小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

本庄陸男「白い壁」その4 「劣等児」・「低能児」と知能検査

    それほど本当のことを何の怖気もなくぱっぱっと言ってしまう子供たちから、受持教師の杉本は低能児という烙印(らくいん)を抹殺したいとあせるのであった。もしこの小学校の特殊施設として誇っている智能測定が、まことに科学的であるというならば、子供の叫ぶ真実が軽蔑される理由はないではないか――「なあ……」と杉本は話しかける。「お前の思うとおりをじゃんじゃん答えるんだぞ。父ちゃんはどんな職業(しょうばい)だい?」
 しかし放課後をひとりあとまで残された川上忠一は、それだけですでにおどおどしていた。数え年の十三歳(生活年齢は十二年と五カ月)で尋常四年生の彼は原級留置(とめおき)を二度も喰った落第坊主だった。けれども父親にしてみれば、何とかしてこの子を――と思うのである。「何ちったってこいつを真から知ってんのはあっしですよ」と保護者の父親は学校の床に膝を折って懇願した。「家にいる時あ、とても頭がいいんだが、学校じゃあ丙やら丁やらで……なるほど、あっしら風情の餓鬼あ行儀は悪うがしょう、したが、それとこれとは訳がちがいまさあ、なあ先生様そういうものでがしょう? やれ着物が汚ないの、画用紙が買えなかったのと、そいでもって落第くらったんじゃあまったくたまんねえでがすよ。あっしゃあ考えました、こりゃあやっぱしええ学校に上げなくっちゃ嘘だとね……区役所で通知を貰うんには骨も折りましたが、はあ、いいあんばいにやっとこさこんな立派な学校へあげることができて――これ、忠!」と彼はそこで恥しそうに着物の腰あげを弄(いじく)っている伜の手を引っ張るのであった。「ああ、見ろうな、こんな立派な御殿みてえな学校に来たんだから、お前もちゃんとお辞儀してお願い申すもんだ」それほどの気持で中途入学してきた川上忠一は、しかし、いきなり低能組に編入されたのである。校長はそれも彼の権限として、汚れくさったその子の通信箋を一瞥(いちべつ)すると何らの躊躇(ちゅうちょ)もなくこの教室にあらわれ、一個の器物を渡すかのごとく簡単にそれを杉本の手に渡そうとした。杉本はむっとして校長の顔を注視した。すると彼はその時はじめて腰の上に組んでいた後手をほごし、それを上下に振り動かしながら口を切った。「智能測定はせなけりゃならん……たのむよ杉本君、まあとにかく君い……」そう言って渡された子供なればこそ――と杉本は思うのであった、校長が無雑作に決めた低能児の認定を、いわゆるビネー・シモン氏法によって覆(くつが)えしてしまいたいのだ。もしもそれが、当代の実験心理学が証明する唯一の科学的な智能測定法と言うならば――。杉本は測定用具と検査用紙を教卓に投げおき、「なあ川上――」と子供の頭に手をおいた。「お前の父ちゃんはどんな仕事を毎日してんだ?」一日の仕事に疲れきってはいながらも、彼はその子の冷たそうな唇を見つめて答えを聞きのがすまいとするために、ぶるぶると身体を緊張させていた。
(中略)
「それではなあ川上、これから先生が訊ねることはどんどん返事をしてくれよ」と言いつづけていた。それから彼は測定用紙をひろげ、三歳程度の設問をもったいぶって拾いだしていた。
「コノ茶碗ヲアノ机ノ上ニオイテ、ソノ机ノ上ノ窓ヲ閉メ、椅子ノ上ノ本ヲココニ持ッテクル――んだ」
 おそろしく生まじめな眼を輝かした教師に、川上忠一はへへら笑いを見せて簡単にその動作をやってのけた。
「その調子!」と杉本は歓声をあげた、その調子――そして、このもったいぶった検査を次々に無意味なものにたたきこわしてしまえ。彼はそう思って、「ではその次だ」と呶鳴った。
「モシオ前ガ何カ他人ノ物ヲコワシタトキニハ、オ前ハドウシナケレバナランカ?」
「しち面倒くせえ、どぶん中に捨てっちまわあ――」
「え? 何? なに?」杉本はすでに掲示されている正答の「スグ詫ビマス」を予期していたのだった。だがこの子供の返答は設定された軌道をくるりと逆行した。杉本は背負い投げを喰わされたようにどきまぎした。「え? 何? なに?」と彼は繰りかえした。「もう一度言ってごらん?」
「どぶに捨てっちまえば、誰が毀(こわ)したんだかわかりゃしねえだろう?」と川上は訊きかえした。
「じゃあもう一つだけ――」杉本は何度も使った質問を誦(そら)んじながら今度は子供の顔を注視するのであった。「モシオ前ノ友ダチガウッカリシテイテオ前ノ足ヲ踏ンダラオ前ハドウスルカ?」
「ちえっ! はり倒してやらあ……」
 そのはげしい語気に衝(つ)かれて杉本は思わず「なるほどなあ」と声をあげ、検査用紙をばさりと閉じてしまった。
(中略)
 杉本は暗くなった教室にしばらくそのまま頬杖をついてぼんやり考えていた。彼の意気込みにもかかわらず川上忠一の智能指数はやっぱり八〇に満たないのである。測定したあとの、あのもやもやした捉えどころのない不愉快が今はことさら強く彼の頭に噛みついてくるのであった。それが真実に子供たちの運命を予言しうるものとすれば(実験の結果によれば――と当代の心理学者が権威をもって発表する)コノ指数ニ満タザルモノハトウテイ社会有用ノ人間タルコトヲ得ズ。「この社会! この社会!」と杉本は繰りかえした。えらい心理学者や教育学者たちが規準にした「この社会」と、そこから不合格の不良品として選びわけられ、今は彼に預けられた、低能な子供たちの住む「この社会」とは、同じ「この社会」でも社会の質が異っていた。そっちの社会で要求している……川上忠一も素気なく拒否したのだ。そうして彼は抗議する――何だってそんな巡査みたいなことを訊くんだい? 杉本は自嘲的に自分の職業を三つの単語で合唱する――「べからず、いけない、なりません」そいつにぐわんと抗議して川上忠一は教室をとびだして行った。一本お面を喰ってふらふらとまいった杉本は、ただ憂鬱だと叫びたい気持になってきた。杉本はうす闇の中でにやり歯を出して笑い、さておもむろに腰をあげた。すると、朝の八時からこんな日の暮れまで苛立ちつづけていた神経が一度に崩れ、身体がくたくたに疲れているのを発見した。

