小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

谷崎潤一郎「小さな王国」その6 小学校教員の待遇をめぐって

 七人目の子を生んでから、急に体が弱くなって時々枕に就いて居た貝島の妻が、いよいよ肺結核と云う診断を受けたのは、ちょうどその年の夏であった。M市へ引き移ってから生活が楽になったと思ったのは、最初の一二年の間で、末の赤児は始終煩(わずら)ってばかり居るし、細君の乳は出なくなるし、老母は持病の喘息が募って来て年を取る毎に気短かになるし、それでなくても暮らし向きが少しずつ苦しくなって居た所へ、妻の肺病で一家は更に悲惨な状態に陥って行った。貝島は毎月三十日が近くなると、一週間も前から気を使って塞ぎ込むようになった。貧乏な中にも皆達者で機嫌よく暮らして居た東京時代の事を想うと、あの時の方がまだ今よりはいくらか増しであったようにも考えられる。今では子供の数も殖えて居る上に、いろいろの物価が高くなったので、病人の薬代を除いても、月々の支拂いは東京時代とちっとも変わらなくなって居る。それに若い頃なら此れから追々月給が上ると云う望みもあったけれど、今日となっては前途に少しの光明もあるのではない

十返肇 編『谷崎潤一郎名作集』 (「少年少女日本文学選集 13」あかね書房, 1956年)より

■ 小学校教員の経済的困窮

 M市に転任してきた頃の貝島は、月俸45円という恵まれた部類の俸給を貰っていましたが、その後は引用文にあるような状況が出来して、「一家は更に悲惨な状態に陥って」いきました。

 小学校教員の”安月給”は、明治以来長らく言われ続けてきたことではありますが、大正期半ば以降は一層その度合いを増していきました。

 背景には、大正2年(1913)から大正9年(1920)までの7年の間に、大正2年を100とした東京卸売物価が大正7年には192、さらに大正9年3月には321にまで上昇するという厳しい経済状況がありました。(大正10年9月調べ『各国財政経済要覧』大蔵省理財局、1922年)

 貝島のみならず、小学校教員の多くが、インフレによる生活費の高騰に苦しんだ時代でした。

 そうした状況下で、「教育時論」「日本之小学教師」などの教育雑誌は、アンケートによる生活実態調査などをもとに、小学校教員の待遇改善を強く訴え続けました。
 大正7年(1918)に「義務教育費国庫負担法」が成立。小学校教員の標準月俸は同年と大正9年(1920)の二度にわたり改正、増額されて、一時は下のグラフのように急上昇を示しますが、上に述べたように物価上昇の勢いはそれ以上の激しさでした。

■ 副業や内職を勧める文部大臣!?

 文部当局は上述のように、増俸の措置を取りましたが、「物価騰貴の激しさはこのていどの増俸措置をほとんど帳消しにした。それゆえ文部省は、この前後、勅令に関連するいくつかの訓令を発し責任の一端を果たす、というより責任逃れ」をするに至りました。(海原徹『大正教員史の研究』)

 1「教員家族副業訓令」(大正8年8月6日、文部省訓令第7号、下の官報記事)

 2「食糧訓令」(大正8年7月29日)・・・代用食の推奨も

 3「消費節約訓令」(大正8年8月19日)・・・質素倹約の実践は教員から

戦後経営の方策として国民生活の充実と国富の増殖を図ることは今日最も緊要とするところである。固よりこれは容易な業でないから、国民は此の際非情な決心を以て之に当たらなければならぬ。
即ち徒に勤労を賤しみ漫りに徒食を誇るが如き旧来の陋習は断じて之を打破し、更に進んで大に業務を励み家産を治める一大覚悟を要するのである。教育の任に当たる者は単に学校に於いて此の趣意を生徒児童に教ふるに止まらず、延て弘く之を社会に勧め、尚事情の許す限り其の家族をして適当な副業に従事させることは実に勤労を尚ぶの美風を作興するものであって、又前述の方策に適応する所以である。 (漢字かな交じり、新字体に改めています。下線は筆者)

 

