小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

100年前のスペイン風邪の時は・・・・②

 以前から気になっていた感染症の日本史」磯田道史、文春文庫、2020年)。図書館の検索では貸し出し中だったので、イオンの書店に行って平台に売れ残っていた1冊を買い求めました。

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【目次より】
第一章 人類史上最大の脅威 牧畜の開始とコロナウイルス/ペリー艦隊が運んできた感染症/スペイン風邪は波状的に襲ってきた ほか
第二章  日本史のなかの感染症――世界一の「衛生観念」のルーツ
「最初の天皇」と疫病/奈良の大仏天然痘対策?/疫神を歓待する日本人/江戸の医学者の隔離予防論 ほか
第三章 江戸のパンデミックを読み解く
すでにあった給付金/薬をただで配った大坂の商人たち/上杉鷹山の患者支援策 ほか
第四章 はしかが歴史を動かした
横綱級」のウイルスに備えるには/都市化とパンデミック/麻疹が海を渡る ほか
第五章 感染の波は何度も襲来する ――スペイン風邪百年目の教訓
高まった致死率/百年前と変わらない自粛文化/「「感染者叩き」は百害あって一利なし ほか
第六章 患者史のすすめ――京都女学生の「感染日記」
日記が伝える「生きた歴史」/ついに学校が休校に ほか
第七章 皇室も宰相も襲われた
原敬、インフルエンザに倒れる/昭和天皇はどこで感染したか?/重篤だった秩父宮 ほか
第八章 文学者たちのスペイン風邪
志賀直哉のインフルエンザ小説/〝宮沢賢治の〝完璧な予防策〟/荷風は二度かかった? ほか
第九章 歴史人口学は「命」の学問 ――わが師・速水融のことども
数字の向こう側に/晩年に取り組んだ感染症研究 ほか

  amazonのサイトでは、「ベストセラー1位」となっており、夕食の食材を買いに行った近くのスーパーの片隅にある雑誌、書籍コーナーにも置いてあるほどです。

 教育史に関連した話題は、いくつかありましたが、今回は第八章の「文学者たちのスペイン風邪について、少し詳しめに・・・。

 この章で取り上げられているスペイン風邪に罹患した文学者は以下の通りです。

志賀直哉「流行感冒」(大正8年・1919)

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内田百閒「実説艸平記」(昭和26年・1951、新潮社)

宮沢賢治の手紙(妹トシの看病記録)
斎藤茂吉の手紙(長崎医学専門学校教授)
永井荷風断腸亭日乗

 

■ 「二度かかった?」永井荷風

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 著者は、永井荷風の有名な日記断腸亭日乗の記述から、荷風大正7年(1918)11月と大正9年(1920)1月の2回、「インフルエンザの罹患が疑われる」と述べています。

断腸亭日乗」・・・断腸亭日乗』(だんちょうていにちじょう)は、永井荷風日記。1917年(大正6年)9月16日から、死の前日の1959年(昭和34年)4月29日まで、激動期の世相とそれらに対する批判を、詩人の季節感と共に綴り、読み物として近代史の資料としても、荷風最大の傑作とする見方もある。(Wikipedia

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永井荷風

断膓亭日記巻之二大正七戊午年


十一月十一日。昨夜日本橋倶楽部、会塲吹はらしにて、暖炉の設備なく寒かりし為、忽風邪ひきしにや、筋骨軽痛を覚ゆ。体温は平熱なれど目下流感冒猖獗の折から、用心にしくはなしと夜具敷延べて臥す。夕刻建物会社員永井喜平来り断膓亭宅地買手つきたる由を告ぐ。
十一月十三日。永井喜平来談。十二月中旬までに居宅を引払ひ買主に明渡す事となす。此日猶病床に在り諸藝新聞を通覧す。夜大雨。
十一月十四日。風邪未痊えず
十一月十五日。階前の蝋梅一株を雑司ヶ谷先考の墓畔に移植す。夜半厠に行くに明月昼の如く、枯れたる秋草の影地上に婆娑たり。胸中売宅の事を悔ひ悵然として眠ること能はず。
十一月十六日。欧洲戦争休戦の祝日なり。門前何とはなく人の徃来繁し。猶病床に在り。書を松莚子に寄す。月明前夜の如し。
十一月十八日。早朝より竹田屋の主人来り、兼て凖備せし蔵書の一部と画幅とを運去る。午後数寄屋橋歯科医高島氏を訪ひ、梅吉方に赴き、十二月納会にまた/\出席の事を約す。明烏下の段をさらふ。此日晴れて暖なり。
十一月廿日。本年秋晩より雨多かりし故紅葉美ならず、菊花も亦香気なし。されど此日たま/\快晴の天気に遇ひ、独り間庭を逍遥すれば、一木一草愛着の情を牽かざるはなし。行きつ戻りつ薄暮に至る。
(中略)
十一月廿三日。花月楼主人を訪ふ。楼上にて恰も清元清寿会さらひありと聞き、会場に行きて見る。菊五郎小山内氏等皆席に在り。
十一月廿四日。洋書を整理し大半を売卻す。此日いつよりも暖なり。
十一月廿五日。晴天。寒気稍加はる。四谷見附平山堂に赴き家具売却の事を依頼す。
十一月廿六日。春陽堂番頭予の全集表帋見本を持来りて示す。平山堂番頭来り家具一式の始末をなす。売却金高一千八百九拾弐円余となれり。
十一月廿七日。建物会社※(二の字点、1-2-22)員永井喜平富士見町登記所に赴き、不動産譲渡しの手続を終り、正午金員を持参す。其額弐万参千円也。三菱銀行に赴き預入れをなし、築地の桜木に立寄り、夕餉をなし、久米氏を新福に訪ひ、車を倩ひて帰る。
十一月廿八日。竹田屋主人来る。倶に蔵書を取片付くる中突然悪寒をおぼえ、驚いて蓐中に臥す
十一月廿九日。老婆しん転宅の様子に打驚き、新橋巴家へ電話をかけたる由、昼前八重次来り、いつに似ずゆつくりして日の暮るゝころ帰る。終日病床に在り。
十一月三十日。八重次今日も転宅の仕末に来る。余風労未癒えず服薬横臥すれど、心いら立ちて堪えがたければ、強ひて書を読む。
十二月朔。体温平生に復したれど用心して起き出でず。八重次来りて前日の如く荷づくりをなす。春陽堂店員来り、全集第二巻の原稿を携へ去る。
(中略)
十二月三日。風邪本復したれば早朝起出で、蔵書を荷車にて竹田屋方へ送る。午後主人手代を伴来り家具を整理す。此日竹田先日持去りたる書冊書画の代金を持参せり。金壱千弐百八拾円ほどなり。

