小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

石川啄木「雲は天才である」その3 「教授細目」と「教案」

有佐一郎『学級文庫シリーズ ; 4・5年生 石川啄木 : 薄幸の歌人』(日本書房、1957年)の挿絵

 ある日のこと、主人公の代用教員・新田耕助は自作の「校歌」を子供たちに勝手に歌わせた一件で、校長と首座訓導の古山から注意を受けました。

 古山が先づ口を切つた。『然し、物には総て順序がある。其順序を踏まぬ以上は、……一足飛に陸軍大将にも成れぬ訳ですて。』成程古今無類の卓説である。
 校長が続いた。『其正当の順序を踏まぬ以上は、たとへ校歌に採用して可いものでも未だ校歌とは申されない。よし立派な免状を持つて居らぬにしても、身を教育の職に置いて月給迄貰つて居る者が、物の順序も考へぬとは、余りといへば余りな事だ。』
(中略)
『然し、』と古山が繰り出す。此男然しが十八番だ。『その学校の生徒に歌はせるには矢張り校長さんなり、また私なりへ、一応其歌の意味でも話すとか、或は出来上つてから見せるとかしたら穏便で可いと、マア思はれるのですが。』
『のみならず、学校の教案などは形式的で記す必要がないなどと云つて居て、宅(うち)へ帰れば、すぐ小説なぞを書くんださうだ。それで教育者の一人(いちにん)とは呆れる外はない。実に、どうも……。然し、これはマア別の話だが。新田さん、学校には、畏くも文部大臣からのお達しで定められた教授細目といふのがありますぞ。算術国語地理歴史は勿論の事、唱歌裁縫の如きでさへ、チアンと細目が出来て居ます。私共長年教育の事業に従事した者が見ますと、現今の細目は実に立派なもので、精に入り微を穿(うが)つ、とでも云ひませうか。彼是十何年も前の事ですが、私共がまだ師範学校で勉強して居た時分、其頃で早や四十五円も取つて居た小原銀太郎と云ふ有名な助教諭先生の監督で、小学校教授細目を編んだ事がありますが、其時のと今のと比較して見るに、イヤ実にお話にならぬ、冷汗です。で、その、正真(ほんたう)の教育者といふものは、其完全無欠な規定の細目を守つて、一毫(いちがう)乱れざる底(てい)に授業を進めて行かなければならない、若しさもなければ、小にしては其教へる生徒の父兄、また高い月給を支払つてくれる村役場にも甚だ済まない訳、大にしては我々が大日本の教育を乱すといふ罪にも坐する次第で、完たく此処の所が、我々教育者にとつて最も大切な点であらうと、私などは既に十年の余も、――此処へ来てからは、まだ四年と三ヶ月にしか成らぬが、――努力精励して居るのです。尤も、細目に無いものは一切教へてはならぬといふのではない。そこはその、先刻(さつき)から古山さんも頻(しき)りに主張して居られる通り、物には順序がある。順序を踏んで認可を得た上なれば、無論教へても差支がない。若しさうでなくば、只今諄々と申した様な仕儀になり、且つ私も校長を拝命して居る以上は、私に迄責任が及んで来るかも知れないのです。それでは、如何(どう)もお互に迷惑だ。のみならず吾校の面目をも傷つける様になる。』
『大変な事になるんですね。』と自分は極めて洒々(しやあしやあ)たるものである。尤も此お説法中は、時々失笑を禁じえなんだので、それを噛み殺すに不些少(すくなからず)骨を折つたが。『それでつまり私の作つた歌が其完全無欠なる教授細目に載つて居ないのでせう。』
『無論ある筈がないでサア。』と古山。
『ない筈ですよ。二三日前に作つた許りですもの。アハヽヽヽ。先刻からのお話は、結局あの歌を生徒に歌はせては不可(いかん)、といふ極く明瞭な一事に帰着するんですね。色々な順序の枝だの細目の葉だのを切つて了つて、肝胆を披瀝(ひれき)した所が、さうでせう。』

 

■    「教授細目」とは
  「学校には、畏くも文部大臣からのお達しで定められた教授細目といふのがありますぞ。算術国語地理歴史は勿論の事、唱歌裁縫の如きでさへ、チアンと細目が出来て居ます。」

 よほど教育史に関心がある方でないと、「教授細目」などという言葉は初耳ではないかと思います。

 『精選版 日本国語大辞典』には次のような説明があります。この言葉が出てくるのは管見では、本作品ぐらいのようです。
   

〘名〙 学習指導計画、学習指導案に相当する、旧学制下の用語。教科ごとの教材を各学期、各週に配列し、教材の指導目標、内容、方法などを書き、授業の予定を示したもの。
※雲は天才である(1906)〈石川啄木〉一「畏くも文部大臣からのお達しで定められた教授細目といふのがありますぞ」

※「学習指導案」というのは誤解を招くのではないでしょうか。これは後にふれるように、古くは「教案」と称されていました。

尋常科5年・高等科1年用「日本歴史」教授細目(「明治41年 石川県師範学校附属小学校)

