三浦綾子『銃口』その5 昭和12年、小学校では・・・
■ 昭和12年と言えば・・・・
昭和12年(1937)9月、竜太は空知郡幌志内(炭鉱の町・歌志内がモデル)の小学校に赴任することになり、校長の沢本を訪ねました。
まだ軍隊を出たばかりの坊主頭だが、三分程は伸びている。その坊主頭を眺めながら、沢本校長は言った。
「ところでな君、わしは今や『国体の本義』の猛烈な愛読者だ。君は『国体の本義』を読んだかね」
「いえ、まだです」
「何、まだ読んでおらんのか。それはいかんな。今や日本は支那大陸に本格的に戦火を拡大しようとしている。日本は、天皇陛下を中心に一致団結せねばならん。時代は大きく変わりつつある。・・・・」
(「炭塵」)
昭和12年(1937)7月7日、中国北京郊外の盧溝橋での日中両軍の小衝突を発端として、その後戦火が拡大し、日本は上海地方への出兵を決定。9月2日には、「支那事変」と称すると発表し、日中は全面戦争状態に突入しました。
太平洋戦争へ続く「盧溝橋事件」の火種はなぜ燃え上がったのか――周到に“用意されたシナリオ”とは | 文春オンライン (bunshun.jp)
当時の学校教育を取り巻く情勢について、まずは『学制百二十年史』の記述を見ておきましょう。
○教育審議会等の教育改革方策
昭和六年のいわゆる「満州事変」以後我が国の教育は戦争の影響を被り始めたが、教育全体の戦時体制化は十二年以降の日中戦争の拡大を契機に形作られ、戦局の激化に応じて二十年の終戦に至るまで著しく強められていった。
戦時下の教育改革の基本構想を形作る上で大きな役割を果たしたのは、十二年十二月から十七年五月まで設置された教育審議会である。(中略)
教育審議会への諮問は、「教学刷新」の発展としての「皇国ノ道」を基本とする教育目的論の明確化とそれに基づく教育内容・方法の改革に重点が置かれていたが、これを審議していく過程において教育制度全体の改革へ進むこととなった。
○戦時教育体制の進行
日中戦争の全面化は国家総動員体制を必然化させたが、教育ももとよりその例外たり得なかった。戦争遂行のための志気の鼓舞や思想の統制、軍事要員にふさわしい教育・訓練、生産力増強のための技術技能教育などと並んで、総力戦の貫徹の必要から様々な教育上の合理化方策が採択された。
昭和十四年五月「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」が下賜され、文部大臣は同日その聖旨奉戴(たい)方を訓令した。この勅語の奉体方は、教育勅語と並んで重視された。
※太字・下線は筆者
(二 第二次世界大戦下の教育https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318240.htm )
国の内外で緊迫の度合いが高まる中で、文部省はこの年の5月31日、『国体の本義』を刊行し、全国の学校、社会教化団体などに配布を開始しました。
■『国体の本義』とは
この書物について『日本近代教育史事典』(平凡社、1971)は、次のように説明しています。
昭和十年代の政府側の正統的国体論・国史観の統一と普及の役割をになった文献である。本書は、文部省が国文学・歴史学・哲学・神道・儒教・仏教・法律・経済等の諸学の委員を委嘱して編纂した。
この編集の動機は、教学刷新評議会の答申に基づき、「教学刷新」「国体明徴」の精神を徹底するにあった。文教政策の基準としての国体論を示すことを目標としたが、神話・古典を論拠として国史の現実的過程の一切を「肇国の精神の顕現」と解釈し、他方、西洋近代思想の排撃を行っている。(後略)
*国体・・・ 国家の状態、くにがらのこと。または、国のあり方、国家の根本体制のこと明徴・・・明らかな証拠。また、証拠などに照らして明らかにすること。
国の始まりについて、本書は『古事記』、『日本書紀』に基づき、いわゆる「万世一系」の由来を述べています。
第一 大日本国体
一、肇国
大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳(へい)として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏(かた)く、天壌と共に窮(きわま)るところがない。我等は先づ我が肇国(ちょうこく)の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。
我が肇国は、皇祖天照大神(あまてらすおほみかみ)が神勅を皇孫瓊瓊杵(ににぎ)ノ尊に授け給うて、豊葦原の瑞穂(みづほ)の国に降臨せしめ給うたときに存する。而して古事記・日本書紀等は、皇祖肇国の御事を語るに当つて、先づ天地開闢・修理固成のことを伝へてゐる。即ち古事記には、
天地(あめつち)の初発はじめの時、高天(たかま)ノ原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天之御中主(あめのみなかぬし)ノ神、次に高御産巣日(たかみむすび)ノ神、次に神産巣日(かみむすび)ノ神、この三柱の神はみな独神(ひとりがみ)成りまして、身(みみ)を隠したまひき。
