小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

谷崎潤一郎「小さな王国」その4  ヘルバルト式の管理教育

「新編修身教典 尋常小学校巻1第1課」明治33年・1900、普及舎
(近代書誌・画像データベース新編」より)

 或る日の朝、修身の時間に、貝島が二宮尊徳の講話を聞かせたことがあった。いつも教壇に立つ時の彼は、極く打ち解けた、慈愛に富んだ態度を示して、やさしい声で生徒に話しかけるのであるが、修身の時間に限って特別に厳格にすると云う風であった。
(中略)
「今日は二宮尊徳先生のお話をしますから、みんな静粛にして聞かなければいけません。」
 こう貝島が云い渡して、厳かな調子で語り始めた時、生徒たちは水を打ったように静かにして、じっと耳を欹(そばだて)てゝ居た。隣りの席へ無駄話をしかけては、よく貝島に叱られるおしゃべりの西村までが、今日は利口そうな目をパチクリやらせて、一心に先生の顔を仰ぎ観て居た。暫くの間は、諄々と説き出す貝島の話声ばかりが、窓の向うの桑畑の方にまでも朗かに聞えて、五十人の少年が行儀よく並んで居る室内には、カタリとの物音も響かなかった。

 (中略)
    貝島は不断(ママ)よりは力の籠った弁舌で、流暢に語り続けて居ると、その時までひっそりとして居た教場の隅の方で、誰かがひそひそと無駄話をして居るのが、微かに貝島の耳に触った。貝島はちょいと厭な顔をした。折角みんなが気を揃えて静粛を保って居るのに、ーー全く、今日は珍しい程生徒の気分が緊張して居る様子だのに、誰かが余計なおしゃべりをして居るのだろう。そう思って、貝島はわざと大きな咳払いをして声のする方をチラリと睨みつけながら、再び講話を進めて行った。
   (中略)
「誰ださっきからべちゃべちゃとしゃべって居るのは?誰だ?」
と、とうとう彼は我慢がしきれなくなって、こう云いながら籐の鞭でびしっと机の板を叩いた。
 名指しで中止された沼倉は、「温厚な品行正しい」野田のせいにし、野田もそれを認めたので、貝島は「いよいよ腹立たし」く、沼倉を問い詰める。しかし、沼倉は野田だと言い張ります。

 貝島は彼の肩先をムズと鷲摑みにして荒々しく引き立てながら、容易ならぬ気色で云った。
「此方へ来て、先生がいいと云うまで其の教壇の下で立って居なさい。お前が自分の罪を後悔しさえすれば、先生はいつでも赦して上げる。しかし強情を張って居れば日が暮れても赦しはしないぞ」

 この場面では、普段は「極く打ち解けた、慈愛に富んだ態度を示して、やさしい声で生徒に話しかける」貝島が、「修身の時間に限って特別に厳格」であるというところに注目してみたいと思います。

 沼倉が私語をしているのを咎めるときには、彼の「肩先をムズと鷲摑みにして荒々しく引き立て」ながら、「容易ならぬ気色」を見せるあたりには、優しく温厚なベテラン教師という定評のある貝島らしからぬ一面が見受けられます。

 「修身」の授業には、貝島をそのように「変身」(?)させる何かプレッシャーめいたものがあったのでしょうか。
 

 そもそも「修身」は、明治13年(1881)の「改正教育令」から昭和16年(1941)の国民学校令」(「国民科修身」という教科名であった)に至るまで、全教科の中で常に筆頭教科として位置付けされた教科でした。

 

 以下は、明治26年(1893)の「小学校修身科教授方法」と題した文部省訓令(第9号)です。

    第九號
                          八月二十三日
北海道廳 府 縣
第一  修身科ノ教育ニ於ケルハ神經ノ全身ニ貫通シ其ノ作用ヲ靈活*ナラシムルニ同シク他ノ科目ト例視スヘキニアラス教員タル者ハ時ヲ以テ諄々訓告シ兒童ノ年齢及男女ノ別ニ従ヒ都鄙ノ風習各地人文ノ發達及生活ノ程度ヲ察シ又各人各個ノ性質ニ依リ精密ナル注意ヲ用ヰ此重要ナル教科ノ目的ヲ達スルコトヲ力ムヘシ(後略)
  *魂を入れ活力を与えること

