小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

本庄陸男『白い壁』その2 「低能児学級」(特別学級)

「あたいはね、先生――お弁当持ってきたよ、あたいん家(ち)ではね、昨日……だか何日だか、区役所からこんなにお米を買ってきてさ、そいでねえ、ねえ先生――」
「そうか――」と杉本は答え、まだまだ何か話したげな子供を促して階段を登るのであった。
「またあとで聞くからな、みんなが教室で待ちくたびれてんだろうよ」
 そんな単純な喜びを全身に感じてじっとしていられないような子供を、四十名近く杉本は受け持っていた。尋常四年生にもなって――だからそれは教育上の新施設として低能児学級に編制されたのである。彼らもまたせめては普通児なみの成績に近よらせたいために、それからそれがだめならば可能な限り職業教育を受けさせたいために――それはいい、けれども選りわけられたこの一群は邪魔なもの、不必要なものとして刻印を受けるにすぎないのではないか、あるいは収拾できないものを収拾させようとしてじつは…………………ぶち毀(こわ)そうと目論(もくろ)まれたのではないか――杉本は何とかしてこの子供たちも人並みにしたいと奮闘した、ここ数カ月のむだな努力を痛々しく思いだしてぶるんと頭をふりまわした。
 杉本は何も特別に低能教育の抱負や手腕を持っていたわけではなかった。彼にとってその仕事は偶然のようにあたえられた。誰だって楽な仕事の上で自分の成績をあげたいに決っている。

(中略)
――学問をしたい、そうしたならばと一図(いちず)に思い詰めた少年の杉本がいた。官費の師範学校でさえも(彼はそのさえもに力を入れて考える)知人の好意に泣き縋(すが)らねばならぬ家庭であった。喘息病ぜんそくやみ)の父親と二人の小さな妹、それらの生活が母親だけにかかっていた。仕事といわれるかどうか知らないが、母親は早朝からのふき豆売り、そして夕方はうどんの玉を商(あきな)った。手拭をかぶった小柄の女が、汚れた手車をひき、鈴をならして露地から露地に消えて行く。――そんな家に大きくなった杉本は、時たまの弁当に有頂天(うちょうてん)のよろこびを語るこの子供が、ひりひりと胸にひびいてきた。今になって杉本は、この低能組の受持に恰好した自分を発見した。すると発育不全の富次が自分の肉体の一部分みたいにいとおしくなり、濡れた着物のままぐいと脇の下にひきよせて二階三階と駈けあがるのであった。(一)

 

■「低能」「低能児」とは・・・

「低能」(低脳)・・・知能が低いこと。知能の発育程度が一般より劣っていること。また、さのさまやその人。
「低能児」・・・知的能力が劣っている子ども。ふつうは精神薄弱児*といい、知能指数が七五程度以下のものをいう。(小学館日本国語大辞典』)

*医学界では1920年(大正9年)代、教育界等では1930年(昭和5年)代から「精神薄弱」という用語が長らく使用されてきましたが、不適切な用語であるとして 、1999(平成11)年4月より法律用語でも 「精神薄弱」 から 「知的障害」 に改められています。 医学界では「精神遅滞」と称するのが一般的です。

 

 知的な障害があって、特別な支援を要する児童を対象とする学級については、明治以来様々な呼び方がなされていたようです。
 明治末期・・・「劣等児学級」「低能児学級」など
 大正10年代・・・「特別学級」「促進学級」「補助学級」など
  本作品では、「低能児学級」とか「低能組」という呼ばれ方をされていますが、文部省では大正13年(1924)に『特別学級編制に関する調査』を刊行していることなどから、公式には「特別学級」としていたものと思われます。

 この「低能」(低能児)という言葉の由来については、寺本晃久「〈低脳〉概念の発生と〈低脳児〉施設ー明治・大正期におけるー」(『年報社会学論集 2001(14)』)の中で、以下のように説明されています。

 「低能」という日本語は東京帝国大学医科大学で法医学教室および精神病学教室の教授を務めた片山國嘉によって考案された。
 明治後期、19世紀末から20世紀の初頭にかけて、片山は日本の刑法に限定責任能力(軽減責任能力)の制度を導入することを望み、犯罪を為した当時、健常者と精神病者の中間状態にあった者には、健常者と同じ刑を科すのではなく、無罪にするのでもない処置が必要だと論じた。
 その際、ドイツの医者ユリウス・コッホによるドイツ語「psychopathische Minderwertigkeit」を訳し、「精神の病的状態と健常状態の中間状態」を意味する言葉として「低能(者)」、「(精神…)病的低能(者)」、「病性低能」として用いた。
 「低能」の初出は、1899年11月15日発行の『済生学舎医事新報』第83号に掲載された同年10月の国家医学会第十三次総会における片山の講演録中にある。(中略)
 つまり、片山によって考案された「低能」には、精神能力の中でも特に、物事の善悪を弁識する能力が健康者より低く、刑法上の責任能力が健康者より低い、しかし精神病者や白痴(片山は白痴を精神病に含めている)のように無能力ではない、という意味が込められていた。 ※下線は筆者。註は省いています。

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乙武岩造『低能児教育法』(明治40年・1908)