とあり、又日本書紀には、・・・・ ※新字体に改めています。
「『国体の本義』の猛烈な愛読者だ」と言う校長の下で、教職員たちはどんな日常を過ごしていたのか、次に見ていくことにします。
■ 初出勤の学校では・・・
初出勤の日、幌志内小学校では、早朝5時過ぎには、教員たちは奉安殿を始めとして校内の各所を清掃をし、6時半頃からは職員室で修養の時間と称して30分の黙読をしていました。
その後の職員朝礼では、次のような場面が展開されます。
柱時計が七時を知らせた。と、職員たちは一斉にその場に起立して、校長のほうを見た。校長はみんなに背を向けて立った。校長のうしろには、日の丸の旗を入れた額が掲げてあった。教頭が大きな声で言った。
「小学校教師ニ賜リタル勅語」
職員たちは声を揃えて勅語を唱え始めた。
「国民道徳を振作して以て国運の隆昌を致すは其の淵源する所実に小学校教育に在り事に其の局に当たるもの夙夜奮闘努力せよ・・・・」
一同がよどみなく明晰に唱和した。つづいて幌志内小学校教師の歌がうたわれた。
わが大君の赤子なる/子らを育てん今日の日も/わが光栄の勤めかな
美しい曲だが、竜太の知らない歌だった。
「一同着席」
との教頭の号令で、教師たちは着席した。
(「初出勤」)
学校教育に関する勅語としては、「教育勅語」は別格として、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」(昭14年5月23日)については、その名称ぐらいは知っていましたが、「小学校教師ニ賜リタル勅語」というのがあったのは知りませんでした。
これは、昭和9年(1934)4月3日、神武天皇祭にあたって、文部省が全国の小学校教員の代表3万5千人を宮城前に集め、「全国小学校教員精神作興大会」が開催しましたが、その際に天皇陛下の御親閲をいただき、賜わったものでした。
「教育ノ任ニ在ル者ニ対シ下シ給ヘル勅語」昭和9年(全国聯合小学校教員会 編『全国小学校教員精神作興大会御親閲記念誌』より。名称を「 国民道徳作興ニ関スル勅語」または文中のように「小学校教師ニ賜リタル勅語」とする場合があるようです。)
本勅語の内容は、「国運の隆盛は、国民道徳を振興することにある。その基礎となるのは、次代を担う国民を育てる小学校教育であり、小学校教育にあたる者は日夜努力せよ」というものでした。各学校では、この勅語謄本を「教育勅語」や御真影とともに奉安殿に奉っていました。
■ 初めての朝礼では
朝礼の時間が来た。校長のあとについて、竜太は屋内運動場に入った。入って、はっと息をのんだ。千二百人に及ぶ生徒が、しんと静まり返ってそこに立っているのだ。尋常科一年生から、高等科二年生まで、一様に、かすかな身じろぎさえしない。(中略)
「宮城に対し奉り、遙拝いたしましょう」
千二百人の生徒は、一斉に廻れ右をした。
「最敬礼!」
生徒たちは一糸乱れず最敬礼をした。どの子の指の先も、膝まで達している。正に直角、九十度の礼だ。(中略)
壇上の校長が、満足そうに挨拶を返した。校長は口をひらいた。
「今日も兵隊さんたちは、遠い支那でお国のために戦っています。わたしたちも、一生懸命勉強しましょう。お国に役立つ生徒になりましょう」
(「初出勤」)
この時期以降、終戦に至るまで、外地を含む全国各地の小学校で、毎朝このような光景が見られたのではないでしょうか。
時代の空気がよく感じ取れる叙述になっています。
その頃の小学校での朝礼の様子を紹介しておきましょう。筆者は昭和14年(1939)当時、兵庫県芦屋市の宮川尋常高等小学校の5年生でした。
○朝礼
いよいよ朝礼が始まる。全校生徒は校庭に集合の上、(前にならへ!)の号令できっちりと整列したあと、校長が朝礼台に立ち、当番先生の指揮のもとに朝礼は進行してゆく。宮城遙拝から始まって国旗掲揚、三大スローガン(尽忠報国・挙国一致・堅忍持久)の斉唱、それに校長または教頭の訓話が行われたあと、ラジオ体操となる。
ラジオ体操は、当時「ラジオ体操のおじさん」で名前を売っていた江木理一アナウンサーの発声による「ラジオ体操の歌」が録音されて、マイクから流される。
躍る 旭日の光を浴びて
屈げよ 伸ばせよ 吾等が腕(かいな)
ラジオは号(さけ)ぶ 一、二、三(後略) ※太字は筆者
高瀬湊『僕たち”神戸っ子”の「少国民時代」ーあのころ日本は戦争をしていたー』
神戸新聞総合出版セター、2006年
※『国体の本義』という書名を見たとき思い出したことがあります。
筆者の母校である広島大学(文・理・教育学部)とぞの前身校である広島高等師範学校、広島文理科大学の同窓会は「尚志会」といい、その昔は中等教育界において、東の「茗渓会」(東京高師、文理大、東京教育大、筑波大)と並び、一大勢力を誇った(?)時代がありました。
若い頃、その会員名簿の中に、「昭和○○年大体」と略記されている方があるのを見つけて、「文理科大学に体育の学科はなかったのに・・・?」と不思議に思ったことがありましたが、これは昭和13年(1938)、文理科大学哲学科の中に置かれた「国体学」専攻のことだったのです。西晋一郎というカリスマ的な教授がおられたと聞いています。
いったい、どんな勉強をされたのでしょうか?