小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

石川啄木『雲は天才である』その1 「日本一の代用教員」

名作でたどる明治の教育あれこれ: 文豪の描いた学校・教師・児童生徒   六月三十日、S――村尋常高等小学校の職員室では、今しも壁の掛時計が平常(いつも)の如く極めて活気のない懶(ものう)げな悲鳴をあげて、――恐らく此時計までが学校教師の単調なる生活に感化されたのであらう、――午後の第三時を報じた。大方今は既(はや)四時近いのであらうか。といふのは、田舎の小学校にはよく有勝(ありがち)な奴で、自分が此学校に勤める様になつて既に三ヶ月にもなるが、未だ嘗(かつ)て此時計がK停車場の大時計と正確に合つて居た例(ためし)がない、といふ事である。
(中略)
 午後の三時、規定(おきまり)の授業は一時間前に悉皆(しつかい)終つた。平日(いつも)ならば自分は今正に高等科の教壇に立つて、課外二時間の授業最中であるべきであるが、この日は校長から、お互月末の調査(しらべ)もあるし、それに今日は妻(さい)が頭痛でヒドク弱つてるから可成(なるべく)早く生徒を帰らしたい、課外は休んで貰へまいかという話、といふのは、破格な次第ではあるが此校長の一家四人――妻と子供二人と――は、既に久しく学校の宿直室を自分等の家として居るので、村費で雇はれた小使が襁褓(おしめ)の洗濯まで其職務中に加へられ、牝鶏(ひんけい)常に暁を報ずるといふ内情は、自分もよく知つて居る。何んでも妻君の顔色(がんしよく)が曇つた日は、この一校の長たる人の生徒を遇する極めて酷だ、などいふ噂もある位、推して知るべしである。自分は舌の根まで込み上げて来た不快を辛くも噛み殺して、今日は余儀なく課外を休んだ。一体自分は尋常科二年受持の代用教員で、月給は大枚金八円也、毎月正に難有頂戴して居る。それに受持以外に課外二時間宛(づつ)と来ては、他目(よそめ)には労力に伴はない報酬、否(いや)、報酬に伴はない労力とも見えやうが、自分は露聊(いささか)これに不平は抱いて居ない。何故なれば、この課外教授といふのは、自分が抑々(そもそも)生れて初めて教鞭をとつて、此校の職員室に末席(ばつせき)を涜(けが)すやうになつての一週間目、生徒の希望を容れて、といふよりは寧(むし)ろ自分の方が生徒以上に希望して開いたので、初等の英語と外国歴史の大体とを一時間宛とは表面だけの事、実際は、自分の有つて居る一切の智識、(智識といつても無論貧少なものであるが、自分は、然し、自ら日本一の代用教員を以て任じて居る。)一切の不平、一切の経験、一切の思想、――つまり一切の精神が、この二時間のうちに、機を覗ひ時を待つて、吾が舌端より火箭(くわせん)となつて迸(ほとばし)る。的なきに箭(や)を放つのではない。男といはず女といはず、既に十三、十四、十五、十六、といふ年齢(とし)の五十幾人のうら若い胸、それが乃ち火を待つ許りに紅血の油を盛つた青春の火盞(ひざら)ではないか。火箭が飛ぶ、火が油に移る、嗚呼そのハツ/\と燃え初そむる人生の烽火のろしの煙の香ひ! 英語が話せれば世界中何処へでも行くに不便はない。たゞこの平凡な一句でも自分には百万の火箭を放つべき堅固な弦(ゆみづる)だ。(一)
 青空文庫」(底本:『石川啄木全集 第三巻 小説』筑摩書房、1978年)
 

【作品紹介】
  詩や短歌では叙情味あふれる作品で天性の才能を発揮し、矛盾に満ちた明治という時代への鋭い考察も相俟って今もなお熱烈な読者を持つ石川啄木が心血を注いだ小説。故郷・渋民村の高等小学教の教員時代に書き出され、青年たちの鬱屈と貧しき者、弱き者の心に共振していく初期短篇三作と、唯一新聞に連載された中篇を収録し、短い生涯を駆け抜けた啄木文学の可能性を提示する。(講談社文芸文庫・電子版解説)
 

