小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

谷崎潤一郎「小さな王国」その3 修身の時間に二宮尊徳の話

  彼が教職に就いたD小学校は、M市の北の町はずれにあって、運動場の後ろの方には例の桑畑が波打って居た。彼は日々、教室の窓から晴れやかな田園の景色を望み、遠く、紫色に霞んで居るA山の山の襞に見惚れながら、伸び伸びしとした心持ちで生徒達を教えて居た。(中略)
 性来子供が好きで、二十年近くも彼等の面倒を見て来た貝島は、いろいろの性癖を持つた少年の一人々々に興味を覚えて、誰彼の区別なく、平等に親切に世話を焼いた。場合に依れば随分厳しい体罰を与えたり、大声で叱り飛ばしたりする事もあったが、長い間の経験で児童の心理を呑み込んで居る為めに、生徒たちにも、教員仲間や父兄の方面にも、彼の評判は悪くはなかった。正直で篤実で、老練な先生だと云う事になって居た。

(中略)

  貝島がM市へ来てからちょうど二年目の春の話である。D小学校の4月の学期の変わりめから、彼の受け持って居る尋常五年級へ、新しく入学した一人の生徒があった。顔の四角な、色の黒い、恐ろしく大きな巾着頭のところどころに白雲の出来て居る、憂鬱な眼つきをした、ずんぐりと肩の圓い太った少年で、名前を沼倉庄吉と云った。何でも近頃M市の一廓に建てられた製糸工場へ、東京から流れ込んできたらしい職工の倅で、裕福な家の子でない事は、卑しい顔立ちや垢じみた服装に拠っても明かであった。

※「G県M市」とは、言うまでもなく群馬県の県庁所在地である前橋市のことです。当市は関東平野の北西端、赤城山南麓に位置しており、明治時代から製糸業で栄えていました。また、「A山」とは浅間山のこと。

 38歳というと、今の学校現場の年齢構成からは、「老練」にはほど遠く、まだどちらかというと「若手」に属することでしょうが、とにかく、東京の師範学校出で20年近い経験を有する貝島は、周囲から信頼されるベテラン教師であったようです。

■ 修身の時間 ー二宮金次郎

 或る日の朝、修身の時間に、貝島が二宮尊徳の講話を聞かせたことがあった。いつも教壇に立つ時の彼は、極く打ち解けた、慈愛に富んだ態度を示して、やさしい声で生徒に話しかけるのであるが、修身の時間に限って特別に厳格にすると云う風であった。(中略)
「今日は二宮尊徳*先生のお話をしますから、みんな静粛にして聞かなければいけません。」
 こう貝島が云い渡して、厳かな調子で語り始めた時、生徒たちは水を打ったように静かにして、じっと耳を欹(そばだて)てゝ居た。隣りの席へ無駄話をしかけては、よく貝島に叱られるおしゃべりの西村までが、今日は利口そうな目をパチクリやらせて、一心に先生の顔を仰ぎ観て居た。暫くの間は、諄々と説き出す貝島の話声ばかりが、窓の向うの桑畑の方にまでも朗かに聞えて、五十人の少年が行儀よく並んで居る室内には、カタリとの物音も響かなかった。

*1787〜1856 江戸後・末期の農政家 通称金次郎。相模(神奈川県)の人。少年期に父母を失い,苦学して学業に励み,没落した一家を再興。徹底した倹約実践家で,また神・儒・仏に基づく報徳精神を説いた。小田原藩桜町領の農村復興に成功して認められ,のち普請役格の幕臣となる。以後常陸 (ひたち) (茨城県)その他各地の農村復興に尽力。彼の弟子たちにより報徳社運動が全国的に展開された。主著に『報徳記』など
出典 『旺文社日本史事典 三訂版』

二宮金次郎銅像報徳二宮神社ホームページより)

 「負薪(ふしん)読書像」といわれるこのスタイルは、金次郎14歳の頃、未明から薪をとりに行き、それを小田原城下へ売りに二里の道を歩きながら、時間を惜しんで本を読んでいた姿を表しています。元になったのは、幸田露伴『少年文学第7編 二宮尊徳翁』(博文館、1903年)の挿絵(下)です。

小林永興(1872-1933)画「負薪読書図」

 それ以前は教材に取り上げられることが多くなかった二宮金次郎(尊徳)でしたが、明治33年(1900)頃から、ほとんどの修身教科書「あらゆる徳目をそなえた理想的な人物」として登場するようになりました。

 ただ、貝島が受け持つ「尋常五年」の修身教科書ではなく、下記のように、尋常三年の教科書教材となっていたようです。

「尋常小学修身書 第三学年 児童用」 大阪教育図書、明治37年・1904
広島大学図書館教科書コレクション画像データベース)

※よく見ると「金次郎は、こーこーなこであります。コーハ、トクノモト。」と記されており、ちょっと変な感じがしますが、これは「棒引き仮名遣い」と呼ばれたもので、明治33年(1900)に制定され、小学校の教科書に採用されましたが、早くも明治41年(1908)には廃止されています

 

 二宮金次郎がほとんどの修身教科書にとりあげられるようになった背景には、それまでの「徳目主義」の修身教科書が、ヘルバルト派教育思想の影響で、人物伝記を教材にして教授するという「人物主義」の教科書に変わっていったという流れがありましたが、「それにしてもこの傾向は異常である」(中村紀久二『教科書の社会史ー明治維新から敗戦までー』)との指摘もあります。
 国定教科書明治36年・1903~)の時代に入ると、「尊徳」は「金次郎」の幼名にもどり、その少年時代の孝行・勤勉・倹約・我慢・服従のエピソードが取り上げられるよようになっていきました。(中村・前掲書)

