小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

「東京少年」② 集団疎開1日目

    集団疎開に応じることが決まると、主人公は明治座で芝居を見たり、中華料理屋で豪華な「闇料理」を食べたりと、裕福な商家のお坊ちゃんらしい日々を送り、出発の日に備えていました。

 主人公たちが向かう疎開先は、埼玉県入間郡名栗村(現在は飯能市)の竜源寺でした。

 長い一日だった。
 学校での壮行式を終えて、校庭を出て省線電車に乗り、池袋駅で午前中を費やした。日本橋区の生徒は全員が埼玉県に向かうので、少しずつ送り出さなければならず、手違いもあったように思う。
 この竜源寺にたどりついたのは五十三人で、そのうち六年生は四十五人だった。残りが弟妹ということになる。
(中略)

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現在の飯能市名栗地区

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  ぼくたちが生活することになる本堂は、五十畳ほどの広さがあった。障子や襖を外して、四つの部屋をつなげると、その程度の広さになる。
 さらに教員室として、奥の八畳間があり、たった一人の教師が占拠した。寮母は庫裏に続く十畳ほどの部屋に寝起きし、そこは〈医務室〉と呼ばれるようになる。じっさい、この年は夏の去り方が急速だったので、病人が絶えることがなかった。
 手洗いは本堂の裏手に作られていた。生徒を受け入れるための応急仕事らしく、生木とベニヤの匂いが鼻腔を刺した。下見したぼくは、慣れることができそうもないと感じた。水洗式でない手洗いを初めて見たのである。
 裸電球の弱く赤っぽい光の下で、夕食が始まった。さすがに山の中だけあって灯火管制はゆるかったが。
 献立は、カボチャのカレー汁、魚の干物、小丼の盛り切りご飯で、これは、元旦を除けば、この寺における最高の食事だった。特に、魚ーその種類は不明だが、ーは、これが最初で最後だった。
(中略)
 気力が残っている者は、先に着いていた行李を解き始めた。六年生は、中学に進む時の学用品まで持ってきたので、荷物が多いのだ。ぼくも、父に貰ったスイス製の腕時計や、使い方のまるでわからない製図用具の大きなセット、さらに中学受験用の問題集まで持ってきていた。
 寝転んだ連中は、闘球盤やダイヤモンド・ゲームを始めた。柱にもたれて、漫画や少年講談を読む者もいた。 下級生の一人が、縁側でハーモニカを吹き始めた。調子っぱずれの「さらば、ラバウルよ」をくりかえしている。
(2第一の異界)

 

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壮行会(神田・芳林国民学校昭和19年8月、早乙女勝元他編集『写真・絵画集成 戦争と子どもたち』日本図書センター、1994)

 ■ 疎開は「子どもの戦闘配置」!?

 東京都における学童集団疎開は、昭和19年(1944)の7月から8月にかけて、急速に具体化されていきました。
 各学校では7月17日から、児童・保護者への「勧奨」を開始し、20日までに保護者の申請書を提出させるという慌ただしさでした。
 都下のすべての国民学校(小学校)長を招集した会議で、当時の大達茂雄東京都長官(知事に相当)が訓示した内容について、逸見勝亮『学童集団疎開史 子どもたちの戦闘配置』(大月書店、1998)では、以下のような内容の訓示があったことが紹介されています。

1 学童疎開の意義は、「防空の足手まとい」を除くことで防空態勢を強化する一方、「若き生命を空爆の惨禍より護り、次代の戦力を培養することになる」こと。
 言い換えると、「帝国将来の国防力培養であり、帝都学童の戦闘配置を示すもの」

2 引率教員に対しては、「全く名誉の応召者と同様の決意と矜持を以て服務するのでなければ・・・・集団疎開教育は成立しない」という覚悟が必要なこと。

  都下の国民学校では、すぐさま父兄会(保護者会)を開き、あまりに急なことでためらう親たちを、あの手この手で「勧奨」しました。
 逸見・前掲書では、7月18日付けの「東京都隣組回報」の「勧奨文」が紹介されています。

 「学童の疎開について父兄各位に急告」 ※現代仮名使いに改めています
 次代を担う少年の、否決戦下の後続部隊たる学童の生命を、空襲の惨禍から救うことは、これこそ真に親の大愛の発露だと言うべきです。グズグズしてはいられません。即断即決、大切なお子さんを疎開させましょう。戦いに勝ち抜くために。

  こうして、当局と各学校の必死の努力の甲斐あってか、集団疎開希望者は予定していた20万を大きく上回り、約26万にも達したと言うことです。
 その結果、当局は受け入れ先の調整や新たな確保に忙殺されることとなりました。

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東京都学童集団疎開先各区割当・集団疎開希望者数(逸見・前掲書)

疎開先は、神奈川を除く関東各県と、遠くは東北地方の3県にも割り当てられていました。

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疎開先に向かう列車内での記念撮影、神田・芳林国民学校

子どもたちの表情には、「戦闘配置」の悲壮感は見られません。

 早乙女勝元他編集の前掲書より、下も同じ

 

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受け入れ先としては、旅館、寺院などが多く使われました。

壁も黒板もない、広いお寺の本堂での授業風景

 ※戦前でありながら、水洗便所しか知らなかったという主人公は、何度も繰り返しますが、やはり都会のお坊ちゃんだったんですね。