小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

新田次郎「聖職の碑」⑤

 若い頃に信州白樺教育運動に携わった元教員が、明治末から大正初期の教育界の状況を後に語った文章がありました。

 明治30年代から大正の初期にかけましては、もっぱらヘルバルト流の教育思想が信州ばかりではなく、全国をおおったように思います。いわゆる*三段教育法というテクニックが教育界を風靡(ふうび)しておりました。人間形成とか魂を養うとかいうことではなしに、国民思想を錬磨し、教育の実を挙げるためにまずもって教育の技術を高めてゆくということが至上命令であったようであります。
一志茂樹「多分に誤伝評価されつつある大正期信州白樺教育の実態」(今井信雄『新訂「白樺」の周辺 ー信州教育との交流についてー』)

 

※「三段教育法」・・・元々ヘルバルトが唱えた四段階の教授・学習指導の展開法を、同学派のチラー、ラインが教育現場の実状に合わせて、「予備・提示・比較・総括・応用」という五段階の展開法に改めたが、後に我が国ではそれを現場に合うように「予備」・「提示」・「整理」の三段階に簡略化したものが普及した。授業展開の形式主義、画一化が弊害として指摘されることが多かった。
  
   

f:id:sf63fs:20210110170431j:plain

Johann Friedrich Herbart

1776~1841、ドイツの哲学者、教育学者。ケーニヒスベルク大学等の教授。教育の目的は倫理学から,教育の方法は心理学から導かれるとして教育学の体系化を追求。独自の実在論に立つ認識論・心理学を精密な教授過程論へと結実させ,それは彼の名を冠した学派の人々によって五段教授法へと展開された。主著《一般教育学》。
  (百科事典マイペディア)

※筆者は40数年前の学生時代、ヘルバルト研究で知られる教育哲学の是常正美先生(高校の大先輩でもありました)の授業を受けたことがありました。正直言って難解でした。教育学の中でも哲学分野は苦手でした(笑)

 

 一方、自然主義の作家として知られる島崎藤村は、長野県飯山町(現・飯山市)を舞台とする『破戒』明治39年・1906)の中で、当時の教育界について、次のような興味深い観察、描写をしています。

f:id:sf63fs:20210110172437j:plain

 校長は応接室に居た。斯(こ)の人は郡視学が変ると一緒にこの飯山へ転任して来たので、丑松や銀之助よりも後から入つた。学校の方から言ふと、二人は校長の小舅(こじゆうと)にあたる。其日は郡視学と二三の町会議員とが参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許(すこし)づゝ観た。郡視学が校長に与へた注意といふは、職員の監督、日々(にちにち)の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する『トラホオム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件(こと)であつた。応接室へ帰つてから、一同雑談で持切つて、室内に籠る煙草(たばこ)の烟(けぶり)は丁度白い渦(うず)のやう。茶でも出すと見えて、小使は出たり入つたりして居た。
    斯(こ)の校長に言はせると、教育は則ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。(中略)
    是の主義で押通して来たのが遂に成功して ー まあすくなくとも校長の心地(こころもち)だけには成功して、功績表彰の文字を彫刻した名誉の金牌(きんぱい)を授与されたのである。   (第二章一)

 

 表現にやや誇張があるかもしれませんが、ここでは郡視学と校長の関係が軍隊や官僚組織における「上官(上司)と部下」のそれのように描かれています。
 中央集権的であった教育行政組織の末端にあって、官僚的・形式主義な監督をおこなっていた郡視学と唯々諾々(いいだくだく)としてそれに従う校長の姿を、一青年教師が批判的な眼で眺めているといった構図になっています。

 当時の教育界に管理主義、形式主義が横行していたということを印象づける描写ではないでしょうか。

 

 以上は、自然主義作家の目で描かれたものですが、同じ頃に自らの代用教員としての経験から、閉塞感が漂う当時の教育の状況を描いたものを、石川啄木(明治19~45年・1886~1912)の作品からの抜粋で挙げてみたいと思います。

f:id:sf63fs:20210110173527j:plain

石川啄木(本名・一、Wikipedia

  明治19年~45年(1886-1912)岩手県日戸村生れ。本名一。生後まもなく、父が渋民村宝徳寺住職となる。唯一の男子として両親の愛情を一身に受け、村人からは神童と騒がれ、気位高く育つ。盛岡中学在学時に「明星」に感銘、17歳の時、文学を志して上京するが、健康を害し帰郷。20歳で処女詩集『あこがれ』を出版、天才詩人の評判を得る。が、自分の才能と自負心と、両親妻子を養わねばならぬ貧困の現実とに引き裂かれ続け、肺結核で不遇の生涯を閉じた。歌集『一握の砂』、友人らの尽力で死後出版された『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』等がある。(新潮社ホームページ著者プロフィール)

