藤森成吉「ある体操教師の死」その2 体操教員の養成
木尾先生は、或る山国の地方の中学教師だった。教師と云っても体操科のー一生をそれで終わったのである。
然し生徒達は、誰も先生の本姓を呼ぶ者はなかった。みんなペッカア(啄木鳥)と云う符号で呼んだ。
その奇妙な綽名(あだな)は、あきらかに容貌に拠っていたらしかった。先生は割合顔が小さく細長く頬がやせこけていた、そのせいか、口の部分が丁度犬や狐のそれのように特口形(とっこうがた)をしていた、その特徴は、先生が口を開いてまさに物を云おうとするとき殊に著しかった。
(中略)
先生はどの生徒からも馬鹿にされていた。
一つには、それは先生の頗(すこぶ)るあがらない風采から来ていた。あの突口のほか、先生はいつも質素なジャンギリ頭で、くりくり円い眼つきをして、薄い茶色のショボショボ髭を生やしていた。いつも日にあたっているので、全体に真黒にやけてはいたが、元来貧血症らしいその顔色は青黒かった。身体も鍛えられてはいたが、痩せて一向肉がなかった。そこへ服装なぞは少しも構わずに、始終まるで軍人でも着るようなごしごししたカアキイ色の詰め襟を着ていた。
そう云う風采に加えて、先生には何の学問の背景もなかった、先生は高等師範出身ではなく、体操教習所卒業してすぐに赴任したのだった。ー従って幾年勤めても、給料は職員中で一番低かった。
■ 体操教習所? 体操伝習所? 体操練習所?
「体育」という用語は 「physical education」(直訳:身体的教育)を訳したもので、「知育」(intellectual education)、「徳育」(moral education)を合わせた「三育」の一つとして、明治の10年代には定着していたということです。(森田信博「『体育』概念の形成過程について」)
しかし、「体育」が教科の名称となるのは、戦後の学校教育法の下においてでした。
「学制」公布の翌年、明治 6年(1873)に「体術」から 「体操」となって以降、昭和16年(1941)の「国民学校令」により、 「体練」に変更されるまで、70年近く「体操」という名称が続きました。
ところで、木尾先生の出身校が「体操教習所」とありますが、そういう名称の学校は存在しませんでした。
明治11年(1878)から19年(1886)の間、「体操伝習所」という、よく似た名称の文部省の直轄学校がありました。これは明治政府により設立された我が国最初の体育に関する研究・教育機関でしたが、高等師範学校(後に東京高等師範学校)体育専修科に引き継がれました。現在の筑波大学体育専門学群の源流とされています。
前回(その1)の記事中に引用した顕彰碑の文中にあったように、木尾先生のモデル・山本喜市氏は日本体育会体操学校高等本科(現・日本体育大学)の卒業生でした。
同校の前身が「日本体育会体操練習所」(明治26年創設)と称していたために、混同されたのかも知れません。
■「何の学問の背景も」ない?
「そう云う風采に加えて、先生には何の学問の背景もなかった、先生は高等師範出身ではなく、~」という箇所も気になります。
木尾先生が中等教員養成の「目的学校」であり、「教育の総本山」とも呼ばれた高等師範学校(後の東京高等師範学校、東京教育大学、現在の筑波大学)の卒業生ではなく、格下の学校出であるために、明らかに生徒たちから軽んじられているというのです。
ところが、木尾先生が中学校教員となった明治30年代後半頃の中学校教員の学歴(資格)といえば、下の表に見るように、それこそ種々雑多な構成になっていました。なんと無資格教員が約37%を占めるというお寒い状況だったのです。
■ 体操教員の養成 ー陸軍下士官のイメージはどこから?ー
明治19年(1886)に諸学校令を公布した初代文部大臣の森有礼は、富国強兵政策の一環として、「兵式体操」を重視し、諸学校での実施を積極的に推進しました。
当時の体操科は「普通体操」と「兵式体操」に分けられていましたが、現場では後者に力点が置かれていたということです。
その後、次第に中等学校が増設されていきましたが、体操教員の養成・供給が追いつかなかったために、「兵式体操」の教員に、陸軍歩兵科士官及び下士官経験者で「任官後満四年以上現役ニ服シタル者」等が多く採用されていきました。
戦前の「体育教師=陸軍の下士官」というあまり好ましくないイメージは、そうしたところから生まれたとも言われています。
なお、明治30年代後半以降は教員免許に関する規程が変更され、陸軍出身の体操教員は激減していきました。
■ 日本体育会体操学校の創設と発展
西南戦争に従軍した経歴を持つ日高藤吉郎(安政4~昭和12年・1857~1937)は、陸軍を満期退役した後、明治24年(1891)に現在の日本体育大学の前身となる「体育会」(翌年に「日本体育会」)を創設しました。「体育は富強の基なり」を理念に掲げ、「国民体育の振興を図って将来の強靱な肉体を有する兵士を養成する」という目的からの出発でした。
同会は1893(明治26)年には、体操教員の養成の場として飯田町に体操教師練習所を設置します。
これが明治33年(1900)に日本体育会体操学校となり、同校の高等科本科(各種学校で修業年限1年6ヶ月、後に2年)の卒業生が明治34年(1901)に文部省から中等学校教員免許状の「無試験検定」の出願資格を得たことから、以後中等学校を中心に、多数の体操教員を輩出するようになっていきます。
本作品の主人公・木尾先生のモデルとなった山本喜市先生は、この高等本科を明治37年(1904)7月に卒業して、8月に長野県立諏訪中学校に赴任しています。
官立では東京高等師範学校に体操専修科が設置されていましたが、定員が限られていたために、戦前の中等教育諸学校の体操教員中、同校(1941年、専門学校令により日本体操専門学校)の卒業生の「市場占有率」には相当高いものがありました。
ここまで見てきたように、木尾先生は無資格教員が三分の一以上もいた当時に、「中等学校教員無試験検定」の学校を卒業した有資格教員ですから、生徒たちから「何の学問の背景も」ないなどと、酷い言われかたをされる筋合いはなかったのです。
ここからは推測の域を出ませんが、当時の中学生を初めとする学校関係者の体操(体育)という教科、そして体操教員に対する評価に、根本的な原因があったのかも知れません。
ここまで書いて思い出したのは、漱石の『坊っちゃん』の中で、寄宿舎でのバッタ事件の後に生徒処分を決める職員会議が開かれた場面での次のような記述でした。
会議室は校長室の隣にある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。黒い皮で張った椅子が二十脚ばかり、長いテーブルの周囲に並んでちょっと神田の西洋料理屋ぐらいな格だ。そのテーブルの端に校長が坐って、校長の隣りに赤シャツが構える。あとは勝手次第に席に着くんだそうだが、体操の教師だけはいつも席末に謙遜するという話だ。(六)
作中時間は明治38年(1905)と推定されており、木尾先生が新卒で赴任した頃なのです。
なぜ、「体操の教師だけはいつも席末に謙遜」していたのでしょうか?
本格的に考察してまとめれば、例えば「明治期の中学校における体操教員の社会的位置づけ」などという論文になりそうなテーマではありますが、とても私などの手に負えるものではありません。
鹿児島大学教育学部の先生がまとめられた「体育教師の社会的地位に関する研究1~4」(1986~1990年)という論文があります。
「日本の論文をさがす」で閲覧できますので、リンクを貼っておきます。
https://ci.nii.ac.jp/search?q=%E4%BD%93%E8%82%B2%E6%95%99%E5%B8%AB%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%9A%84%E5%9C%B0%E4%BD%8D%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E7%A0%94%E7%A9%B6&range=0&count=20&sortorder=1&type=0