(三) ※下線は筆者

 

■ 学校じゃあ丙やら丁やらで・・・

 小学校の通知簿の評語は、明治33年(1900)の「改正小学校令施行規則」において、「甲乙丙丁(こう・おつ・へい・てい)」の4段階の表記と規定されました。
 この方式は 昭和13年(1938)に「10点法」(「操行」は優良可)に変わるまで40年近く続きます。
 その後は、昭和16年(1941)に小学校が国民学校という名称に変わり、評語も「優良可」となりましたが、明治・大正生まれの人たちにとってなじみのあるのは、やはりこの「甲乙丙丁」でした。

 「十干」の上位四つを指し、ものごとの順序を示すのによく用いられた、この「甲乙丙丁」は通知簿の評語だけでなく、戦前は徴兵検査の判定において、例えば「甲種合格」などという表現でよく知られていました。

 昭和初期の岡山県北部の農村における小学校生活の様子を克明に綴った竹内途夫『尋常小学校ものがたり 昭和初期・子供たちの生活誌』(福武書店、1991年)には、通知簿の評語にまつわる次のようなエピソードが紹介されています。

 甲乙は俗に立て札といい、ヒルといっていたが、終業式の日、通知簿を貰っての帰り道に、知った人に会うと、
「今日は通知簿をもろうたんか。立て札はなんぼあるんじゃ、ヒルはおらんのか」
立て札ばー(ばかり)じゃないんじゃ、大けなヒルが一匹おるんで困っとるんじゃ」
「どげーな(どんな)ヒルなんなら」
「そーこー(操行)ちゅうヒルじゃわい」
といったやりとりになったものである。(第三章「小学校尋常科の教科と授業」)

