小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

藤森成吉「ある体操教師の死」その6 体操教師像の変遷・大正文学の中の中学教師像 

「なんだか。此の頃ペッカァは一向気がなくなったじゃねえか。そうしていやに隠居臭くなって。へえちっと耄(ぼ)けたかな。」
 そう云う生徒達の言葉通り、先生は明らかに耄碌(もうろく)し出した。その顔や手には著しく皺(しわ)が寄り、容貌や様子は、まるで六十の老人のように年寄りじみて来た。
 (先生はある秋の日、体操の時間にわずか三段の跳躍台を跳ぶ見本を示そうとして、三度とも無様に失敗。その後は学校を休みがちになり、ついには一年間学校に姿を見せず、免職となってしまいます。たまに学校に姿を見せる先生には老耄のような状態を呈していましたが、とうとう四十代の若さで亡くなってしまいました。)

 以前の中学校へ訃報が知らされて来た時、職員達は僅かな香奠(こうでん)を集めて、弔辞と一書にその貧乏な遺族へ送ってやった。生徒達のあいだにも拠金の議が起こった。なくなったと聞いて見ると、前の苛酷の記憶はそれとして、兎に角(とにかく)熱心な真面目な、無愛想ではあったが公平だった先生の面影が、みんなの頭へ浮かんで来た。中には、余計な金なんぞ出す必要はないと、反対を唱える者も幾人かあったが、かなり手間取ってやっと若干の金が集められた。
「ペッカァも可哀想な事をした。散々台を跳び越したりして、あげくの果てに命まで跳び越しちまった。でもあの人のことだで、今ン頃地獄へ行って体操をやってるか。」
 そう云う噂が、しばらく生徒達の戯談(じょうだん)に残った。(1922・6)

  

 木尾先生のモデルとなった山本喜市氏は、本ブログ(その1「モデル山本喜市のこと」)で述べたように、大正10年(1921)に40歳の若さで亡くなりました。( 明治時代・大正時代は、男性の平均寿命は43才前後であったそうです)
 作中の記述通りに頑健な肉体と強靱な精神の持ち主でしたが、「生来の胃腸病と疲労による神経衰弱が原因で」あったということです。
(臼田明「県下体育・スポーツの発展に貢献した山本父子の研究」『山本喜市と諏訪の体育』所収)

 

■  大正文学の中の中学教師像
   

 中学校(旧制)の教師を主人公とした小説としては、夏目漱石坊っちゃん明治39年・1906、数学教師)は余りに有名ですが、大正期においても本作品の他に、藤森成吉『旧先生』大正8年・1919、英語教師) 芥川龍之介『毛利先生』(同、英語教師)などが発表されています。
 

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東京府立三中時代の芥川龍之介(府立三中・都立両国高校同窓会・淡交会ホームページより)

 本作品を含めた大正期の三作品に共通するのは、主人公の教師たちがこの上なく善良で真面目で熱心なのに、生意気で辛辣な中学生の軽蔑を買い、ばかにされたり、からかわれたりする哀れな存在として描かれているという点です。
 中でも、本作品の木尾先生の場合は、貧しさがにじみ出たような容貌、まるで下級軍人のような質素な服装、それに低学歴のため安月給に甘んじる傍系教科の教師という残酷な描き方をされています。
 

 教育史の研究者は、本作品と主人公についてこう述べています。
 

 とにかく、熱心で、真面目、しかも無愛想、生徒から嫌われても将来感謝されることに期待をつないで、厳格主義そのもので生徒を鍛える。しかし、学歴もなく、給料も最低、しかも軍国主義教育の尖兵として自らの生命力をすべて体操と教練の指導に燃焼し尽くしてさびしく死んでいく、そのような体操教師の歩みを作者はたんたんと描いている。

  伊ケ崎暁生『文学でつづる教育史』(民衆社、初版1974年)より「第7章大正期の教師像と新教育の展開」※太字は筆者
 

 