石川啄木】 
 明治19年~45年(1886-1912)岩手県日戸村生まれ。本名一。生後まもなく、父が渋民村宝徳寺住職となる。唯一の男子として両親の愛情を一身に受け、村人からは神童と騒がれ、気位高く育つ。盛岡中学在学時に「明星」に感銘、17歳の時、文学を志して上京するが、健康を害し帰郷。20歳で処女詩集『あこがれ』を出版、天才詩人の評判を得る。が、自分の才能と自負心と、両親妻子を養わねばならぬ貧困の現実とに引き裂かれ続け、肺結核で不遇の生涯を閉じた。歌集『一握の砂』、友人らの尽力で死後出版された『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』等がある。 (新潮社 著者プロフィールwww.shinchosha.co.jp/sp/writer/758  )

■  代用教員となるまで

(略年譜)
  明治19年1886年)2月20日
岩手郡日戸村(ひのとむら)(今の盛岡市玉山区日戸)の常光寺で生まれる。(18年10月27日説もある。)
一(はじめ)と命名。父一禎が住職をしていた。
明治20年(1887年) 1歳
父一禎の転住により、渋民村の宝徳寺に移る。
明治21年1888年)12月20日 2歳
妹光子生まれる。
明治24年(1891年) 5歳
岩手郡渋民尋常小学校(いまの渋民小)に入学。
明治28年(1895年) 9歳
尋常小学校卒業。盛岡市立高等小学校(いまの下橋中)に入学。
金田一京助を知る。
明治31年(1898年) 12歳
県立盛岡中学校(現、盛岡第一高等学校)に入学。
同中で教師大井蒼梧、先輩野村長一・金田一京助らの影響を受け、文学への傾斜を深める。
明治32年(1899年) 13歳
2年に進級。堀合節子と知り合う。
明治35年(1902年) 16歳
同中学を退学。試験でカンニングし、処分されたのが直接の動機といわれる。

啄木が盛岡中学校を退学した経緯については、私のもう一つのブログ「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」の中の「コラム14  試験とカンニング」(https://sf63fs.hatenablog.com/entry/2019/03/16/004722)でとり上げています。ご参照ください。
11月に上京、与謝野鉄幹を訪ねる。
明治36年1903年) 17歳
2月、病により帰郷。
明治37年(1904年) 18歳
「明星」や「時代思潮」の誌面を飾り、新進詩人として注目を集めるようになる。
10月、処女詩集「あこがれ」刊行のため、上京。
明治38年(1905年) 19歳
5月、詩集「あこがれ」刊行。堀合節子と結婚。9月、雑誌「小天地」を発行。
明治39年1906年) 20歳
4月、母校渋民小学校の代用教員となる。12月、長女京子誕生。
  
岩手県立図書館ホームページより
https://www.library.pref.iwate.jp/books/kyoudo/kentaku/takuboku.html

旧渋民尋常高等小学校校舎、現在は移築されています

 啄木は妻・節子の父が岩手郡役所に勤めており、その友人である郡視学・平野喜平に就職を依頼、渋民尋常高等小学校に尋常科代用教員として採用されました。

 このとき、有資格者であるT准訓導が他校へ転出させられました。

 当時の教員は校長の遠藤忠志、主席訓導の秋浜市郎、岩手師範学校女子部出身の上野さめ子、そして代用教員の石川一(啄木)の計四名でした。
 生徒数283名(高等科68名、尋常科215名)で、啄木は尋常科二年を受け持ちました。

 

 ■  月俸八円!

 啄木の小説『足跡』(「スバル」第二号、明治42年2月1日)には次の場面があり、

上記4人の給料が記されています。

 健の月給はたった八円であった。そして、その八円はいつでも前借になっていて、二十一日の月給日が来ても、いつの月でも健には、同僚と一緒に月給の渡されたことがない。四人分の受領書を持って行った校長が、役場から帰ってくると、孝子は大抵紙幣と銀貨を交ぜて十二円渡される。検定試験あがりの秋野は十三円で、古い師範出の校長は十八円であった。そして、校長は気の毒そうな顔をしながら、健にはぞんざいな字で書いた一枚の前借書を返してやる。彼は平然としてそれを受け取って、クルクルと丸めて火鉢にくべる。