 このように、当初は精神医学界の用語であったのですが、後に教育(学)界へと導入されていきます。
 明治40年頃までに、教育界においては「低能」とか「低能児童」という言葉が既に使用されていたようですが、東京高等師範学校教授の乙竹岩造(明治8~昭和28年・1875~1953)の著した『低能児教育法』明治40年・1908)によって、広く普及していきました。
 大正期に入ると、現在の辞書に記されているのと同様に、精神能力の中でも知能の低さを意味する言葉として、「間抜け」とか「馬鹿」などの同義語として用いられるようになります。

 

■「特別学級」の成立と展開

 

 我が国で初めて学習遅滞児(低学力児または知的障害児)を対象にした学級が設けられたのは、明治23年(1890) 、長野県松本尋常小学校においてのことで、「落第生学級」と称されていました。(落第生男女二組を設けたが、27年3月に廃止、明治41年「第一学級」として再開)

 ついで明治29年(1896)には、長野県長野尋常小学校「晩熟生学級」が設置されました。同校は、尋常科4年の課程を5年かけて卒業させるという方法を試みたものでした。
 こうした取り組みは、「就学率の向上」に伴い「教育の目的や内容の明確化から、生徒の個人差が大きくなり、学業不振児が多くなる情勢に応じたもの」(『学制百年史』)とされています。

 また、現在の義務教育では考えられないことですが、「課程制」(一定のカリキュラム内容を履修し終わることを義務づける)をとっていた当時の小学校では、「原級留置」(落第)となる児童が、数は少ないものの一定の割合で存在してたことも背景にありました。

 本作品でも、水上生活者の子である川上忠一という児童が、「原級留置(とめおき)を二度も喰った落第坊主」(三)として登場しますが、必ずしもフィクションとは言えない実態がありました。

 

 明治の終わり頃には、教育病理学が注目されたり、欧米諸国からの教育学や心理学の移入によって、マンハイムシステム(学習能力に応じた多元的な学級編制)や知的障害を持つ児童の教育法の研究がわが国にも知られるようになりました。
 大阪府天王寺師範附属小学校(明治38年・1905)や群馬県館林小学校(明治39年・1906)で設けられた「特別学級」(低能児学級と称するところも)は、その後東京や神戸など大都市の貧困児の多い学校に相次いで設置されていきました。

 大正期に入ると、第一次世界大戦後の大正デモクラシーを背景に、個性尊重の教育が盛んになり、それにつれて再び劣等児や知的障害児の教育が注目されるようになります。

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東京市社会局『東京市内の細民に関する調査』(大正10年・1921)より

 一方、長引く不況下において、東京を初めとする大都市では、貧困層の拡大とそれに伴う児童労働不就学など劣悪な教育環境が深刻なレベルに達していました。
 中でも、東京においては大正8年(1919)に東京市教育課の実施した「都市児童調査」の結果、貧困児童の特徴として健康状態や学業成績、知能指数も低いことが明らかにされ、学業不振の他に様々な問題を抱える子どものために「特別学級」の設置が開始されることになります。        東京市・・・市域は現在の東京都区部(東京23区)に相当

 大正11年(1922)、市内の18の小学校に「特別学級」及び「促進学級」が置かれました。

 大正13年(1924)にまとめられた『全国特殊教育状況』(文部省)によると、全国の特別学級(同書では特殊学級)設置校は235校で、学級数463、児童数18,654人という数字があがっています。
 一学級あたりの人員は最小9,最大78で、平均は40となっており、同書では「児童数四十以上であつては、普通学級にあつてさへも充分なる教授の効果をあげる事のできないと云はれる今日、かかる編制は甚だしき誤と云はなくてはならない」と厳しく批判しています。

 

 本作品の時代背景となっているのは、昭和初年代の後半と思われますが、昭和7年(1932)の東京市教育概要』東京市編)によって以下のような実態があったことがわかります。 ※同書では特別学級のことを補助学級と称しています。

 補助学級 ・設置校 23校 ・学級数 27  ・児童数 532(男244、女278)

      ・教員数 27(男25、女1)

 作中の主人公・杉本は尋常4年生を40名受け持っているという設定ですが、全23校の1クラスあたり在籍児童数は平均で19.7名(最大28、最小12)となっており、教員1名が20名を超える児童を担任していた学校はなかったようです。

 ちなみに、同書では前置きとして次のような説明がなされています。

 学力遅滞児、劣等児及低能児に対する特殊教育として本市に於いては小学校に補助学級を特設している。担当教員は之等児童の教育に関し特別の研究並に経験を有する者を之に当らしめ、学力調査智能検査等の方法に依り其の発達し得べき智能の限界を定め、個別的に夫々に適応したる教授を施している。

新字体に改めています。下線は筆者。

 上記はあくまでも当局の公式見解であり、実態はどうだったのか、小説を読む限りでは疑問の残るところではあります。

 

【参考・引用文献】 国立国会図書館デジタルライブラリー

文部省『学制百年史』帝国地方行政学、1972年

*文部省普通学務局『全国特殊教育状況』1924年

東京市編『東京市教育概要』1932年

寺本晃久「〈低脳〉概念の発生と〈低脳児〉施設ー明治・大正期におけるー」『年報社会学論集 2001(14)』2001年

戸崎敬子・清水寛「大正期における原級留置の実態と特別学級の成立ー新潟県U小学校の事例を中心にー」『特殊教育学研究27(2)』1989年

石井・石川・高橋「大正期の東京市における小学校特別学級編制ー特別学級の児童実態と教育実践を中心にー」『東京学芸大学紀要 総合教育科学系Ⅱ 65』2014年