 「教授細目」という言葉が初めて登場したのは、明治24年(1891)の「小学校教則大綱」においてでした。

 その第二十条に「小学校長若(もし)クハ首席教員ハ小学校教則二従ヒ其(その)小学校二於テ教授スヘキ各教科目ノ教授細目ヲ定ムヘシ」という規程があります。

 この規程により各学校は、地域や学校の実情に応じて「教授細目」を定めなければならないことになりました。

国(文部省):「小学校教則大綱」
             ↓

 府県:「小学校教則」(文部大臣の認可を要す)
             ↓
各学校:「教授細目」
             ↓

 各教員:「教授週録」

 このように、「整然とした学科課程の管理組織の確立」文部科学省『学制百年史』)が見られたわけです。

  ただ、小規模校が多く、教員の配置も不十分であったこの当時、各学校単位で教授細目を作成することは、なかなか困難なことでした。そこで、郡や市の校長会、教育会などが編纂委員会を招集して作成していたケースが多いようです。

 また、各府県の師範学校附属小学校においては、各教科の教授細目を編成、刊行しており、府県内の学校がそれを「参考」にしていたものと思われます。
 実際、本作品のように代用教員を入れてわずか4名の教員で、「地域や学校の実情に応じた」各学年・各教科の教授細目を作成することなど、とうてい無理な話でした。

 

 啄木は「渋民日記」(明治39年4月24~28日)の中でも、「文部省の規定した教授細目は『教育の仮面』にすぎぬのだ」と述べており、本作品における新田耕助の言動は、作者・啄木の教育観を素直に反映したものであることがうかがえます。

  余は余の在職中になすべき事業の多いのを喜ぶものである。余は余の理想の教育者である。余は日本一の代用教員である。これ位うれしい事はない。又これ位うらめしい事もない。余は遂に詩人だ、そして詩人のみが真の教育者である。
 児童は皆余のいふ通りになる。就中たのしいのは、今迄精神に異状ありとまで見えた一悪童が、今や日一日に自分のいふ通りになつて来たことである。教授上に於ては、先ず手初めに修身算術作文の三科に自己流の教授法を試みて居る。文部省の規定した教授細目は「教育の仮面」にすぎぬのだ。 ※下線は筆者

 

■ 教案を書かない代用教員

旧渋民尋常高等小学校の教室

 教案

〘名〙 授業の前に、教材の指導目標に基づく指導過程を考え、時間を配当し、目的、方法などを記述した予定案。教授案。指導案。
※雲は天才である(1906)〈石川啄木〉一「学校の教案などは形式的で」

 石川啄木(本名・一 はじめ)が渋民尋常高等小学校に在勤中、作中のように「教案などは形式的で記す必要がない」などと言って本当にそれを書かなかったのかどうかについては、伝記や同僚の証言などでも確認はできませんが、「足跡」という自伝的要素の強い作品の中にも下記のような部分があることから、彼が授業の前に「教案」を作成し、校長の「検閲」を受けるという当然の義務を怠っていた可能性はあると思われます

 

(S村尋常高等小学校で代用教員の千早健の同僚孝子が同窓の女友達の一人へ遣つた手紙から)

先生(千早健)は又、教案を作りません。その事で何日(いつ)だつたか、巡(まは)つて来た郡視学と二時間許り議論をしたのよ。その時の面白かつたこと。結局視学の方が敗けて胡麻化(ごまくわ)して了つたの。」

石川啄木「足跡」(「青空文庫」、底本:『石川啄木全集 第三巻 小説』筑摩書房、1978年)

岐阜県稲葉郡小学校長会 編 『教案編成法』(玉成堂、1900年)
より第三編「教案例」第一章教授日案用紙
 右端の枠内には、「予備」「提示」「比較」「統括」「応用」と印刷されています。当時我が国で大流行していたヘルバルト派の五段階教授法を前提としたものになっています。

 

 「国立国会図書館デジタルライブラリー」で「教案」と検索すると、当時刊行されていた各学年各教科の「教案例」が多数見つかります。

 教育界で指導的な立場にある人物や師範学校附属小学校教員によるものが多いのは、上述の「教授細目」と同様です。

徳島県師範学校附属小学校「尋常3年修身科教授案例」明治41年(1908)

 今は教科書会社が作ってくれた(?)「教師用指導書」なるものがありますが、作品の当時は国定教科書の時代でした。やはり現場ではそうした刊行物を「参考」にせざるを得ないような状況があったのではないでしょうか。

 

※ 国会図書館といえば、従来からよく利用させてもらっていたデジタルライブラリーに、5月から「個人向けデジタル化資料送信サービス」というのが始まり、本登録を済ませました。これまでの公開点数約56万から153万点と3倍近くに拡大し、戦後の著作物でも絶版などで入手困難なものが閲覧できるようになりました。

一昔前には想像も出来なかったようなことが現に起こっており、ずいぶんと助かっています!

 

【参考・引用文献】
文部省『学制百年史』ぎょうせい、1971年
 ※岐阜県稲葉郡小学校長会 編 『教案編成法』玉成堂、1900年

徳島県師範学校附属小学校編『各科教授案例』黒崎静寿堂、1908年

※石川県師範学校附属小学校『石川県師範学校附属小学校各科教授細目. 上』1908年

石川啄木「足跡」(「青空文庫」、底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房、1978年)