※下線は引用者

 ここでは、「修身科」の教授に際しては、全身全霊を尽くして取り組まねばならず、決して他教科と同等視してはならないと訓示されています。
 現場の教員にとっては気の重い教科であったと推測されます。実際に、この時期においては「修身」の授業を各学級担任ではなく、校長が担当する学校が多く存在していました。主な理由として、教員が「修身」の受持ちを厭う傾向にあったこと、それに校長自身が修身の受持ちを望んでいたことなどがあったということです。

 そんな中で、20年近い経験を積んだ貝島の授業ぶりからは、同僚や保護者などから信頼され、「正直で篤実で、老練な先生」と目されているベテラン教員としての彼の自負を見て取ることが出来ます。

 

 一方、小さな王国を扱った論文の中には、引用した場面について「率直に『つまらない』という自由さえも奪われている」とか「異常な光景」(関礼子「教室空間の政治学ー『一房の葡萄』『小さな王国を中心に』」)であるというとらえ方をされているものもあります。

 先に作中時間を作品発表時の大正7年(1918)としましたが、当時は大正新教育の勃興期であり、従来の画一主義、注入主義、暗記主義的な教育方法が批判にさらされていた時期でした。
 上のような見方は、そういう時代背景を念頭においてのことではないかと思います。
 しかし、考えてみると、貝島は既に見てきたように、この時点で38歳のベテラン教師。彼が尋常師範学校で学んだのは、20年ほども前の明治30年(1898)前後のことで、その当時に我が国の教育界で支配的であったのは 「ヘルバルト式の管理教育」でした。

J・F・ヘルバルト
1776~1841、ドイツの哲学者、教育学者。倫理学と心理学を基礎に体系的な教育学を樹立した)

 1880代後半から導入され始めたヘルバルト教育学は、教育の中心を道徳心の形成に置き、心理学を基礎とした教化・規律・訓練を重視するという内容のものだった。これは以後、明治三六年の教科書国定化開始とも呼応しながら小学校における管理教育を正当化するものとして教育界を支配していくこととなり、当時の教育に画一性をもたらしたことで知られている。
(出木良輔「谷崎潤一郎小さな王国』論 ー新教育をめぐってー」)

 

 子だくさんの上に病気の妻を抱えて、日々の生活に汲々としている貝島が、自主的に新しい教育事情や学習指導法について勉強する余裕はなかったことでしょう。
 そうすると、やはり師範学校時代に学んだ知識や方法をもとに、先輩や同僚教員の指導や影響を受けながら、自身のスタイルを作り上げ、それを守っていくという風になっていくのが普通ではないでしょうか。

 要するに、作中時間は大正半ばで、新しい教育の動きが各方面で起こりつつあった時期ではありますが、貝島のようなベテランともなると、その指導のスタイルが「圧迫的・知識注入主義的な管理教育を行う旧時代の教師」(出木前掲論文)のままであったとしても、それほど不自然なことではないと思われます。


 ヘルバルトは「授業時間に平静と秩序を維持することや、教師を無視しているようなあらゆる兆候を除去すること」を、「管理」と呼んだということ(今井康雄編『教育思想史』)ですが、まさに貝島の教室における沼倉の態度(私語)は、その「兆候」であり、それに対する貝島の「威嚇」は、当然の指導であったというわけです。

 後に批判の対象となる、このヘルバルト式の管理教育を積極的に推し進めた教育者の一人で文部省視学官も勤めた尺秀三郎(せき ひでさぶろう、1862~1934)の著作(『講習必携実用教育学』長崎県有志教育会、明治28年・1895)からそうした教育思想の一端がうかがえる部分を抜粋してみましょう。

(子どもは「道理心」(理性)で欲望を抑えることが難しいので、親や教師がその欲望を抑えなければいけない)

 是に於て(=そういうわけで管理の必要起こるなり。管理は恰(あたか)も自治の出来ぬ幼稚の人民を発達せしめんとて、政府が之に干渉保護を為すと一般(同様)なり。管理の目的とする処は、或る権威に従順せしめて悪しき希望を抑制せしむるなり。(後略) ※太字は引用者