 金額はフィクションではなく、当時在籍した4人の実際の俸給月額が記されています。

 次の表は 明治39年岩手県渋民村(ママ)尋常高等小学校の職員の月給です。石川一(啄木)が在職中のものです。
 年齢は数え年です。訓導の上野(うわの)さめ子は、岩手県最初の女性教員だったそうです。
職 位     職 員 名     月俸     備考
校 長     遠藤忠志     18円     高等科担当。師範卒
主席訓導    秋浜市郎     13円     尋常3,4年担当。検定試験上り。50才くらい
訓 導     上野さめ子    12円     尋常1年担当。師範女子部卒。23才。
代用教員    石川 一      8円     尋常2年担当。22才。

「明治人の俸給」(https://coin-walk.site/J022.htm)より

 主人公・新田耕助月俸8円というのは、たしかに薄給には違いないのですが、明治30年代終わり頃としては、特に低い額とも言えないようです。

 田山花袋田舎教師の主人公・林清三(中学卒業、明治35年頃という時代設定)は代用教員としては最高額に近い11円という好待遇でしたが、埼玉県下の代用教員の平均俸給月額は6円50銭でした。(「明治三十五年埼玉県学事年報」による)

 

 それよりも、これは明治の初めから後々の時代に至るまで、ずっと指摘され続けたことですが、小学校教員全体の給料が相対的に低かったことが問題でした。

 上のグラフのように、本科正教員であっても最も多いのは12円であり、作中の校長のように18円という月俸は、高給取りの部類に入るという実態があったようです。

 週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史・上』(朝日文庫、1987年)によると、明治39年(1906)の警視庁巡査の初任給は12円となっています。また、全国の日雇い労働者の平均賃金は日額40銭(25日働いて月額10円)となっていますので、小学校教員の薄給ぶりが想像できることでしょう。

 背景には、給与を負担していた町や村の財政力の乏しさがありました。

 去る二十一日の月給日にも請求致し候ひしも、俸給金村役場より出来ず、お葉書によって今日も催促に参り候ひしも矢張り駄目、これは昨年の凶作の影響にて村税未納者多く、村費皆無のために候、誠に困り入り候、最も私一人でなく、学校の職員四人共同にて融通の余裕もなく、いづこも同じ秋の夕 暮れに御座候。役場にては、月末迄には何とかして払うと申居り候 (明治39年4月23日付けの友人への手紙)下線は筆者

  これは借金をしている友人への手紙なので、やや誇張している部分があるかもしれませんが・・・・。

 一般的に小規模の町や村にとって、小学校の管理・運営にかかる経費、中でも教員の給与は、財政的な負担が大きいことから、給料を抑えることができる代用教員に依存していた面があったと言われています。

 その代用教員の多くは旧制中学校・高等女学校、場合によっては高等小学校の卒業者で、上級学校に進学するための学資を得るために、一時的に代用教員となった者がかなりの割合でいたようです。

 もちろん、在職中に小学校教員検定試験を受けて正教員への道をめざす者も多くいましたが、啄木の場合はまさに「糊口を凌ぐ」ためのものでした。

 

 最後に当時の教え子による回想を紹介しておきましょう。(蒼丘書林『回想 教壇上の文学者 異才の教育実践』より)

 

佐藤 その頃の先生は、月給八円だったということですが、暮らしぶりはどうでしたか。

秋浜 私らが先生の家へ行っていたとき、学校から帰ってきた先生に、奥さんが玄関先で「今晩のご飯ありません」と言っていたこともありました。先生はそのまま二階に上がり、唱歌をうたったり、歌を作ったりしていました。弁当を持ってこないこともたびたびあったようです。

遠藤 でも、当時の百姓は、みんなアワやヒエを食べていたんですから、村で住むなら八円でもやってけたんじゃねえすか。

遊座 結局、お寺さんに生まれ育っていますし、それに啄木の性格もある意味で派手好きだったろうし、文学上のお付き合いも多いといったことが家計に影響していたんでしょうね。

 

 弁当を持ってこれないいわゆる「欠食児童」の存在はよく知られていますが、「欠食先生」もいたのですね。

 

【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション

週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史・上』朝日文庫、1987年

「明治人の俸給」(https://coin-walk.site/J022.htm

※「明治三十八年岩手県学事年報」

海原徹『明治教員史の研究』ミネルヴァ書房、1973年

蒼丘書林編『回想 教壇上の文学者 異才の教育実践』蒼丘書林、1980年