 11月11日に異常を感じてから12月3日に「本復」するまでの3週間あまりの記録です。

高熱を発したり、医者にかかったりという記述はありませんが、初日の「筋骨軽痛を覚ゆ」から、著者はインフルエンザの疑いがあるとしています。

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早期治療を呼びかけるポスター(大正9年、ジャパンアーカイブズ)

 

 二度目は大正9年荷風42歳の時でした。

正月十二日。曇天。午後野圃子来訪。夕餉の後忽然悪寒を覚え寝につく。目下流行の感冒に染みしなるべし。
正月十三日。体温四十度に昇る
正月十四日。お房の姉おさくといへるもの、元櫓下の妓にて、今は四谷警察署長何某の世話になり、四谷にて妓家を営める由。泊りがけにて来り余の病を看護す。
正月十五日。大石君診察に来ること朝夕二回に及ぶ
正月十六日。熱去らず。昏々として眠を貪る
正月十七日。大石君来診。
正月十八日。渇を覚ること甚し。頻に黄橙を食ふ
正月十九日。病床万一の事を慮りて遺書をしたゝむ
正月二十日。病况依然たり
正月廿一日。大石君又来診。最早気遣ふに及ばずといふ。
正月廿二日。悪熱次第に去る。目下流行の風邪に罹るもの多く死する由。余は不思議にもありてかひなき命を取り留めたり。
正月廿五日。母上余の病軽からざるを知り見舞に来らる。
正月廿六日。病床フロオベルの尺牘を読む。
正月廿七日。久米秀治来訪。
正月廿八日。褥中全集第四巻校正摺を見る。
正月廿九日。改造社原稿を催促する事頗急なり。
正月三十日。大工銀次郎来談。
正月卅一日。病後衰弱甚しく未起つ能はず。卻て書巻に親しむ。
二月朔。臥病。記すべき事なし。
二月二日。臥病。
二月三日。大石君来診。
二月四日。病床フオガツアロの作マロンブラを読む。
二月六日。唖※(二の字点、1-2-22)子来つて病を問はる。
二月七日。寒気甚し。玄文社合評会の由。
二月九日。病床に在りておかめ笹続篇の稿を起す。此の小説は一昨年花月の廃刊と共に筆を断ちしまゝ今日に至りしが、褥中無聊のあまり、ふと鉛筆にて書初めしに意外にも興味動きて、どうやら稿をつゞけ得るやうなり。創作の興ほど不可思議なるはなし。去年中は幾たびとなく筆秉らむとして秉り得ざりしに、今や病中熱未去らざるに筆頻に進む。喜びに堪えず。
二月十日。蓐中鉛筆の稿をつぐ。終了の後毛筆にて浄写するつもりなり。
二月十一日。烈風陋屋を動かす。梅沢和軒著日本南画史を読む。新聞紙頻に普通選挙の事を論ず。盖し誇大の筆世に阿らむとするものなるべし。
二月十二日。蓐中江戸藝術論印刷校正摺を見る。大正二三年の頃三田文学誌上に載せたる旧稾なり。
二月十四日。建物会社※(二の字点、1-2-22)員永井喜平見舞に来る。
二月十五日。雪降りしきりて歇まず。路地裏昼の中より物静にて病臥するによし。
二月十七日。風なく暖なり。始めて寝床より起き出で表通の銭湯に入る。

(本文は「青空文庫」より)

  一時は、死を覚悟して遺書まで用意した荷風でした。

 日記からは、病気が全快しない間も、校正刷りを見たり、原稿を書いたりと売れっ子作家ゆえの大変さも垣間見られます。

 筆者は、「同じ感染症に二度かかる可能性もあり得る」として、「スペイン風邪の場合は『前流行』時と『後流行』時ではウイルスが変異していた可能性」を指摘しています。

 まさに、今懸念されている事態に相当するようなことが、実際に100年前には起きていたということになります。