名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

加能作次郎と国民英学会

1月16・17日に実施された初の「大学入学共通テスト」。

国語の大問を、古文、漢文、小説の順に解いてみました。(評論はちょっと先延ばし😀
小説の出典は、加能作次郎「羽織と時計」大正7年・1918)で、初めて見る作家の名前でした(問題は、予備校の分析では難化となっていましたが、割と本文・設問共に素直であったかと)

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加能作次郎(石川県志賀町ホームページより)

 

しかし、「かのう さくじろう」?、どこかで聞いたような・・・・。
あれこれ考えて思い出したのが、大好きなシリーズ男はつらいよ」の第29作「寅次郎あじさいの恋」に登場する有名な陶芸家・加納作次郎片岡仁左衛門)と漢字1字違いだったのです。

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Wikipediaの略年譜は次のようになっています。

1885年(明治18年)1月10日 :石川県羽咋郡西海村風戸に生まれる[1]。
1886年明治19年)11月19日 :実母「はい」が死去[3]。その後、同年中に父は浅野ゆうと再婚する。
1981年(明治24年) :西海尋常小学校に入学[3]。
1898年(明治31年)9月 :病気により、学校を退学し、京都の伯父の家に寄寓するも、下男のように使われる[3]。このとき13歳。
1900年(明治33年) :伯父が死去[3]。その後、大阪へ出る[3]。
1903年明治36年
月日不明 :父・浅次郎が病気のため、作次郎は帰郷する(あるいは、病気のために父・浅次郎が帰郷する)[1][4]。[3]
11月 :検定試験に合格して準教員の免状を得、羽咋郡柳瀬尋常小学校(現・宝達志水町立樋川小学校の前身[5])の準教員として勤務し始める[1]。このとき18歳。
1904年(明治37年) :検定試験に合格し、尋常小学校の正教員となる[3]。
1905年(明治38年) :上京し、国民英学校に通学[3]。
1907年(明治40年)4月 :早稲田大学文学部文学科高等予科に入学[3]。このとき22歳。
1908年(明治41年)9月 :早稲田大学文学部英文科に入学[3]。当校では、坪内逍遥島村抱月、片山伸諾らに師事し、とくに片山伸諾から大いに影響を受ける。
1910年(明治43年)7月 :処女作「恭三の父」を文芸雑誌『ホトトギス』7月号に発表[1][3]。このとき25歳。
1911年(明治44年
4月 :「厄年」を『ホトトギス』に発表[3]。このとき26歳。
7月 :早稲田大学を卒業し、早稲田大学出版部に入る。[3]
1913年(大正2年)5月 :博文館編集部に入り、『文章世界』編集の任に当たる[3]。このとき28歳。
1914年(大正3年) :羽咋郡稗造村田中(現・羽咋郡志賀町田中)の浄法寺の長女・島田房野と結婚。
1917年(大正6年)6月 :『文章世界』の編集主任となる[3]。このとき32歳。
1918年(大正7年)10月 :「世の中へ」を『読売新聞』紙上にて連載開始[3]。
1920年大正9年)12月 :「厄年」を博文館から出版[3]。このとき35歳。
1940年(昭和15年)8月 :「乳の匂ひ」を『中央公論』に発表[3]。このとき55歳。
1941年(昭和16年)8月5日 :東京市牛込区薬王寺町(現・東京都新宿区市谷薬王寺町)の自宅にて[6]「乳の匂ひ」を校正中、クループ性急性肺炎で死去(享年57、満56歳)[3]。「心境」が絶筆となる[1]。戒名は釈慈忍。
没後
1941年(昭和16年
8月中 :牧野書店から「乳の匂ひ」刊行。
11月 :櫻井書房から「世の中へ」刊行。
1952年(昭和27年)8月 :生誕地・西海村風戸(現・志賀町西海風戸)に加能作次郎文学碑(石碑)が建立される[7]。
1957年(昭和32年) :志賀町が「加能作次郎顕彰作文コンクール」を実施し、以後、毎年の恒例となる。
1985年(昭和60年) :志賀町にて生誕百年祭が開催され、記念事業の一つとして地元生徒を対象とする加能作次郎文学賞が生まれる。
2007年(平成19年)12月14日 :生誕地に近い志賀町富来領家町にて、作次郎をテーマとする「作次郎ふるさと記念館」が開館。

  「1898年(明治31年)9月 :病気により、学校を退学し」というのは、石川県志賀町のホームページ上の略年譜(下)にあるように、「高等小学校」を3年で中退というのが正しいのではないかと思われます。
当時は、尋常小学校4年、高等小学校2(~4)年という学制でした。能登半島の漁村のことですから、高等小学校へ進んだ者も少なかったことでしょう。
後に、小学校教員の検定試験に合格しています。田舎では、高等小学校卒の代用教員は珍しくありませんでしたが、それに甘んじることなく正教員の資格を取ったあたりに、学力優秀な青年であったことがうかがえます。

作次郎略譜
明治18年1月10日 浅次郎、はいの長男として西海村風戸で誕生
       家業は漁業、2歳上の姉よう
明治20年 母はい死亡、父は浅野ゆうと再婚
明治24年 西海尋常小学校入学 成績優秀のため進学を勧められる
明治28年 富来高等小学校入学 「少年世界」を愛読
明治31年 京都に出奔、叔父の店で丁稚しながら夜学に通う
明治36年 小学校教員検定試験に合格、志雄町の柳瀬尋常小学校
明治38年 退職し東京へ。家庭教師を営む
明治40年 早稲田大学文学部入学 自然主義にも感化される