 この訓令を知った(読んだ)教員たちは、いったいどんな気持ちだったでしょうか。

 当局の本音は言うまでもなく、「これ以上は増俸の余裕がないから、各家庭で副業や内職をして、家計の助けとしてくれ」ということです。

 それを、言うに事欠いて「徒に勤労を賤しみ漫りに徒食を誇るが如き旧来の陋習」とは・・・。

 もちろん、この文言は教員だけを指して述べたものではありませんが、文脈からそう受け取られても仕方はありません。

 大正7年(1920)から原敬内閣の文部大臣をつとめた中橋徳五郎は、高等教育機関大増設(高等学校10校、専門学校29校、医学専門学校5校の設置、東京高等商業学校の大学昇格など)の功績で知られている人物ですが、こんなお粗末な訓令を発していたとは・・・・・。

中橋徳五郎(「近代日本人の肖像」より)

■ 師範学校入学志望者の減少

 明治中期以降は4~5倍の志願倍率を維持していた師範学校の入学希望者ですが、次第に減少し始め、大正期に入ると急激な落ち込みを見せるようになりました。

 この間の事情について、『兵庫県教育史』は次のように述べています。

 明治初期における師範学校は県下の最高学府であり、その生徒は一種のプライドを持っていた。ところが明治三十年代以降、県立中学校があいついで設立されると、前途有為の青年は多くこれらの中学校に入学し、師範学校は兵役のがれや、学資に不自由な人たちの入学する傾向が強くなった。
 また資本主義の発達は、金銭的にめぐまれぬ教師の地位を低いものとし、しだいにその職業を魅力のないものとしていった。(中略)
 特に第一次世界大戦後の好況期には、世人の教師観もきわめて軽視的となり、師範学校では生徒募集難におちいるありさまであった。(中略)
 そこで憂慮した県当局では、まず生徒給費を増額して入学志願者の誘引につとめ、さらに大正九年以降、従来まったくその例をみない入学準備金をさえ与えることにしたのである。
 しかし当局の苦心にもかかわらず、戦後のインフレ好況時代とあって、入学志願者は依然として増加せず、ついに大正八年には、県下の三師範学校とも、生徒の再募集をしなければならなくなった。

 

 さて、「金銭的にめぐまれぬ教師の地位」とありますが、他の職業と比べるとどうだったのでしょうか。
 下の表は、大正8年(1919)の埼玉県の例ですが、学歴としては師範学校よりも低い中学校や商業学校卒の銀行員や鉄道現業員のほうが、高い初任給をもらっています。

 また、大工職や左官職の日給をみると、どちらも1円50銭となっており、月25日の計算では月額は37~8円となります。小学校教員は師範出の正教員であっても、それらの労働者以下の待遇であったことが分かります。

 

■ 転退職者の増加

 安月給の小学校教員という職に魅力を感じない青年たちが、師範学校を志望しなくなっただけでなく、現職の教員たちの中にも薄給による生活苦や将来の展望が見出せないことなどから、転職や退職をする者が増えていきました。
 時あたかも大戦後の好景気で、商工業方面に人的な需要が高まったことも大きな要因でした。
 教育活動の中心となるべき正教員の流出を、当局は准教員や代用教員で補充しましたが、それでも教員不足はなかなか解消せず、当然のことながら教育活動の質的低下も避けられない様相を呈してきました。

 

 「今日となっては前途に少しの光明」も見いだせなくなったベテラン教師の貝島は、作品の最終部分において、「自分の子に飲ませるミルク」を求めて沼倉に取り入ろうとします。
  そこには、自ら「教室における主権」を失っただけではなく、経済的に追い詰められ、教師としてのプライドまでかなぐり捨てようとする、一人のベテラン教師の凋落した姿がシニカルに描き出されています。

 

 【参考・引用文献】  ※国立国会図書館デジタルライブラリー
 ※大正10年9月調べ『各国財政経済要覧』大蔵省理財局、1922年
陣内靖彦『日本の教員社会 歴史社会学の視点』東洋館出版社、1988年
海原徹『大正教員史の研究』ミネルヴァ書房、1977年
兵庫県教育委員会兵庫県教育史』1963年