなり、第一級ともなると全児童の0.1%しかいなかったというデータがあります。

 下等小学といえど、卒業がいかに難しかったかということが分かります。

 一方で、この制度の下では飛び級が認められていました。

 有名な例としては夏目漱石(金之助)が挙げられます。

 彼は下等小学の第八級と第七級を半年で終え、続く第六級・第五級も半年で終えています。

 そうした優秀な生徒には、証書の他に褒賞も与えられたことが、漱石の自伝的作品『道草』の中に出てきます。

「小学校の卒業証書まで入れてある」
   その小学校の名は時によって変っていた。一番古いものには第一大学区第五中学区第八番小学などという朱印が押してあった。
 「何ですかそれは」
 「何だか己も忘れてしまった」
 「よっぽど古いものね」
  証書のうちには賞状も二、三枚交まじっていた。昇(のぼ)り竜と降(くだ)り竜で丸い輪廓(りんかく)を取った真中に、甲科と書いたり乙科と書いたりしてある下に、いつも筆墨紙と横に断ってあった。
 「書物も貰(もら)った事があるんだがな」
  彼は『勧善訓蒙(かんぜんくんもう)』だの『輿地誌略(よちしりゃく)』だのを抱いて喜びの余り飛んで宅(うち)へ帰った昔を思い出した。 

『道草』三十一

     

 同様の例をもう一人。明治の文豪・幸田露伴(慶応3年~昭和22年・1867~1947)

の「少年時代」からの引用です。

 

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 「飛び級」のことが「抜擢」と表現されています。

 九歳のとき彼のお千代さんという方が女子師範学校の教師になられたそうで、手習いは御教えにならぬことになりました。で、私を何所へ遣ったものでしょうと家でもって先生に伺うと、御茶の水の師範学校付属小学校に入るが宜かろうというので、それへ入学させられました。其頃は小学校は上等が一級から八級まで、下等が一級から八級までという事に分たれて居ましたが、私は試験をされた訳では無いが最初に下等七級へ編入された。ところが同級の生徒と比べて非常に何も彼も出来ないので、とうとう八級へ落されて仕舞った。下等八級には九つだの十だのという大きい小供は居なかったので、大きい体で小さい小供の中に交ぜられたのは小供心にも大に恥しく思って、家へ帰っても知らせずに居た。然し此不出来であったのが全く学校なれざるためであって、程なく出来るようになって来た。で、此頃はまだ頻りに学校で抜擢ということが流行って、少し他の生徒より出来がよければ抜擢してずんずん進級せしめたのです。私もそれで幸いにどしどし他の生徒を乗越して抜擢されて、十三の年に小学校だけは卒業して仕舞った。(「少年時代」)

 

 

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 当初の就学率は上のようになっていました。

 学校へ行く意味も十分に理解されないような状況で、義務教育とはいいながら授業料が徴収されていたわけですから、当局の奨励にもかかわらず、就学率が伸び悩んだのも当然と言えるかもしれません。