 近代文学の研究者の場合は、少し視点が異なります。

   もしも受験に関係のない科目を担当する教師が、その科目の授業を極めて熱心に行ったとしたら、どうだろうか。そういう問題を扱った小説が、藤森成吉の「ある体操教師の死」(1922)である。(中略)受験に何のプラスにもならない体操の授業を熱心にする先生は、受験生にとって甚だ迷惑な存在だったわけである。
(中略)しかし生徒達はそれなりに木尾先生の「誠実」と「熱心さ」を評価もしていたのである。その点において、生徒達にとって木尾先生は懐かしさを思い起こさせる教師でもあったと言えよう。しかしながら、受験体制下の生徒達にとっては、木尾先生はやはり傍迷惑な教師でもあったのである。
  綾目広治『教師像ー文学に見る』(新読書社、2015年)より「第3章 新しい教育観を持った教師たちー大正期・受験体制下の教師などー藤森成吉・徳永直・久米正雄」 ※太字は筆者

   軍国主義教育の尖兵」(他に国家主義体制の犠牲者」とも評されています)という位置づけにも、また「受験体制下の迷惑な体操教師」という捉え方にも、たしかに否定しがたい面があります。
 ただ、どちらの論も、それまで教練(兵式体操)と機械体操一辺倒だった体操科の授業や課外の活動に、主人公がスケート、水泳、マラソンと次々に新しいスポーツを導入し、熱心に取り組む様子がほとんど無視されているように思われます。

 「旧い精神」「厳格に、規律的に、軍隊式に叩き上げる」という明治以来の典型的な体操教師に対して、大正デモクラシーの最中(さなか)、新しい時代の動きに敏感な生徒たちが反発や軽蔑を示したというステレオタイプ式な捉え方もできるのでしょうが、本作品にはそうした捉え方には収まりきらないところがあると思われますが、いかがでしょうか。

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東京府立第一中学校(現・都立日比谷高等学校)大正元年(1912)卒業生
東京府立第一中學校創立五十年史』(1929)より
兵式体操の教官が3名在籍していたようです。半数以上の教師が髭を生やしています!!

 

■ 体操教師像の変化 ー兵式体操(教練)を中心にー   
 既に見てきてように、明治中期以降の体操教師には、兵式体操を主に担当する退役軍人(多くは下士官上がり)が多く採用されていました。
 彼らは中学校などの学校現場において、生徒たちに対して軍人的性格や習慣を育成することを期待されており、本作品にも見られるように、生徒の「操行」指導(現在の生徒指導)を担うことがよくありました。
 この「軍人的体操教師」には、常に様々な批判がつきまとっていました。その多くは没個性かつ画一的な指導、知性の欠如、学識や教養の不足等々といったものでした。
  明治39年(1906)に出された「体操遊戯取調報告書」においては、体操という教科と体操教員について、以下のような現状認識が示されています。

 

 学校生徒の本科に対する熱心の程度は小学校より漸次上級の学校に至るに従い益々低下し殆ど本科の価値を認識せざるに至るが如し。是れ畢竟教員其の人を得ざるの致す所なりといわざるべからず。(国立体育研究所に関する件)※新字新仮名遣い

 「体操」という教科に対する生徒たちの取り組みの熱心さが、上の学校に行くほど低下していくのは、結局は教師の資質のせいであるという厳しい見方が示されています。


 また、東京高等師範学校体育科教授などを勤め、戦前長らく学校体育の中心的な存在であった二宮文右衛門(明治17~昭和21年・1884~1946)は、次のように述べています。

 

 指導者論
 従来、体育指導者なるが故に、多少の人格的教養が劣っていても、あまり不思議だと思われなかった例は多い。即ち体育家なるが故に、文化人としての教養がなく、粗暴にして獣的であっても少しも怪しいとされなかったのである。(『新学校体操』目黒書店、1940年)

 「粗暴にして獣的」とは、なんとも過激な表現ですが、学校現場における体罰などを指して言ったたものでしょうか。

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西山夘三『大正の中学生―回想・大阪府立第十三中学校の日々筑摩書房、1992)より