(石川県志賀町ホームページ)

 作者はしばらく尋常小学校に勤務した後に上京して、「1905年(明治38年) :上京し、国民英学校に通学」(Wikipedia)とありますが、これは「国民英学会」の誤りです。名称は「学会」ですが、れっきとした学校です。

国民英学会(こくみんえいがくかい)は、明治・大正期に著名だった日本の私塾ないし進学予備校、英語学校。単なる洋学校ではなく、旧制中学校から旧制専門学校相当の教育機関の要素があった[1]。
1888年明治21年)2月、慶應義塾の英語教師経験をもち、英語雑誌を刊行していた米国人のフレデリックイーストレイク(イーストレーキ)と慶應義塾出身の英学者磯辺弥一郎によって東京市神田区錦町3丁目(現在の千代田区神田錦町)に設立。当時、慶應義塾の人々が力を入れて推進していたのは、医学や英学であって実用英語ではなかった[2]。これに不足を感じた磯辺が幹事に、イーストレーキが教頭となり、両人のほかに1名の教師を雇って開校した[3]。初めは授業料も無く月謝も極めて安かった。苦学生のための夜間部も開校し、1906年明治39年)には別科の中に数理化受験科を設立するまでに至った。
開校2年のうちに会員総数は1700名を越え、日々出席する生徒は600人を数える盛況となったが[4]、イーストレーキが収入面の不満から、退職して独立することを磯辺に通告、数百人の生徒を抱えるなか、退職わずか1週間ほど前の突然の通告であったため、急ぎ和田垣謙三、井上十吉に協力を仰ぎ、川田正澂、長沢市蔵、高橋五郎 (翻訳家)らを講師に招いて運営を続けた[5]。イーストレーキの妻によると、退職はイーストレーキの意思ではなく、磯辺の策略により追い出されたとしている[6]。
第一高等学校をはじめとする高等学校、高等商業学校(東京高等商業学校→東京商科大学)、慶應義塾などの正規の学歴コースに乗れない者たちを対象とする学校であるにも拘らず、講師陣には高名な英語学者であるアーサー・ロイド(慶應義塾大学教授)、斎藤秀三郎(第一高等学校教授)、吉岡哲太郎(理学博士)、内藤明延、岡倉由三郎を迎えるなど講義の質が高く、人気を集めた。

(中略)
正則英語学校の出現で、国民英学会は勢いをそがれることとなったが、正則と並ぶ英学校としてその後の大正・昭和初期にかけても学問機関として存続し、1945年ごろまで活動していたことが確認できる[8]。

著名な出身者
村田省蔵 - 政治家、実業家
蒲原有明 - 詩人
幸徳秋水 - 思想家
長谷川如是閑 - ジャーナリスト
坂田祐 - 教育者(中退)
杉村楚人冠 - ジャーナリスト
千葉亀雄 - ジャーナリスト
辻潤 - 詩人
福士幸次郎 - 詩人
物集高量 - 国文学者
柳井隆雄 - 脚本家(中退)
谷崎精二 - 作家、英文学者
神戸弥作 - 国文学者
鈴木泉三郎 - 劇作家
安藤貫一 - 英文学者
一力健治郎 - 河北新報社創業者(社主)
近松秋江 - 小説家

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幸徳秋水の卒業証書 (高知県四万十市ホームページ)

 

同校は、私立の英語学校ではありますが、実際は受験予備校としての側面が大きかったようです。

平井嶺南著『立身成功案内』(明治40年・1907、文星社、国立国会図書館デジタルコレクション)によれば、以下のような学科を設けていました。
普通科・受験科・正科・英文科・会話専修科(いずれも修業年限1年)
作者がどの科にいたかは不明ですが、後に早稲田に入学していることから、「受験科」と仮定すると、同書には次のような説明があります。

 「受験科・・・高等学校、高等商業学校、海軍兵学校、東京外国語学校の入学に応ず可き学力を養成す」

「入学資格:高等小学校二年修学の者もしくはこれと同等の学力を有する者」

 

その頃の、正統的な学校ルートは、「尋常小学校(+高等小学校)→中学校→高等学校・専門学校」ですが、主に経済的な理由から中学校に進めない青年が地方から上京し、東京に次々と設立されていた受験予備校を経て、高等教育機関(主に私立)に進んでいたのではないでしょうか。
よく知られている予備校は、正則英語学校(明治29年)、研数学館明治35年)、正則予備校(同前)のほか、中央、日本、明治などの各大学(法令上は専門学校)が経営していた高等予備校(明治38~43年頃)でした。

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明治35年(1902)東京専門学校から早稲田大学へ改称(ジャパンアーカイブズ)

 

ちなみに、作者の経歴の中に「1908年(明治41年)9月 :早稲田大学文学部英文科に入学」とありますが、早稲田が大学令大正7年・1918)による「大学」となったのは、大正9年(1920)のことで、それ以前は専門学校令(明治36年・1903)に準拠した高等教育機関であり、「大学と称することを認められていた」のでした。
このことは、他の私立大学も同様でした。

※というわけで、共通テストがきっかけで、加能作次郎という作家と国民英学会という予備校のことを少し知ることが出来ました。
この作者の作品は、青空文庫で読むことができます。
40代の中頃の数年間、県内の共通テストのような問題作成に携わったことがありますが、素材の選定はなかなか大変なことです。
どこかの国公立大学近代文学か国語教育がご専門の先生でしょうが、失礼ながらこんな埋もれた作家の小品をよく発掘されたことだと感心しました。