小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

谷崎潤一郎「小さな王国」その5 「怖い先生」から「面白いお友達」へ

 修身の時間に私語をする沼倉を叱り、立たせようとした貝島に、全級の生徒が「先生、僕も一緒に立たせて下さい」と言い出しました。
 貝島は予想外の事態に「癇癪と狼狽の余り、もう少しで前後の分別もなく」怒号するところを、ベテランらしく自制して、沼倉を懲罰するのをやめました。
 この一件があってから、貝島は「沼倉という一少年が持って居る不思議な威力について、内心に深い驚愕の情を禁じ得なく」なります。

十返肇 編『谷崎潤一郎名作集』
「少年少女日本文学選集13」(あかね書房, 1956年)より

 貝島は「全級の生徒を慴伏(しょうふく)させて手足の如く使う」沼倉の秘密を、同じクラスに在籍する長男の啓太郎から聞き出しました。 
 啓太郎によると、「要するに、彼は勇気と、寛大と、義侠心とに富んだ少年であって、それが次第に彼をして級中の覇者たる位置につかしめたものである。(中略)実際沼倉は、『己は太閤秀吉になるんだ』と云って居るだけに、何となく度量の広い、人なつかしいところがあって、最初に彼を敵視した者でも、しまいにはと怡々(いい)として命令に応ずるようになる」というのです。

 貝島は「彼の勢力を善い方へ利用して、級全体の為めになるように導いてやろう」と考えて、ある日の放課後、沼倉を呼んでその統率力を褒めてやります。

 自分は二十年も学校の教師を勤めて居ながら、一級の生徒を自由に治めて行くだけの徳望と技倆とに於て、此の幼い一少年に及ばないのである。  
    自分ばかりか、総べての小学校の教員のうちで、よく餓鬼大将の沼倉以上に、生徒を感化し心服させ得る者があるだろうか。
 われわれ「学校の先生」たちは大きななりをして居ながら、沼倉のことを考えると忸怩(じくじ)たらざるを得ないではないか。われわれの生徒に対する威信と慈愛とが、沼倉に及ばない所以(ゆえん)のものは、つまりわれわれが子供のような無邪気な心になれないからなのだ。全く子供と同化して一緒になつて遊んでやろうと云う誠意がないからなのだ。だから我れ我れは、今後大いに沼倉を学ばなければならない。生徒から「恐い先生」として畏敬されるよりも、「面白いお友達」として気に入られるように努めなければならない

 こうして貝島は、これまでのように生徒を威圧して矯正しようとする「恐い先生」ではなく、「面白いお友達」として気に入られる方が、彼らの信頼を集めることができると思うようになります。

 貝島の「沼倉操縦策」は成功して、「彼が受け持ちの教室の風規は、気味の悪いほど改まって」しまいました。

 後に分かったところでは、なんと沼倉は「折々、懐から小さな閻魔帳を出して、ずっと室内を見廻しながら、ちょいとでも姿勢を崩して居る生徒があれば、忽ち見附け出して罰点を加えて居」たのでした。

 

■ 生徒自身による取り締まり!?

 この部分を読んだときに思い当たったのは、いわゆる「生徒自身による生徒管理」という方法が明治時代の中学校で行われていたことでした。

以下の記事をご参照下さい。
https://sf63fs.hatenablog.com/entry/2019/03/28/131914
坊っちゃん」に見る明治の中学校あれこれ コラム21 明治のトンデモ校則③

  作者の谷崎が東京府立第一中学校(府立一中、現在の都立日比谷高等学校)に在籍していた明治34~38年(1901~1905)の間、同校の校長であった勝浦鞆雄が、この「生徒間での取り締まり」の重要性を唱えて同校で実施していたほか、他の多くの中学校でも同様のことが行われていました。(斉藤俊彦『競争と管理の学校史ー明治後期中学校教育の展開』)

日比谷時代の府立一中(「東京府立第一中学校五十年史」)

 これは、級長(組長)に学級内生徒の監督、指揮、観察などの権限を与え、学級内の秩序維持を図ろうとしたものでした。
 作中で、沼倉が「小さな閻魔帳を出して、ずっと室内を見廻しながら、~忽ち見附け出して罰点を加えて」いるという描写は、多分に推測の域を出ませんが、谷崎自身が府立一中時代に実際に経験したことが作品に反映されてるのではないかとも思われるのですが、いかがでしょうか。

 

■ 「怖い先生」から「面白いお友達」へ

 この小さな王国が発表された大正7年(1918)頃、我が国の教育界は、明治以来の「知識注入型」、「画一的」、「管理主義」などの言葉で批判されてきたヘルバルト式の「旧教育」から「大正新教育」(大正自由教育とも)への転換期にありました。

 いわゆる大正自由主義(デモクラシー)運動を背景に、教育界には「新教育」と呼ばれる理論や実践が活発に導入されていました。
 「児童の個性の理解」が唱えられ、その「尊重」を唱える、いわゆる「個性尊重主義」が、教育界に広がっていった時期なのでした。

大正6年(1917)、 澤柳政太郎が新教育を施行する実験学校として創設した成城小学校と初期の児童・教員『成城学園五十年』(1967年)より

 我が国の教育界に、「教師本位主義」から「児童本位主義」への移行を促すような大きな流れが起こっていた時期であったと言うこともできます。 

  「怖い先生」から「面白いお友達」、すなわち明治期に支配的だったヘルバルト式の教育姿勢から大正期の「新教育」が掲げた「児童本意主義」へ、そして教育そのものを目的とする「教育者」から「生計の資」を目的とする「学校教師」へ。教師貝島から見出されるこの二重の変化と、当時実際に見られた学校教育の変化との間における符合を踏まえるならば、貝島の変化とはつまり当時の学校教育のパラダイムシフトを反映したものとして捉えることが出来る。(出木良輔「谷崎潤一郎小さな王国」論ー「新教育をめぐって」)

 一見すると児童生徒に迎合するかのように見える「『怖い先生』から『面白いお友達』へ」という貝島の発想の転換ではありますが、上述のような時代背景と教育思潮の変化があったことを知ると、違和感なく理解できるのではないでしょうか。
 

 

 

 

【参考・引用文献】  ※ 国立国会図書館デジタルライブラリー

 

十返肇 編『谷崎潤一郎名作集』 「少年少女日本文学選集 13」あかね書房, 1956年

成城学園五十周年史編集員会『成城学園五十年』1967年

斉藤俊彦『競争と管理の学校史ー明治後期中学校教育の展開』東京大学出版会、1995年

小針誠『教育と子どもの社会史』梓出版社、2007年
出木良輔「谷崎潤一郎小さな王国』論 ー新教育をめぐってー」『国文学攷219号』広島大学国語国文学会、2013年