名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

伊藤整『若い詩人の肖像』①「軍事教練」その1

  

 私の入る前の年、全国の高等学校や専門学校に軍事教練が行われることになった。その年は、第一次世界戦争が終わってから四年目に当たり、世界の大国の間には軍事制限の条約が結ばれていた。世界はもう戦争をする必要がなくなった。やがて軍備は完全に撤廃される、という評価が新聞や雑誌にしばしば書かれた。軍服を着て歩く将校が失業直前の間の抜けた人間に見えた。そういう時代に、軍隊の量の縮小を質で補う意味と、失業将校の救済とを兼ねて企てられたこの軍事教練は、強い抵抗に逢った。この企ては、第一次世界戦争の終了とロシア革命の成立によって、自由主義共産主義無政府主義、反軍国主義などの新思想に正義を認めていた知識階級や学生の反感をあおった。いまその一九二一年の歴史を見ると、それは日本共産党が創立された前年であり、社会主義の文芸雑誌「種蒔く人」が発刊された年であり、日本労働総同盟が誕生した年である。(中略)
 そしてその年、すなわち私が入学する前の年に軍事教練が実施されたとき、この高等商業学校の生徒たちは軍事教練への反対運動を起こした。それに続いてその運動は各地の高等学校や大学に飛び火し、全国的な運動になった。北国の港町の、この名もない専門学校は、その事件のために存在を知られるようになった。しかし、その軍事教練は、結局実施された。そして私たちも入学早々に週に一度、菅大尉という、この学校の事務をしていた五十歳すぎの老大尉にそれを受けた。大きな口髭を生やし、痩せて顎と頬骨の出張った菅大尉は、その軍事教練のときに、私たちがどんなにダラシなくしても叱ることがなく、君たちが形だけやってくれれば教える方も義務がすむんだという、悟った坊主のような態度で教練をした。私たちは中学校の体操教師の前で感じた緊張感を全く失っていた。私たちは、軍事教練をバカバカしいと思い。のらりくらりと動きながらも、その菅大尉に腹を立てることがどうしても出来なかった。(一 海の見える町)

 

 

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伊藤整
 いとうせい   明治38年~昭和44年・1905~1969
   小説家,評論家。本名,整 (ひとし) 。 1925年小樽高等商業学校卒業。教員となり百田宗治主宰の詩誌『椎の木』に参加,北海道の自然と交響する抒情を素朴なスタイルでうたいあげた詩集『雪明りの路』 (1926) を自費出版。上京して東京商科大学本科に入り (27) ,友人らと批評誌『文芸レビュー』を創刊 (29) し,小説『感情細胞の断面』 (30) で川端康成に認められた。商大中退後,ジョイスの『ユリシーズ』 (31~34,共訳) ,ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』 (35) を翻訳する一方,「内的独白」や「意識の流れ」を重んじる精神分析法を取入れた文学論『新心理主義文学』 (32) や,その実践としての小説『幽鬼の街』 (37) などを書いた。その後,戦時下の知識人の生き方をさぐる『得能五郎の生活と意見』 (40~41) ,『得能物語』 (42) を書き,敗戦後の退廃,混乱期の知識人の姿を『鳴海仙吉』 (50) に戯画化した。完訳『チャタレイ夫人の恋人』 (50) で猥褻罪により起訴されたのを機に芸術表現の自由をめぐる法廷闘争を展開,その体験から得た組織と人間の主題を『裁判』 (52) ,『花ひらく』 (53) ,『火の鳥』 (49~53) に展開する一方,『伊藤整氏の生活と意見』 (51~52) ,『女性に関する十二章』 (53) などの成功もあって,人気作家となった。風刺,諧謔を多用し交響曲的効果をねらう小説形式が特色で,『若い詩人の肖像』 (55) ,『誘惑』 (57) ,『氾濫』 (56~58) などでより成熟した。また物語的手法で『日本文壇史』 (52~69) をまとめ,日本近代文学館の創立にも寄与した。『伊藤整全集』 (24巻,74) がある。 67年日本芸術院賞受賞

 ( 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 

 

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 小樽高等商業学校に入学した「私」は野望と怖れ、性の問題等に苦悩しつつ青春を過ごす。昭和3年待望の上京、北川冬彦、梶井基二郎ら「青空」同人達との交遊、そして父の危篤……。純粋で強い自我の成長過程を小林多喜二萩原朔太郎ら多くの詩人・作家の実名と共に客観的に描く。詩集『雪明りの路』『冬夜』誕生の時期を、著者50歳円熟の筆で捉えた伊藤文学の方向・方法を原初的に明かす自伝的長篇小説。

講談社文芸文庫解説、http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000168438

 

 ■ 小樽高商

 

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(略年譜:創設から新制大学へ)

1905(明治38)年  小樽区会、高等商業学校の誘致にのりだす

1906(明治39)年 11月 第五高等商業学校、小樽に設置決定

1910(明治43)年  3月 文部省直轄諸学校官制改正により、小樽高等商業学校を設置
1911(明治44)年 3月  第一回入学試験志願者150人のうち72人が入学許可

1914(大正  3)年  3月  第一回卒業式、卒業生50人

1926(大正15)年 4月 第十四臨時教員養成所(英 語)設置、28人入学
1930(昭和  5)年 3月  同上廃止

1937(昭和12)年 2月 小樽市議会で本校の大学昇格運動を起こすことを決議

1941(昭和16)年 12月 校内で臨時徴兵検査 
1942(昭和17)年 9月  繰上卒業式

1943(昭和18)年 10月 徴兵延期撤廃により学徒出陣、11 月仮卒業証書授与式
1944(昭和19)年 4月  小樽高等商業学校を小樽経済専門学校に転換

1946(昭和21)年 4月 学友会の設立  緑丘会総会で大学昇格を決議、10月小樽市議会も 大学昇格を決議 
1947(昭和22)年 4月  男女共学を実施、3人の女子学生の入学