 大正時代に入ると、課外活動から始まったスポーツが次第に学校体育へと導入されていきます。体操教師に、様々なスポーツ(中でも球技)に堪能であることが要求されるようになると、それまでの「軍人的体操教師」像から「コーチ的体操教師」像ないしは「スポーツマン的体操教師」像への変化が見られるようになります。
   時代は大正デモクラシーを背景とした、自由主義教育の興隆期でもありましたが、文部省などにおいては、そうした思想傾向を問題視して、国民精神の覚醒を図る必要があるとの方向性が打ち出されました。
 背景には第一次世界大戦の勃発により、各国で国民教練の機運が高まり、国防的訓練、軍事予備教育などに力を注ぐようになったことがありました。
 大正7年(1918)、臨時教育会議での「兵式体操振興ニ関スル建議」においては、諸学校における「教練の一層の振作、徳育への裨益、国防能力の増進」などを目的として、中等学校以上への現役将校の配属が提議されました。

 その後、大正13年(1924)の文政審議会への諮問(「学校ニ於ケル教練ノ振作ニ関スル件」)と答申を経て、大正14年(1925)に「陸軍現役将校学校配属令」(勅令第135号)が公布され、同時に陸軍省との覚え書きによって、各学校の体操科主任に配属将校を充てることになりました。
 こうして、いよいよ体操科の教練は体操科教員の手を離れて、現役の軍人によって直接指導されることとなっていきます。
 

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運動会における歩兵模擬戦(昭和10年代、兵庫県立伊丹中学校)
兵庫県体育スポーツのあゆみ』(兵庫県教育委員会、1979年)より

 「軍人的体操教師」像の復活という事態が生じたわけですが、そうした体制は拡大、強化されながら終戦まで続くことになりました。

 

【参考・引用文献】(順不同)*印は国立国会図書館デジタルライブラリー参照

現代日本文学全集第47篇 吉田絃二郎・藤森成吉集』改造社、1929年

伊ケ崎暁生『文学でつづる教育史』民衆社、1974年
『清陵八十年史』長野県立諏訪清陵高等学校同窓会、1981年 
堀井正子『小説探求 信州の教師たち』信濃毎日新聞社、1991年
綾目広治『教師像ー文学に見る』新読書社、2015年
山本喜市先生顕彰碑保存会『山本喜市と諏訪の体育』2004年
佐藤秀夫『教育の文化史2 学校の文化』阿吽社、2005年 
W. H. シャープ著、上田学訳『ある英国人の見た明治後期の日本の教育』行路社、 1993年
斉藤利彦『競争と管理の学校史ー明治後期中学校教育の展開』東京大学出版会、1995年
綾目広治「教師像ー文学に見る」新読書社、2015年

兵庫県教育委員会事務局体育保健課編『兵庫県体育スポーツのあゆみ』兵庫県教育委員会、1979年

*内閣官報局「明治三十八年職員録(乙)」
*「明治44年全国公立私立中学校ニ関スル諸調査」(文部省普通学務局)
*「学校体操教授要目 : 文部省訓令」東京宝文館, 1913年 
*二宮文右衛門『新学校体操』目黒書店、1940年   
*『東京府立第一中學校創立五十年史』東京府立第一中學校, 1929年

 

小村渡岐麿・古谷嘉邦・井上一男「体育教師像についての一考察」から「Ⅲ体育の内容と体育教師のタイプ、A,兵式体操,教練と軍人タイプの体育教師」『東海大学紀要. 体育学部 (3)』1974年
森田信博「『体育』概念の形成過程について」『秋田大学教育学部研究紀要 教育科学部門48』1995年
中村民雄「明治期における体操教員資格制度の研究(2)」『福島大学教育学部論集一教育・心理一第35号』1983年
森田茂男「明治時代以後における遊戯教材としての球技の歴史」『金沢大学教育学部紀要.人文科学・社会科学・教育科学編23』1974年

 

※例によって、まとまりのない考察になってしまいました。

「山本喜市と諏訪の体育」という古書は価格から(といっても大したことはありませんが)購入を迷いましたが、買って読んでみると、氏の履歴書、教え子の証言、子どもさんたちの証言や短歌、研究者の論文などがこの一冊に収められており、久々に「買って良かった」と思わせる古書でした。

一介の中学体操教師に立派な顕彰碑が建立された理由がよくわかりました!!