小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

山本有三「波」③ 中等教員検定

 行介はきぬ子との間に出来た男の子(実の子どもではないのではと悩んでいたが・・・)を里子に出すことにしました。

 

 行介もさすがに残り惜しいような気がしないでもないが、しかしこれで駿(すすむ)の片がつけば、彼は本当に身軽になれるばかりでなく、十分勉強も出来ると思った。彼は一生小学校の教員で終わりたくなかった。せめて中等教員の免状ぐらいは取っておきたかった。その素養を土台にして、彼はもっと先の研究もしたかった。で、今まででも僅かな時間と費用とを割いて、こつこつと勉強していたのだった。今度、駿の里扶持の金が浮けば、夜学にも通えると彼は思った。
(中略)
 しかし中等教員検定試験の日が近づいたので、行介はあまりそんなことを考えている暇はなかった。試験は今度で三度目だった。今度駄目だったら、彼はもう諦めようと思っていた。彼は中等教員になりたいのが主眼ではなかった。何かこういうものを目標にして勉強しなくては、なかなか勉強が出来ないと思ったからだった。
 試験の日が来た。予備試験はうまく通った。本試験も大抵うまく行ったような気がするが、一題あやふやなのがあって心配だった。学校の卒業試験ならば無論大丈夫だが、検定試験では少しでも怪しいのがあると通過は困難だった。金持のお坊ちゃんがほとんど遊び半分に通っている学校では点が甘くって、高等の学校に入学出来なかった、むしろ同情されるべき立場にある人達の方が、却(かえっ)て苛酷に採点されるというのは、実に妙な話だがそれが現在の実情だった。

  長年の努力の甲斐あって、行介は中等教員の英語の検定試験に見事合格し、小田原市内にある某中学校に採用されることになりました。

■ 「文検」とは
 行介が受験していた「中等教員検定試験」というのは、正式名称を「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」(略して「文検:ぶんけん)といいました。
 明治17年(1884)から昭和23年(1948)までの60年余の長きにわたり実施されていた中等教員免許の検定試験でした。
 ここで、戦前の旧制度下における中等学校教員(中学校、高等女学校、師範学校、実業学校)の教員養成制度の概略を見ておくことにします。
当時の中等学校教員(中学校・高等女学校・師範学校)の養成資格取得について分類すると次のようになります。

(1)目的学校による養成・・・高等師範学校、女子高等師範学校、臨時教員養成所
(2)検定による資格取得
   ①無試験検定(出願者の提出した学校卒業証明書・学力証明書等を通じて判定する間接検定方式)
   ○指定学校方式・・・官立高等教育機関帝国大学、高等学校等)卒業生について検定する。
   ○許可学校方式・・・公私立高等教育機関の卒業生について検定する。
   哲学館(東洋大学)、國學院國學院大学)、東京専門学校(早稲田大学)等
   ②試験検定(出願者の学力・身体・品行を試験によって判定する直接検定方式) 
    「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」(文検)

 

 

f:id:sf63fs:20210409155005j:plain

「文検」受験者向けに多くの参考書や問題集が出版されていました。

 統計が残されている第8回(明治27年・1895)から第71回(昭和14年・1939)までの総計で、受験者は23,395人。毎回の合格率が10%前後という、相当な難関でした。

f:id:sf63fs:20210409155255j:plain

大正年間の「文検」受験者と合格者数

■ 小学校教員と中等学校教員 ー給料の格差ー
 明治時代以来、中等学校の教員は給料も社会的地位も小学校教員に比べると、はるかに高いものがありました。
 夏目漱石坊っちゃんの中で、教頭の赤シャツが「元来中学の教師なぞは社会の上流に位するものだからして」と言う場面がありますが、社会的威信の高い職業と見なされていたのです。
 若い小学校教員の中には独学で検定試験合格に向けての受験勉強に励む者が多く見られ、一時は「小学校教師の試験病」(天野郁夫『学歴の社会史ー教育と日本の近代』)と揶揄されたことがあるほどでした。

 それでは、待遇にどれほどの格差があったかのでしょうか。
 陣内靖彦『日本の教員社会ー歴史社会学の視野』には、次のような数字があがっています。
 

大正6~8年頃(1917~1919)※免許状、職階などの条件は考慮せず
 小学校教員の平均月俸 22円~30円
 中学校及び甲種実業学校 49円~55円

  具体的な一例を挙げてみましょう。
 大正4年(1915)度の「東京府学事関係職員録」からです。額は同書掲載の俸給表より。諸手当、加俸額などは含んでいません。

 それぞれの学歴の詳細までは分かりませんが、中学校教員は小学校教員のおよそ2倍近い給料をもらっていたと見てよいでしょう。

 ○府立第三中学校の場合 
 校長(奏任官待遇)年額1500円(月額125円)
 教諭中の筆頭者(奏任官待遇)年額1000円(月額83.3円)
 判任官待遇の教諭中 最高俸給月額70円 最低40円
 全教諭の平均俸給月額57.3円 ※俸給表をもとに計算しています。

f:id:sf63fs:20210409165112j:plain

 ○深川尋常小学校
 校長(判任官待遇)70円
 訓導中 最高俸給月額50円 最低16円
 全訓導の平均俸給月額30.8円

f:id:sf63fs:20210409165206j:plain

 陣内・前掲書では、小学校教員の置かれた状況について、次のように述べられています。

 中等教員の生活が全体として楽であったとは必ずしも言えないけれども、それと比べて小学校教員は物質的にも、世間の評価からしても貧弱な相貌を呈していることは否定すべくもなかった。向上心に燃える青年教師の中には、こうした窮状にあき足らず、この世界から抜け出して、もっと華やかな世界にはばたきたいとひそかな野心を懐いていた者も少なくなかったであろう。