1948(昭和23)年  8月 大学教育課長W.C.イールズ氏、小樽経専を視察。 後、GHQが本学の単独大学昇格を許可
  「小樽商科大学 広報誌 ヘルメス・クーリエ 100周年記念号、2011.July 」より「小樽商科大学百年のあゆみ」から

 
    北国の小樽に東京、神戸、山口、長崎に次いで全国で五番目の高等商業学校が創設された背景には、当市が明治末には札幌よりも多い人口9万人を擁しており、商業、貿易の大変盛んな土地柄であったことと、地元の強い誘致運動が展開されたことがありました。 

    戦後新制の国立大学が誕生したとき、GHQ連合国軍最高司令官総司令部 ) の主導で「一県一国立大学」が基本原則(大都市部を除く)とされました。
 多くの高等商業(戦時中に経済専門学校や工業専門学校などに転換または改称させられていました)は、単独で国立大学となることを望んでいましたが、GHQの強い指導で大半が諦めざるを得ない状況でした。
 小樽高商(経専)も、北海道大学(当時は帝大)との統合をするはずのところ、例外的と言ってもよい形で商科単独の国立大学となることができました。
 小樽を訪れたGHQの大学教育課長W.C.イールズとの間で激しいやり取りがあり、なんとか説得に成功したということです。
  

    同校史によれば、「(1)同校の豊かな個性が評価されたこと、(2)世論が単独昇格を強く望んでおり、北大も小樽経専合併を欲していなかったこと。(3)施設設備が整備されており、国費支出が少額で済むことの三点が、その理由であったとされる。」 (天野郁夫『新制大学の誕生』下)

     いずれにしても、極めて珍しいケースではないでしょうか。

 

■ 著名な卒業生

 

  小樽高商出身の作家と言えば、小林多喜二伊藤整のお二人ですね。

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(「小樽商科大学 広報誌 ヘルメス・クーリエ 100周年記念号、2011.July 」より)

 

■ 学校教練 -陸軍現役将校学校配属令ー
 

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  阪高等商業学校(現・大阪市立大学)の学校教練

   

 引用文の冒頭に「私の入る前の年、全国の高等学校や専門学校に軍事教練が行われることになった。」あります。
 ところが、作者・伊藤整が小樽高等商業に入学したのは、大正11年(1922)のことで、有名な「陸軍現役将校学校配属令」が公布されて「全国の高等学校や専門学校に軍事教練が行われることになった」のは、伊藤の卒業した直後、大正14年4月のことでした。彼が新設の小樽市立中学校に英語教師として着任したばかりの頃です。

 

   「軍事教練」は一般用語で、公式には「学校教練」と称していました。
 既に明治19年(1886)に初代文部大臣の森有礼(もりありのり)の提唱によって中等学校や高等小学校に「兵式体操」という科目が導入されていました。
(私のブログ「坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」では、コラムその7「兵式体操」で取り上げています。

https://sf63fs.hatenablog.com/entry/2019/02/26/084928

 しかし、この「兵式体操」については、本来の精神から離れ、形式に流れているなどと、その実効性を疑う声も多かったということです。

 文部省、陸軍省のそれぞれには次のような思惑があったと研究者は指摘しています。

 第一次世界大戦が終り,軍縮が進行するに従い ,世界の情勢が変化した。即ち,来るべき戦争は国家総力戦であり,それには国家総力をあげての戦争への動員を可能とする体制を,軍縮が進行する中で構築しなければならなかった。

 そして,そこに軍縮により余剰となった将校をいかに確保するかという問題,有事の際に動員した国民を短期間で兵とするための軍事予備教育の問題 ,思想対策の問題が生じた。陸軍側としては将校はそれ相当の軍事教育と経験を有することから,兵を作るようなわけにはいかない。

 そして軍にとっては学校で行う軍事教育は不十 分であるという認識があった 。文部省側には徳育を裨補し,体育に資することが現状に鑑み要務であり,それには現役将校による教練が有効であるという認識があった。   

 そして,ここに余剰将校を現役将校として確保し,志気を沈滞させないために現役のまま学校に配属し,教練に当らしめ,学生生徒に軍事予備教育を与えるという方策が考案された。※下線・太字は筆者

「配属将校制度の成立過程について」(大橋伸次)

 

 やや難解な表現ではありますが、文部、陸軍両省の利害が一致したというところでしょうか。(もちろん、両省の合意だけで実施できるものではなく、10年近くにわたって内閣直属の重要な教育諮問機関である臨時教育会議及び文政審議会での審議を経たのものでした )

  

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山梨県甲府中学~現甲府第一高~の教職員集合写真、昭和7年・1932、https://mainichi.jp/articles/20160223/ddm/002/040/075000c

   

 【対象となった学校】

 師範学校 中学校 実業学校

 高等学校  大学予科  専門学校 大学学部

 高等師範学校  臨時教員養成所  実業学校教員養成所
 実業補習学校教員養成所

 

 【実施内容】

 各個教練、部隊教練、射撃、指揮法、陣中勤務、手旗信号、距離測量、測図学、軍事 講話、戦史など