 

 さらに、金次郎は修身の教科書だけではなく、唱歌の題材にもなりました。

『尋常小学唱歌 第二学年用』国定教科書共同販売所、1911年(明治44年

1 柴(しば)刈り縄ない 草鞋(わらじ)をつくり
  親の手を助(す)け 弟(おとと)を世話し
  兄弟仲よく 孝行つくす
  手本は二宮金次郎

2 骨身を惜(おし)まず 仕事をはげみ
  夜なべ済まして 手習(てならい)読書
  せわしい中にも 撓(たゆ)まず学ぶ
  手本は二宮金次郎

3 家業大事に 費(ついえ)をはぶき
  少しの物をも 粗末にせずに
  遂には身を立て 人をもすくう
  手本は二宮金次郎

 

  修身の教科書に登場した人物を回数順に並べると以下のようになります。

1)明治天皇
2)二宮金次郎 ( 孝行 勤勉 学問 正直)
3)上杉 鷹山 ( 倹約 志を堅くする 産業を興す 孝行)
4)渡辺 登 (孝行 兄弟 勉強 規律)
5)加藤 清正 ( 仁義 誠実 勇敢 信義)
6)フランクリン ( 自立自営 規律 公益 勤労)
7)豊臣 秀吉 ( 勉強 立身 志を立てる)
8)貝原 益軒 ( 度量 健康)
9)伊能 忠敬 ( 勤勉)
10)佐太郎 ( 勇気 胆力)
その他 髙田屋嘉兵衛 ( 勇気 胆力)
中江 藤樹 ( 公徳)
ナイチンゲール ( 博愛 親切)

唐沢富太郎『図説 明治百年の児童史・上』ほか参照
※渡辺 登・・・江戸後期の画家・蘭学者渡辺崋山
佐太郎・・・江戸時代中期、現在の神奈川県小田原で篤行者として村人から敬慕された林佐太郎

 金次郎は明治天皇に次いで、堂々2位にランクされるほどの人気(?)だったのです。

 

■ なぜ二宮金次郎なのか?

 では、二宮金次郎がそれほどに取り上げられたのはなぜなのでしょうか。
 理由として、次のようなことが挙げられています。
 二宮尊徳(金次郎)の四大高弟といわれる人物の一人である富田高慶(とみた たかよし)が、明治13年(1880)に尊徳の思想と伝記を詳述した『報徳記』安政3年・1856)を明治天皇に献上したところ、いたく感銘を受けられて、これを「勅版」として全国の知事に配布されました。
 また、高弟の一人である岡田良一郎は、現在の静岡県掛川市で「報徳思想」の普及活動などを行っていた「遠江国報徳社」を運営していましたが、明治44年(1911)に「大日本報徳社」と改称して、その活動をより発展させていったということも背景にありました。
 その岡田良一郎の実子に、文部大臣を勤めた岡田良平(長男)と内務大臣を勤めた一木喜徳郎(いちき きとくろう・次男)がいましたが、岡田良平の文部省内での出世と教科書の尊徳教材の増加が一致していることから、「なにがしかの関与があったにちがいない」(中村・前掲書)とされています。

 そういう「大人の事情」はさておいても、「勤勉と倹約」を強調して、農民の生き方を教えるという尊徳の思想は、時の政府や文部当局にとっては誠に好都合であったという点に誤りはないと思われます。

 

 ちなみに、昔の小学校でよく見られた金次郎の銅像(負薪読書像)が登場するのはもう少し後のことです。
 大正13年(1924)に愛知県宝飯郡前芝尋常高等小学校(現・豊橋市立前芝小学校)に設置されたのが最初の例で、その後全国各地の小学校に普及していきました。そのピークは昭和10年代の前半(1935~1940)ではないかと言われています。
 もちろん、小学校の設置者が建てたものではなく、すべて校区内の篤志家、諸団体、
その他有志などの寄贈によるものでした。 

 これら銅像の多くは国家総動員法に基づく「金属類回収令」昭和16年9月1日)により回収の対象となったということで、一時は台座だけになっていましたが、戦後1950年代を通じて、全国的にかなりの数が「再設置」されたということです。

昭和37年(1962)から6年間、私が通った社町立社小学校(現在は加東市立社小学校)にも金次郎像はありまた。 
地元選出の県会議員さんのブログ(https://blog.goo.ne.jp/hyaku-chan-fuji888/e/566da384b4253f26f4dc35300883fa32)によると、この像は昭和31年(1956)に再建されたもので、寄贈者は地元の開業医だということです。

※ よく冗談に、「今、二宮金次郎のように本を読みながら歩いていたら、近視になったり、交通事故に遭ったりする」などと言いますが、金次郎が読んでいたのは大きな活字の『大学』(漢籍)だったという説がありますが、本当はどうなんでしょうか。

『大学』第1巻 慶應義塾大学メディアセンターホームページより

 修身教科書の内容や挿絵についても、事実と違うといった意見が、その当時あちこちから寄せられていたようで、その実像と虚像という点にもなかなか興味深いものがありそうです。

 

【参考・引用文献】
中村紀久二『教科書の社会史ー明治維新から敗戦までー』岩波新書、1992年
唐沢富太郎『図説 明治百年の児童史・上』講談社、1968年
籠谷次郎「二宮金次郎像と楠木正成・正行像 ― 大阪府小学校における設置状況の考察―」『同志社大学人文科学研究所 社会科学58』1997年