木山捷平「修身の時間」
谷崎潤一郎「小さな王国」の方は、少しだけお休みをいただいて、40代前半から大ファンになった木山捷平さんの作品を取り上げてみます。
その名もズバリ「修身の時間」(初出、昭和34年9月「別冊文藝春秋」、講談社版全集第4巻所収)
木山 捷平(きやま しょうへい、1904年(明治37年)3月26日 - 1968年(昭和43年)8月23日)は、岡山県小田郡新山村(現在の笠岡市)出身の小説家、詩人。東洋大学文科中退。詩人として出発し、のち小説に転じた。「海豹」同人。満州で敗戦を迎え、帰国後、その体験をもとに長編『大陸の細道』『長春五馬路』などを発表。私小説的な短編小説やエッセイを得意とした。作家として目立たない存在であるが、庶民性に徹した飄逸と洒脱な表現で没後も根強い愛読者を持つ。
私が小学生のころ、父は毎朝十時ごろまでねていた。文壇に名を馳せることは、もはやあきらめていたろうが、それでも夜は一時二時ごろまで机に対(むか)って、お茶をのんだり、本を読んだり、漢詩のようなものを微吟したりしていたから、農夫にとって常識であるところの、鶏鳴と一緒にはおきられないのであった。金次郎の叔父の万兵衛の言い草ではないが、いたずらに灯油を消費するばかりであった。
ある日、学校で修身の時間、受持の先生が、
「お前たちのお父ッつぁんは、今朝、お前たちが学校にくる時、何をして居られたか」
という突拍子もない質問を発したことがあった。私にも第何番目かに指名があたった。私はハイと勇んで立ち上がり、
「ハイ、わしのお父ッつぁんは、わしが学校に来るとき、まだねて居られました」
と正直に答えると、間髪をいれず、教室中にどっと船端をたたくような哄笑がまい上がった。
私は前の生徒が答えた、「ハイ、おらのお父ッつぁんは、藁をうって居られました」とか、「ハイ、おらのお父ッつぁんは、牛屋の掃除をして居られました」などという立派な答えに比較して、自分の返事はひどく桁はずれの落第であったのかと、恥ずかしさに机の下に頭をかくして、長い間哄笑がしずまるまで、息の根をころしていなければならなかった。
(定金恒次『木山捷平の世界』岡山文庫より)
定金恒次『木山捷平研究』によれば、この作品は尋常小学校1年の修身書(明治43年)のうち、第12課「オヤヲタイセツニセヨ」という徳目の授業風景を回想的に綴ったものだということです。
実際の父親像は、作中の記述とは全く相違しており、捷平の父・静太は村役場の収入役を勤める傍ら、果樹の種苗作りや品種改良に打ち込んだ精農家でした。
こうした「戯画化」あるいは「自虐性」というのは木山さんの最も得意とするところで、「諧謔精神」ともいうべきもののなせるわざだと、定金氏は述べられています。
「尋常小学修身書巻1」東京書籍、明治43年(1910)
(国立教育政策研究所・近代教科書デジタルアーカイブ)
国定教科書第2期に使用された教科書です。
1年生に「オヤヲタイセツニセヨ」という課を教えるに際して、これはよくあることですが、まずは各自の父親の日常の姿を想起させるというところから授業が始まっています。
担任の米沢千秋先生は、上の写真のように詰め襟の制服姿も初々しい青年教師ですが、後に自らも歌人としても活躍され、矢掛中学校(現在の岡山県立矢掛高等学校)時代に詩や歌を作り始めた木山さんに大きな影響を与えた方でした。
本作品の後半は、第17課「チュウギ」の話題です。
担任の米沢先生の、備中の方言ですが、まるで講談の一席を語るような名調子が続き、子供たちの手に汗握る様子が目に浮かぶようです。
実は、木山さんは姫路師範学校本科二部を卒業後、兵庫県出石郡弘道尋常高等小学校(2年)、同県飾磨郡荒川尋常高等小学校(1年)、同県同郡管生尋常高等小学校(1年)、東京府葛飾第二尋常高等小学校(2年)などで6年ほど教職に就いていましたので、その間の経験が反映されたものと見ることもできます。
ところで、私も(前期高齢者ですから)何がきっかけかは忘れましたが、木口小平のことは知っていました。
[生]1872.
[没]1894.7.29. 朝鮮,成歓
軍人。日清戦争中,安城渡の戦いで,歩兵 21連隊ラッパ手としてラッパを吹きつつ突撃中,左肺に敵弾が当り戦死。 1910年から尋常小学校1学年用の国定修身教科書に忠義の手本として「シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と,取上げられた。(「コトバンク」)
ただ、その文句は、「キグチコヘイ ハ シンデモ ラッパ ヲ クチ カラ ハナシマセンデシタ」というものでした。
ところが、このたび国立国会図書館のデジタルコレクションなどで見ると、捷平さんが習った国定教科書2期(明治43~大正6年、木山さんは明治43年尋常小学校1年生)においては、上の画像のように「キグチコヘイ ハ ラッパ ヲ クチ ニ アテタ ママ シニマシタ。」という一文なのです。
この教材の一文は、第3期国定教科書(1918年・大正7~1933年・昭和8年)で改訂され、次のよく知られたものになったようです。
今見ると、いくら日露戦勝後の軍国主義華やかなりし時代とはいえ、小学校1年生には、実在の人物の壮絶な戦闘死の例を扱ったという点では、生々しすぎる題材ではと思われます。
当時の教師用指導書には、これは一例ですが、次のような記述がありました。
「木口小平が松坂大尉に従って,ラッパ吹奏の命令を受け,敵前数歩の所にありて,少しも恐れず,勇ましく進撃の譜を奏すること三度に及びしとき,忽ち弾丸に中りて舞れたりと解説」し,「諸子よ,日本人たるものは,天皇陛下の御命令あらば,勇んで戦場に出でざるべからず。ーたび戦場に出たるものは上官の命ずるままに火の中,水の中にも飛び入りて天皇陛下の御ために尽くさざるべからず」と「忠義」の実践に言及している。
「第二期固定修身教科書の忠義及び「忠君愛国」教材の背景一日露戦争に着目して一」(J ason S. Barrows )
教師用指導書における指導案の一例
最後は教育勅語と関連付けて終わるようにとなっています。
本作品の終わりに近いところで、木山さんはこんなことを言っています。
私が、木口小平は私のところ(岡山県笠岡市山口)からわずか六、七里しか離れていない、いわば同郷人(岡山県高梁市成羽町)だと知ったのは、それから三十年もたった昭和十七、八年のことである、迂闊な話だが、その時私は小平はあんなに国定教科書にまで採用されている有名人でありながら、まだ二等卒のままであることを初めて知った。金鵄勲章ももらっていなければ、勲八等さえもらっていないことも初めて知った。当時(大東亜戦争といった時代)は兵卒でもちょっとしたテガラをたてると、二階級とんだり、三階級特進したりしていた時代だったので、私はまことにヘンな気がしてならなかった。
それにしても「三階級特進」とは!?
いかにも、捷平さんらしい感想ですね。
関連書籍を含めると100冊を超えていました(笑)