 この後に「管理」の手法が順に述べられています。
 1威嚇、2監視、3威厳、4愛慕、5懲罰、6労働、7命令

 これらの用語だけを見ると、学校現場というよりも、何か刑務所か矯正施設にふさわしい言葉のような印象を受けます。

 1の「威嚇」と5の「懲罰」の説明は次のようになっています。

1.威嚇
威嚇とは字の如くオドシツクルなり。即ち児童が監督者の為に叱らるるを恐れて、其の希望の実行を抑ふるなり。然れども威嚇は何れの子供をも撰ばず皆効ありと云ふに非ず。若(も)し精神の甚だ弱き子供ならば、之が為に精神打撃されて恐懼するの能力を失い、又非常なる暴童ならば絶えて畏懼するの念なかるべし。故に威嚇は子供の性質如何によりて功を奏するものなり。

   一応、子どもの個性にも配慮が必要とは言っていますが・・・(;。;)

5.懲罰
管理の懲罰を一口に云わば、不従順の必然的結果なり。故に一旦此れ等の所為には是だけの懲罰を課すると取り極めたる以上は、少しも仮借(=遠慮)する事なきを良しとす。然れども懲罰には決して悪意を伴うべからず。ただ子供をして罪のために罰を得たるにて、憎まれたる為に罰せられたるにあらずとの念慮を抱かしめざるべからず。教師は或る感情を挟(はさ)みて懲罰を行うべからず。

  信賞必罰という考え方が根本にあります。
 情状酌量という考えはないようですが、教師が私情をはさむことは戒めています。

(イ)譴責 (略)
(ロ)自由を剥奪する事 例・放課後の居残り、遊戯の禁止
(ハ)飲食を禁ずる事 (略)
(ニ)鞭撻 是も或る程度まで用いるは価値あり。
(ホ)名誉を奪う事 教師より愛せらるるは児童の名誉とする処なり。然るを或る不良の行いありし為に之を冷淡に取り扱うが如きは、是一種の名誉剥奪にして其他又種々あるなり。

  プライドを傷つけ、子どもの心に傷を負わせることになりそうですが、そういう教育的配慮は要らないということだったのでしょうか。

 

【参考・引用文献】      ※国立国会図書館デジタルライブラリー
※『文部省命令全書・明治26年』文部大臣官房文書課、1895年
※尺秀三郎『講習必携実用教育学』長崎県有志教育会、1895年
 関礼子「教室空間の政治学ー『一房の葡萄』『小さな王国を中心に』」『日本文学 46 (1)』 日本文学協会、1997年
今井康雄編『教育思想史』有斐閣、2009年
出木良輔「谷崎潤一郎小さな王国』論 ー新教育をめぐってー」『国文学攷 219号』広島大学国語国文学会、2013年
「修身教育の実像とその問題」『2014年度山本ゼミ共同研究報告書』慶應義塾大学文学部教育学専攻山本研究室、2014年

 

※教育学科に入学したとき、教育哲学の教授は是常正美先生といって高校の大先輩に当たる方でした。専門はヘルバルト研究で、2年生の終わり近く、退官講義をされたのを聴きにいきましたが、正直言って甚だ難解でした。後方の席で近くの、たぶん院生どうしだったと思いますが、「この先生の講義はよくわからん」という旨のことを言っていたのを、もう47、8年も経過した今でも覚えています。

当時は教育哲学から始まって、日本教育史、西洋教育史、教育方法学、比較教育学、教育社会学、教育行財政学、教育経営学と8つの研究室(講座)がありました。(今は大講座制となっているようですが・・・)とにかく、哲学は苦手でした(笑)

上記参考文献に挙げた『教育思想史』の編著者である今井氏は一つ上の学年でしたが、同期の友達が「あの今井康雄さんって、よく出来る人らしい」と言ったのを覚えています。ドイツ留学の後に東大の教授(教育哲学、現在は日本女子大学)になられました。全く接点がなかったので、お話することはありませんでしたが・・・。