※太字は筆者

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竹内・前掲書より

■ 「劣等児」・「低能児」と知能検査
  他校で尋常四年の原級留置(とめおき)を二度もくらったという川上忠一は、父の言によると区役所の紹介で「低能組」(特別学級)を設置している「こんな立派な御殿みてえな」(鉄筋の復興小学校校舎を指す)杉本の勤務する小学校に転入してきたようです。
 校長は「汚れくさったその子の通信箋(成績通知表)「二度の原級留置」という事実から、「低能組」に入るのがさも当然という態度をとっていますが、杉本は「この小学校の特殊施設として誇っている智能測定」によって「低能児という烙印(らくいん)を抹殺したい」と思っています。

 

 就学率の上昇した明治の終わり頃から、学業成績の劣る児童の処遇が問題になっていました。
 特別な学級を編制しようとした大多数の学校では、学業成績のみによって対象児童を選別して、彼らは「劣等児」(学業成績不良児童)などと呼ばれました。
 ところが、実験心理学や精神医学などの発達によって、それら児童の中には単なる成績不良の児童とは異なり、知的な障害が原因となっている者が、一定の割合で含まれることが明らかになってきました。

  明治40年(1907)頃に導入された「ビネー・シモン式知能検査」(当時は「智能」と表記)は、1905年にフランスの心理学者アルフレッド・ビネー(Binet,A.;1857-1911)と弟子のテオドール・シモン(1873ー1961)が、知的障害児を見分けるために開発したものでしたが、我が国でも大正期以降徐々に普及していきました。

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フランスの心理学者アルフレッド・ビネー(Binet,A.;1857-1911)
Wikipedia」より

 杉本は数え十三歳(生活年齢十二歳五ヶ月)になる川上忠一に対して「モシオ前ガ何カ他人ノ物ヲコワシタトキニハ、オ前ハドウシナケレバナランカ?」と尋ねています。
 この設問は、「八歳児」に対しての検査問題の一つですが、川上忠一は「ちえっ! はり倒してやらあ……」と、とんでもない答えをします。(青木誠四郎『低脳児及び劣等児の心理と其の教育』中文館、1922年 第2章低脳児の識別法)

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青木誠四郎『低脳児及び劣等児の心理と其の教育』中文館、1922年

 同書には、他に「類似の発見」(2個の物体を比較して類似点を言わせる。例・木と石炭=燃える)「逆の数え方」(4つの数字を逆に反復させる)「事物の定義」「語彙の調査」などの設問が掲載されています。
 また、同書では多面的な設問の得点集計から導き出された知能指数が「70」以下の児童を、普通学級での学習が困難な「低能児」(現在の「知的障害児」)と定義しています。
 川上忠一は、父親の船について尋ねられると、「淀みなく胸にひびく言葉をまくし立てる」ことができるのですが、検査の設問に上のような答え方をしたことで、「当代の心理学者が権威をもって発表した」科学的な知能測定では、八十に満たない得点しか得られず、校長の言うとおりに低能児学級に入らざるを得ないのです。

 普段から安易に「低能児の烙印」を押すことに対して懐疑的であった杉本は、「校長が無雑作に決めた低能児の認定を、いわゆるビネー・シモン氏法によって覆(くつが)えしてしまいたい」という思いで検査を行いましたが、予想外の現実に直面して激しい無力感と疲労感に襲われます。
   ちなみに、現在では知的障害の定義は、「IQ70未満で社会性に障害がある」というのが一般的であるとされており、具体的な数値はわかりませんが「八十に満たない」というだけで即低能児というのは、やや厳しいような気がします。

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三田谷敬『学齢児童智力検査法』(児童書院、1915年)より
「三歳の児童」 絵を見せて 何をしているかを答えさせる設問

【参考・引用文献】      国立国会図書館デジタルライブラリー
竹内途夫『尋常小学校ものがたり 昭和初期・子供たちの生活誌』(福武書店、1991年)
青木誠四郎『低脳児及び劣等児の心理と其の教育』中文館、1922年

*三田谷敬『学齢児童智力検査法』児童書院、1915年
菅野幸恵「明治・大正期の日本における西洋の心理学の受容と展開」『青山学院女子短期大学総合文化研究所年報2007』2007年
寺本晃久「『知的障害』概念の変遷」『現代社会理論研究10』2000年
緩利誠「学校教育における知能検査の利用」『浜松学院大学教職センター紀要 創刊号』2012年
脳科学事典」 https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E8%84%B3%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%BE%9E%E5%85%B8:%E7%B4%A2%E5%BC%95