 啄木は妻・節子の父が岩手郡役所に勤めており、その友人である郡視学・平野喜平に就職を依頼、明治39年 (1906)4月11日 、渋民尋常高等小学校に尋常科代用教員として採用されました。
 当時の教員は校長の遠藤忠志、主席訓導の秋浜市郎、岩手師範学校女子部出身の上野さめ子、そして代用教員の石川一(啄木)の計四名でした。
 生徒数283名(高等科68名、尋常科205名)で、啄木は尋常科二年を受け持ちました。

 

f:id:sf63fs:20210111105357j:plain

(渋民尋常高等小学校の校舎)

 啄木の『雲は天才である』明治39年)は、彼の代用教員時代の経験を元に、或る一日の出来事を描いたものですが、作中に校長の田島が主人公の新田(啄木がモデル)をなじる場面が出てきます。

 原因は、教科「唱歌」の「教授細目」*外の歌曲を新田が勝手に作り、児童に歌わせたことにありました。

 以下、少し長いですが引用してみます。

 古山が先づ口を切つた。『然し、物には總て順序がある。其順序を踏まぬ以上は、……一足飛びに陸軍大將にも成れぬ譯ですて。』成程古今無類の卓説である。
 校長が續いた。『其正當の順序を踏まぬ以上は、たとへ校歌に採用して可いものであつても未だ校歌とは申されない。よし立派な免状を持つて居らぬにしても、身を教育の職に置いて月給迄貰つて居る者が、物の順序を考へぬとは、餘りといへば餘りな事だ。』
  (中略)
  『ハヽア、それで何ですな、私の作つたのは、其正當の順序とかいふ手數にかけなかつたので、詰り、早解りの所が、落第なんですな。結構です。作者の身に取つては、校歌に採用されると、されないとは、完く屁の樣な問題で、唯自分の作つた歌が生徒皆に歌はれるといふ丈けで、もう名譽は十分なんです。ハヽヽヽヽ。これなら別に論はないでせう。』

 『然し、』と古山が繰り出す。此男然しが十八番おはこだ。『その學校の生徒に歌はせるには矢張り校長さんなり、また私なりへ、一應其歌の意味でも話すとか、或は出來上つてから見せるとかしたら隱便で可いと、マア思はれるのですが。』
 『のみならず、學校の教案などは形式的で記(しる)す必要がないなどと云つて居て、宅(うち)へ歸ればすぐ小説なぞを書くんださうだ。それで教育者の一人とは呆れる外はない。實に、どうも……。然し、これはマア別の話だが。新田さん、學校には、畏くも文部大臣からのお達しで定められた教授細目といふのがありますぞ。算術、國語、地理、歴史は勿論の事、唱歌、裁縫の如きでさへ、チヤンと細目が出來て居ます。私共長年教育の事業に從事した者が見ますと、現今の細目は實に立派なもので、精に入り微を穿つとでも云ひませうか。彼是十何年も前の事ですが、私共がまだ師範學校で勉強して居た時分、其の頃で早や四十五圓も取つて居た小原銀太郎と云ふ有名な助教諭先生の監督で、小學校教授細目を編んだ事がありますが、其時のと今のと比較して見るに、イヤ實にお話にならぬ、冷汗(ひやあせ)です。で、その、正眞ほんたうの教育者といふものは、其完全無缺な規定の細目を守つて、一毫亂れざる底(てい)に授業を進めて行かなければならない、(中略)且つ私も校長を拜命して居る以上は、私に迄責任が及んで來るかも知れないのです。それでは、何うもお互に迷惑だ。のみならず吾校の面目をも傷ける樣になる。』  (一)(青空文庫

 ※「教授細目」・・・学習指導計画、学習指導案に相当する、旧学制下の用語。教科ごとの教材を各学期、各週に配列し、教材の指導目標、内容、方法などを書き、授業の予定を示したもの。(『精選版 日本国語大辞典』)

f:id:sf63fs:20210111112005j:plain

(新東宝映画「雲は天才である」昭和29年・1954)

 

 「日本一の代用教員」と自ら任じていた啄木には、「教育の場で、形式を整えることや教授技術の巧拙ばかりが尊重されており、児童生徒の人間教育が等閑視されている」状況を憂う気持ちが強かったことがよくわかります。